人生目標を自覚する 前編

配信するたびに多くの反響をいただく川野先生のインタビュー記事第3弾です。

今回は「人生目標の持ち方」についてお話を伺いました。人生目標はいわばビジョンのようなものでビジネスや仕事の成果とも密接に関わりがあるとされています。一方で、目標意識がなく軸を持てずいまいち仕事の成果もパッとしないという悩みを聞くことも増えてまいりました。そこで今回は人生目標という自分の軸というテーマをお題にお話ししていただきました。

(聞き手はJoyBiz竹本です。)

この記事は二部構成です。続きは、

人生目標を自覚する 後編

をご覧ください。

1 川野先生の最近の著書「人生がうまくいく人の自己肯定感」にてこれまでのインタビューでお話をいただいている内容も含めてより広く深く解説いただいています。また禅や瞑想を日常の中により取り入れやすくしていくポイントを紹介している「ずぼら瞑想」も実践書としてご活用いただきやすい内容です。ご関心があればぜひそちらもご覧ください!

2 インタビュー中の「モメンタム」という考え方についてはJoyBizメルマガや代表恩田のブログでこれまでも何度も触れてきましたが、上記「人生がうまくいく人の自己肯定感」の中で川野先生にもご紹介いただきましたのでよろしければそちらも合わせてご参照ください!

人生目標は選ぶのではなく自覚すること ~気持ちのマスクを外してみる~

竹本:

本日のお題の「人生目標」なんですが、これはビジネスにおいても「自分の軸」かと思っていまして、いわば仕事の目的に当たるものだと思います。これがないと逆境で踏ん張れなくなったりするのかなと。もちろんしっかりと人生目標を見据えている人はそうした場面でも壁を乗り越えていくマインド的な強さをもっているともいえると思います。一方で人生目標というだけあって、そうそう簡単に見つかるものでもないですし、逆に最近では「そんな大きな目標なんか持っても意味がない」という風潮すら感じております。こうした時代にあって「どのように人生目標を見つけていけばいいのか」という問いに多くの方が悩んでいるのではないかと思いまして、禅や精神医学の中に何かヒントがあるのではないかと思っているのですが・・・・

川野先生:

なるほど。なかなか重いテーマですね笑 とはいえ非常に重要なテーマです。一般的に人生目標や夢を見つけるといったときに、世の中にこういったことがあるよ、という知識を詰め込んで選択肢を並べたうえでそこから夢をみつけましょう、というアプローチが多いような気がします。実際にこれらは引きこもりの患者さんのリハビリなどにも用いられるアプローチでもあります。ただ、禅の世界ではそうしたアプローチはあまり頼りません。なんといいましょうか、将来の、ある意味大仰な夢ではなくて、日々の生活自体が禅だからです。

そのひとつひとつの生活事象や行動・行為に研ぎ澄まされた注意をもって向き合っているだけなんですね。そのように一つ一つの事柄に注意をもって向き合っている中で「これは!」というひらめきが出てきます。私はこれをデフォルト・モード・ネットワークの鎮静化と呼んでいますが、雑念によって浪費しているエネルギーが一つのことに集中され、エネルギー浪費が穏やかになり、残されたエネルギーが本来やりたいと思っていることに向かっていきます。心の奥底に眠っている事柄、例えば幼少期の体験や、大人の世界では無きものとして意識下にしまい込まれていたもの、そういったことに対して気づくことになります。ある意味童心に帰るということですね。こうした体験を経て、「私は本当はこういったことがやりたかったのか!」と得心のいった経験をもっている人は結構いるのではないか、と思います。それを現在のキーワードでいうとクリエイティビティという言葉で表願したりもします。発想力が豊かになっていくイメージですね。しかし一般的には、そういった「本来はこうしたことがやりたいんだ!」という本当の気持ちは、社会的立場や理性によってマスクされていることが多いものです。実は面白い発想が眠っているのですが、非常に残念なことです。

人生目標ということを考えても、そのマスクを取り払うということが非常に大切なのではないかと思います。心にのっかっている「蓋」を外してあげるという作業が大事なんですね。心の中には何もないんだ、空っぽなんだという方はいませんから。しかし最近ですが、特に若い世代の方と触れ合っていると、なかなか外しがたい蓋に覆われているなと感じます。「何がしたいんですか?」「好きなものは何ですか?」「楽しいことはありましたか?」などの質問に対してすべてNOが返ってきます。「別に、特にないです」といった具合です。考えても出てこない様子ですね。もちろん言いたくない、とか自分(川野)と話したくないという可能性もあるかもしれませんけどもね(笑) しかしあの手この手で聞いても感情表現が希薄なんですね。

じゃあそういう方々は普段なにしているの?と思いますが、聞くと普通に友達と遊んだり、笑ったりしています。しかし心の底からは楽しんでいないという状態といえるかもしれません。表面的には笑ってはいるのですがどこか楽しめない。そういう方は、労せずして自分が期待している反応を相手から得られるような遊びを好む傾向にあるので、ゲームの世界に入っていくというケースも多いですね。いろいろなゲームはあると思いますが、基本的には誰かが設計をしてある程度達成感を味わえるように作られています。期待した反応と近い反応がゲームの中では得やすいのです。その過程を通して自分の承認欲求も仮想空間の中で満たされるというわけです。

気持ちのマスクと未知への恐れ

最近顕著に感じているのですが、好きなことをなんでもやっていいよと言われると困ってしまう人が多くなっているように思います。好きなことをやっていいよと言われてそれを喜ぶ人はモメンタムが高い人だと思います。もともと心の活力が高く、ワクワクしながら日々生きているんですね。しかし最近はなんでもやっていいよ、と言われたら「じゃあ家帰ります」みたいになってしまう傾向があります。昔は学校でも、自習になってなんでもしていいと言われたらワクワクしたものですが、今はワクワクがなくなっているのではないでしょうか。知的好奇心や行動意欲もそうです。未知のものに対する探究心が希薄になっていると感じます。私の禅のお師匠さんはじめ、厳しい修行を長年に割って続けてこられた禅僧の方々を見てみると、まだまだ知らないこと・未知のことについての好奇心やワクワクする心を忘れない人が多いです。かといって知識を得て舞い上がることもなく、それならこうしてみよう、そうなるとああなるな、などの新しい発想がわいてくるのです。

現代の方々はいわゆる「安パイ」を求める傾向が強まってきたのではないでしょうか。未知のものが出てくると過剰に不安になってしまうのです。これら心のありようの変化はレジリエンスやモメンタムの低下と密接に関連していると思います。この変化は、おそらくはストレスから身を守る防衛反応なのだと思います。心の活力(レジリエンスやモメンタム)があるときにはある程度のストレスはプラスの力に作用します。ストレスがあることによってそれを成長の糧にするのです。レジリエンスを高めていくための大事な要件の一つと言われていますね。それらの健全な反応が起きづらいのは、おそらく、注意力または心のエネルギーの余力が全くないからではないでしょうか。学業成績のプレッシャーや成功者のイメージ、親から植え付けられているもの、スマホからの大量な情報に追い詰められていくのです。「LINEやメッセンジャーの返信をしなければ・・・」といった具合です。こうなると脳は自由な発想力を失ってしまいます。余計な情報入れないでくれ、となってしまうのです。

こうしたことから自然な目標がマスクされて埋もれる、という先ほどの話につながってきます。自由な発想を失って、新しいアイディアがすべてマスクされるとこの世はつまらなくなってしまうでしょう。アイディアが出てこないのです。無事事なきを得るということ、つつがなく過ごすということに主眼が置かれてしまいます。

※続きは次週配信予定