• ポスト・コロナの組織を考える⑤~組織開発(OD)の実践って、どうするの?-【73】~

ポスト・コロナの組織を考える⑤~組織開発(OD)の実践って、どうするの?-【73】~

~目次~

1.権威主義的組織とは何か

●権威主義は官僚制組織の特徴か?

●フロム「自由からの逃走」と権威主義

2.逃避のメカニズムと権威主義

●フロムのパーソナリティへの考察からみる人々の「人気」の重要性

●マゾヒズム・サディズムから権威主義を考察する

 

~権威主義的組織とは何か

組織論で語られる類型に権威主義的組織というものがあります。権威主義は官僚制組織の特徴として語られることもありますが、官僚制組織(ティール論の分類でいうとアンバー)というのは特定の個人への依存を階級的ヒエラルキーに基づく役割分担によって減らすことに特徴があり、それによって多くの人を統率することが可能になった組織です。この組織パラダイムの根っこには、マックス・ウェーバーの合法的支配の考え方があります。

アンバーでは、人々の興味や思いやりの対象は個人から集団へと拡大することによって成り立つタイプと説明されます。いずれにせよ、組織運営は規則に基づく安定を重視しており、内向き志向が強くなります。こうやって見ると権威主義は官僚制組織(アンバー)の特徴ではないようです。

とはいえ、役割という期待されている行動に沿った行動をいつもとることによって「自分の考え」を放棄してしまう事はあるでしょう。従って、官僚制組織は権威主義的文化を生みやすいという事はあるかもしれません。では、権威主義とは何か。E.フロムを参考にして考えてみます。

 

著書「自由からの逃走」での彼の考察によると、第一次世界大戦は、当時のヨーロッパやアメリカの人たち(という事はキリスト教圏の人たち)には「最後の戦い」と認識されており、その決着は自由のための最終の勝利の筈でした。しかし、わずか数年のうちに人々が数世紀の長い戦いの中で勝ち得たと思っていた一切のものを否定するような新しい組織が出現したのです。

それが権威主義的組織です。この組織の本質は、ごく少数の人々を除き、全ての人々が、自分で支配することのできない権威へ服従することにあります。

 

当時の人々は、ヒトラーのような存在はただ権謀術策で人々を支配し国家権力を獲得したのであり、人々は欺かれ、脅かされたために、意思のない存在になったのだと考えていました。しかしこれは大きな間違いだったのです。フロムによれば、当時のドイツの数百万の人々は、彼らの父祖たちが自由のために戦ったと同じような熱心さで自由を捨ててしまい、自由を求める代わりに自由から逃れる道を探し、そして多くの大多数の人たちは自由という事の意味に無関心であり、自由を求めるために戦ったことを価値あることと信じていなかったのです。

そしてこれは、自由で民主的な形態を標榜する近代国家がすべて直面している問題なのです。これが「自由からの逃走」です。前回のODメディアの最後で述べた「不自由だけど安全を保障される組織/社会」を好むか、「自由だけど一人ひとりがリスクに対処することが求められる組織/社会」を好むかの選択に迫られる、という私なりの表現をフロムの言葉そのもので紹介すると次のようになります。

『私たちが自由となればなるほど、そして個人となればなるほど、人間に残された道は「愛や生産的な仕事の自発性の中で外界と結ばれる」か、「自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定性を求める」かのどちらかである』と。後者が、権威主義的組織が生まれる人間の心理的側面です。

~逃避のメカニズムと権威主義

フロムは私たちのパーソナリティについても様々に考察していますが、そのパーソナリティの一つに「市場的構え」というものがあります。

これは、製品市場において売れない商品が無価値であるのと同じように、ある人間の持っている特性が市場(集団)において役に立たなければその人間は無価値であると考えてしまうような特徴を持っているパーソナリティです。このタイプにおいては、自信とか自我の感情は他人の自分の対する考えであり、市場における人気や成功とは無関係に自己の評価を確信している自我ではありません。

従って、他人から求められる人間はひとかどの人間であり、そうではない人は無価値な人間という事になります。近代人にとって自己評価は周囲の期待に適っているかどうかであり、人々からの「人気」は、フロムの言を借りると「恐るべきほど」重要さを持ってきます。自尊心を保つことができるかどうか、劣等感の深淵に陥るかどうかということも、全て人気にかかっています(フロム、自由からの逃走、P136~137)

・市場的構えについては、詳しくはフロム著「人間における自由」を参照してください。

いや~~、アメリカとトランプさんの関係を見ているようですね。

 

さて、逃避のメカニズムですね。フロムは「逃避のメカニズム」という中でマゾヒズムとサディズムを取り上げ、権威主義を考察しています。

マゾヒズム的な人間は劣等感・無力感・個人の無意味さの感情にとりつかれており、それを克服するために自分の外側の力に寄りかかろうとします。サディズム的人間は孤独感と無力感から逃れるために他者を支配しようとします。サディズム的人間は支配する他者が居なければ自分の欲求を満足させることができないという意味で、支配する人間に依存しているといえます。どちらも他者に依存しているという事に変わりはないのです。

サド・マゾヒズム的性格のうち、ことに神経症的ではなくて正常な人間をさすばあい、フロムはそれを「権威主義的性格」と呼びます。権威主義的性格の人間は権威を讃えて服従しようとする一方、みずから権威となって他のものを服従させたいと願います。このような権威主義の困った側面は次のような行動に見られます。

それは、権威主義者の行動はすべて、優越している何者かのために行動するという事であり、そこから新しい何かを生み出すことが目的ではありません。行動は、自分より優れた権威に対する愛と尊敬の表現に他ならないのです。このような権威主義者の勇気とは、宿命や自分たちの代表者が決定した事柄を「耐え忍ぶこと」です。これが彼らの最高の美徳です。そして、もしその信じている権威が弱点を表すと、愛と尊敬は軽蔑と憎悪に容易に変身します。

 

近代社会において、孤独や無力を克服するために個人が自分自身であることをやめることをフロムは「機械的画一性」と呼びます。それは、私たちが活きている世界の中で期待される行動を取ることでもあります。

なぜ人はそのように文化的な鋳型によって与えられるパーソナリティを受け入れるのか、それはその時代の社会的規範に沿った行動をしていれば、少なくとも私と外界との矛盾はなくなり、同時に孤独や無力を恐れる意識もなくなります。つまり、「私は受け入れられている」という安心感を持つことができるのです。しかしフロムはこの代償は大きいと言います。それは自己の喪失です。

 

多くの人たちは、何かをするときに、それは自分自身の決断であると考えていますが、フロムは、それは幻想にすぎないと言います。私たちの決断の大部分は、私たち自身の決断ではなく、実際は外部から私たちに示唆されたものなのです。決断を下したのは自分自身であると信じることができても、実際は孤独になることの不安や、私たちの生命・安楽に対するより直接的な脅威に駆り立てられて、他人(権威ある人)の期待に歩調を合わせているに過ぎないのです。

私たちはそれほど合理的な思考ができる存在ではありません。コロナ禍で「政府が決めてくれたら助かる」と言うのと同じです。確かに政府が責任を持って決めなくては国民が困ることはたくさんありますが、ここで考えておきたいことはそのことではなく、私たちの意思決定や行動は、多くの場合、文化的な産物なのだということです。日本の政府も人気がなければ引き釣り降ろされますからね。

ここに、ポピュリズムとしての行動を無意識に取ってしまう深い闇のような世界を垣間見てしまうのは、私だけでしょうか。

 

※この記事の書き手はJoyBizコンサルティング(株) 波多江嘉之です。