• ポスト・コロナ番外編:合理的社会は面白いか?~組織開発(OD)の実践って、どうするの?-【75】~

ポスト・コロナ番外編:合理的社会は面白いか?~組織開発(OD)の実践って、どうするの?-【75】~

~マクドナルド化する社会

アメリカの社会学者ジョージ・リッツァが著した「マクドナルド化する社会(1993年)」という本があります。これは、効率一辺倒の社会の行きつく先を考察したものです。

マクドナルド化という概念は、官僚制、科学的管理法、組立作業ラインといったモデルを基礎とするものです。それは、20世紀を通じて実践された合理化の頂点がマクドナルドであるという主張です。なるほど、これは面白いという事でちょっと探ってみました。読者の皆さんは「そんなこともう知ってるよ」という方々も多くいらっしゃるとは思いますが、組織開発(OD)では外せないテーマなので、ちょっと覗いてみます。

マクドナル化する社会は、マクドナルドのオペレーションシステムの合理性(経営哲学)に注目し、そこから不可避的に発生する問題について言及しています。ここでの合理性は、「効率性、計算可能性、予測可能性、制御」という4つの特徴から成り立ちます。

 

効率性とは、「目標に対して最良の手段を追求すること」という意味で使われています。マクドナルドは生産過程を簡素化し、商品の単純化を図ることによって、消費者の空腹を満腹にする目標に対して、最良の手段を追求しました。例えば、調理方法のマニュアル化、ドライブスルー方式の注文、商品種類の限定により客の商品選択の簡素化を図りました。また、お客を働かせること(セルフサービス)により、効率化をさらに実現させました。お客は注文するためにカウンターまで行き、席の確保やゴミの処分も客自身で行います。

 

計算可能性とは、販売される商品の量、商品を手にするまでにかかる時間を計算できることです。例えば「ビッグ」や「ダブル」などの言葉を用い、質よりも量によってその商品の価値を計算し、価格に対する納得感を演出します。同時に、商品を作る従業員も、いかに早く多くの量の商品を生産できるかを重視しています。日本のマクドナルドで10年程前、ドライブスルーでお客を30分で何件捌いたかというコンテストみたいなのがあって、100件近くを捌いた記録を出した店がありました。

 

予測可能性とは、消費者にとってマクドナルドの商品及びサービスはどの店舗でも均一であり、予測可能であることです。これを担保するのがマニュアルです。お客はどのようなサービスを受けられるかあらかじめ予測できるので安心感があります。従業員側から見ても、仕事が楽になり、迷いなく効率的に作業できます。

 

制御とは、商品を手に入れるために並ぶ行列、選択の余地のないメニュー、座り心地の悪い椅子、客自身が後片付けをすることなどというオペレーションの特徴があります。根底には、合理化の障害は人間であるという考え方があり、機械化されたシステムによりミスやエラーを無くそうという試みです。

 

でもって、この4つの特徴に代表される合理化の行きつくところが、脱人間化による非合理性なんですね。つまり、合理化を実行する従業員にもたらされるのは脱技能化(特別なスキルはいらない)、 非人間化(自分で考えない)、そして機械化と言えます。従業員は、人間なのに機械のような存在になってしまうのです。これがいわゆるマクドナルド化する社会の問題です。この考察のバックグラウンドには、マックス・ウェーバーの官僚制の逆機能(負の側面)があります。

ジョージ・リッツァによれば、マクドナルド化が進めば、人々は活気を失い、自ら考えることをやめ、機械のように手順通りに動くことしかできない人間が増えて行きます。そして、一度そうなった人間は、特殊なスキルや高度な知識も持たないので、取り替え可能な存在になってしまうのです。ということで、マクドナルド化する社会とは、ファーストフード業界を例にとって、教育、医療、旅行・レジャー、政治など、社会のあらゆる面に影響を与えているパラダイムを考察しているのです。

なんで私が「マクドナルド化する社会」に興味を持ったかというと、あれですよ、あれ。「新しい生活様式」という、学者さんと政府/各自治体が提唱しているwithコロナの社会での生活様式のことです。もちろん「新しい生活様式」の中でも、みなさんいろいろな工夫をやっていまし、それは必要なことであると思います。言いたいのは、合理的でないことをやる、遊びがある、猥雑な中に面白さがあるという、なんとも言えない「人間味」を感じる社会が私的には魅力的なんですけどね。

~生活・組織・社会に遊びは必要だ

フランスの社会学者でロジェ・カイヨワ(1913年~1973年)という人がいます。『遊びと人間』という本で有名な人です。オランダの歴史家であるヨハン・ホイジンガからの流れを受け継ぎ、遊びと文明・人類文化を研究する壮大な哲学です。

厳密には、深い考察のもとに遊びと人間社会をひも解いていますが、ここではちょっと良いとこ取りで遊びの類型を覗いてみます。受け入れられたルールと自分の意志の軸で4つの分類ができるのですが、ここではその類型のみを見てみます。

・競争がある(アゴン):参加者は、受け入れたルールの中で自分の意志で戦略を立て勝負する。

・運が付きもの(アレア):ルールはあるが、勝負は自分の意志で決まるものではなく時の運に左右される。

・真似(模倣)がある(ミミクリ):参加者は自分自身を離れ、異なる自分を演じることができる。演劇、子供のごっこ遊びなどはこの代表。

・眩暈がある(インクリス):ルールから自由であり、その場対応が要求され勝敗はつかないような遊び。ブランコからジェットコースターまで、たいへん大きなカテゴリー。

 

最初の2つは、ルールに従わせる力が働き、後の2つはルールから自由であろうとする力が働いています。カイヨワは、ルールに従わせる力のことをルドゥス(Ludus:恣意的だが強制的でことさら窮屈な規約に従わせる力)と名付け、ルールから自由であろうとする力のことをパイディア(Pidia:即興と歓喜の間にある、規則から自由になろうとする原初的な力)と名付けています。

「新しい生活様式」の時代は、アゴンとアレアの時代ですよ。ルールがあって、その中でいろいろ工夫しなくてはならないけど、時に政府や知事の思惑で自分の意志には関係なく物事を進めなくてはならなくなる、窮屈な世界です。私的には、ミミクリとインクリスがあるから世の中面白いと思うんですけどね。どうなんだろう?

理性ではミミクリとインクリスで日常を過ごすと危ないな、コロナの第2派危険だよとは思うんですよ。新しい生活様式の合理性に優位性があるだろうと思っても、気持ちでは「面白くないな」と感じるのですよ。

合理的な社会は、多分一握りの人を除いて、人々を従順な家畜にしてしまうのかもしれません。話が飛んじゃいますが、香港や台湾は、それを嫌がっているのかな???

 

※この記事の書き手はJoyBizコンサルティング(株) 波多江嘉之です