• 「失敗の本質」から学ぶ組織論⑤~184 組織開発(OD)の実践って、どうするの?-~

「失敗の本質」から学ぶ組織論⑤~184 組織開発(OD)の実践って、どうするの?-~

「失敗の本質」を日本軍の組織特性に求める視点、組織上の失敗要因は以下の4つです。

「人的ネットワーク偏重の組織構造」「属人的な組織の統合」「学習を軽視した組織」「プロセスや動機を重視した評価」。今回は、属人的な組織の統合についてです。

属人的な組織の統合とは、「失敗の本質」によると、日本軍の作戦行動上の統合が、一定の組織構造やシステムによって達成されるよりも、個人によって実現されたことをいいます。その背景にあるのが、日本軍の作戦目的が曖昧であったため、現場での微調整を絶えず要求し(インクリメンタリズム)、判断の曖昧さを個人間のコミュニケーションで統合せざるを得なかった状況があったこと、また、日本軍の幹部人材育成の仕組みと人事システム(人的ネットワーク偏重の組織構造)により人的ネットワークが形成され、それを基盤とした集団(関係)主義的な組織構造の存在です。これにより、個人による統合を可能にする条件が提供されたのです。このような個人による作戦統合は、一面、融通無碍な行動を許容しますが、他面、原理・原則を欠いた組織運営を助長し、計画的・体系的な統合を不可能にしてしまう結果に陥りやすいものです。

近代的な大規模作戦は、陸・海・空の兵力を統合し、その一貫性・整合性を確保する必要があります。また、個々の戦闘においても、歩兵・砲兵の銃砲火器や飛行機・戦車など大量の戦力を統合できる組織・システムが開発されている必要があります。このようなことは、現場単位での個人間のコミュニケーションで統合できるものではないのです。この点で米軍は優れた統合力を発揮し、日本軍を圧倒したのです。要するに、物量やその裏付けとなる豊富な資源や大量生産システムだけでなく、組織マネジメント力に大きな差があったと言わざるを得ないのです。「失敗の本質」の分析に沿って、組織構造やシステムをもう少し詳しく見ていきましょう。

統合作戦の策定のためには、参謀組織の上部構造に統合システムが構築されている必要があります。米軍の上級参謀組織には、陸軍が参謀総長をヘッドとする参謀本部、海軍には作戦部長に率いられた作戦部がありました。日本軍もこの点は同じですが、米軍では開戦と共に、陸・海二つの参謀組織を統括する統合参謀本部(Joint Command Staff)が、ルーズベルト大統領により組織されます。そして、統合参謀本部は大統領の決定権に従属する立場です。したがって、陸・海軍の作戦は、統合参謀本部において検討され、必要な調整を行ったうえで、統合作戦として統一的な作戦体系を構築することができたし、それは最終的には大統領によって決定され、実施に移されるのです。また、米軍海兵隊が中心となる戦闘レベルでの統合作戦である水陸両用戦は、1922年から1935年にかけてすでにつくり上げており、日米戦で多くの改善を加えています。

他方、日本軍においては陸・海・空の三位一体作戦についての共同研究らしいものはほとんどなかったといいます。日本軍はもともと、明治40年の「帝国国防方針」以来、40年近くに渡り、陸軍はソ連を、海軍はアメリカを仮想敵国と見なし、そのための戦力・戦備・戦術を充実させてきています。このため最も基本的な部分ですでに統合に対する障害があったのです。とはいえ、日本軍も戦時機関として大本営が設けられ、陸海各々の統帥機関も「大本営陸軍部」「大本営海軍部」として位置づけられ、大本営は陸海軍の統合を重要な任務としています。しかし、これは十分機能しないのです。陸海軍の間には、戦略思考の相違、機構上の分立、組織の思考・行動様式の違いなどの根本的な対立が存在し、その一致は容易ではありませんでした。例えば、昭和17年3月7日の大本営政府連絡会議で決定された「今後採るべき戦争指導の大綱」は、陸軍と海軍の妥協的折衷案のようなものであり、その第一項には「英を屈伏し、米の戦意を喪失せしむる為、引き続き既得の戦果を拡充して、長期不敗の政戦略態勢を整えつつ、機を見て積極的の方策を講ず」とあります。東条首相でさえ、さすがに「これでは意味が通らない」と不満を漏らしたそうです。

このように、日本軍における陸海軍の統合作戦展開を実現するという大本営の目的が十分達成できなかったのは、組織機構上の不備が大きな理由としてあげられます。大本営にあっては、陸海軍は各々独自の機構とスタッフを持ち、相互に完全独立し、併存していたのです。両軍の協議が整わない場合、これに裁定を下せるのは天皇だけでしたが、しかし、天皇はここの問題に対して、自ら進んで指揮・調整権を行使することはありませんでした。天皇は、両軍の統帥や軍政上の対立については、両者の合意の成立を待ってその執行を命じるという形で自らの機能を果たしていたのです。こうした問題に対処すべく日本軍においても幾つかの試みがなされています。例えば、陸海軍両統帥部次長以下の作戦関係部課長を構成員とする「大本営参謀会議」が設置されたり、政府と大本営との間を調整する「大本営政府連絡会議」が設置されたりしましたが、いずれもそこで行われる議論を最終的に決定すべき上部機関を欠いています。その他、「両総長を廃止し、別に一幕僚を置き、その下に陸海軍混合の幕僚を置く」「陸海軍部幕僚が同一場所に勤務し、連絡を密にし、かつ策応を容易にする」など、幾つかの案が検討されましたが、陸軍省や海軍省の反対にあい、ほとんど見るべき成案はありませんでした。結局、日本軍が陸海軍共通の作戦計画として策定したのは、昭和20年1月20日決定の「帝国陸海軍作戦大綱」であり、これは本土決戦の遂行に備えるものでした。さらに、この共通の作戦にあたってもなお、陸海軍の一致は得られず、7カ月足らずで日本は敗戦を迎えます。この分析は、組織を統合的に動かすにあたり、組織設計およびその土台となる組織運営の思想がいかに重要かを描き出しています。(続く)

 

この記事の書き手はJoyBizコンサルティング(株)波多江嘉之です。