組織・集団の中で生きる禅の思想(前編)

前回多くの反響をいただいている川野先生のインタビュー記事の第二弾です。
今回は「組織・集団の中に生きる禅の思想」ということでお話をいただきました。
まず前編は禅の思想の中に存在する集団の中での個のあり方について大切な考えを教えていただき、後編ではそのお話をもとに現在のビジネスでの応用を深く考察いただいております。

この記事は二部構成です。続きは

組織・集団の中で生きる禅の思想 後編(6月25日配信予定)

をご覧ください。

 

竹本:
先日のインタビューではありがとうございました。前回はリーダーのあり方という重要なテーマについてお伺いをしましたが、今回は実際の企業における組織や集団の中での禅というテーマでまたお話を伺えればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

川野先生:
こちらこそありがとうございました。とても重要なテーマですね。非常に良いタイミングなのですが、先日円覚寺の横田南嶺老師から教えていただいた素晴らしい話がありますので是非そちらをお伝えできればと思います。

禅の考え方には「四料揀(しりょうけん)」というものがあります。臨済禅師という方が臨済宗の開祖ですが、もともとこれは中国で始まっており、その教えが栄西禅師によって日本に伝来してきました。

四料揀(しりょうけん)とは修行の有り様に4つの段階があるというお話です。ただし横田南嶺老師は、これは人生の有り様そのものであり、修行道場は全くこの通りにあるべきであるとおっしゃっています。私はひいては実社会(ビジネス)の世界でも非常に重要である考え方だと考えています。
四料揀(しりょうけん)とは「人」、「境」、そして「奪」という3つの漢字を含んだ、4種類のフレーズで表現されます。
「人」は自分、「境」は環境、つまり他者や環境のことを指します。

奪人不奪境の段階

最初の段階は「奪人不奪境」です。それは環境を奪わず、自分自身を奪う(無くす)という、つまり「自分をなくして、周囲に没入する」という意味です。修行道場では最初は庭詰(にわづめ)、旦過詰(たんがづめ)ということをやり、これが登竜門のようなものです。これが終わるとやっと修行に入っていくことができます。会社でいうと新入社員研修や配属後の最初数ヶ月のことだと思います。この時には、環境のやり方に一度全て合わせる、自分を滅して、没入し自分をそこに合わせていくという柔軟性が非常に重要です。この段階からつまずいてしまうとその人は適応障害を起こしてその集団がチームにならなくなってしまいます。強く我を出してしまうと周囲と溶け込むことができず早期退職などがありえます。一度自分が属する集団の考え方に染まりきってみたときにまた違う考え方を得ることもあります。100パーセント理想的な職場などはないわけで、最初は肌に合わないと感じていても途中から見るべきところがあることに気づくこともあります。一度「滅私」をするということが非常に重要な考え方です。修行道場で言えば、どんなに心幹がない方でも一度は厳しい登竜門を経ないとダメということです。最近では若い方は残念ながら途中、それもこの最初の5日間すら居続けることができないでやめてしまう方もいらっしゃいますが、こうしたことを見るにつけ心幹のなさを痛感してしまいます。自分を滅する経験がないと心幹もできないのではないか、とも言えます。そういう意味では心幹を作る上でも奪人不奪境は重要だと思います。これが第一段階です。

奪境不奪人の段階

次が第二段階です。そのまま自分を捨てて終わりではもちろんありません。それだとただの統制的な集団で終わってしまいます。悪い意味での根性論的な話で終わってしまうのではないかと思います。場合によっては洗脳という考え方にもつながってしまいます。そこで終わってしまってはいけません。四料揀(しりょうけん)は四つの段階があり、今自分がどの段階に入るのかということを理解するために重要なのです。マインドフルネスや心理学的に言えば、「メタ認知」の視点で、自分のありようを俯瞰してみることと同義です。修行においても2年目・3年目と段階が進むことによって、自分で創意工夫することによって環境を改善していったり、みんながより集中できるように環境調整をしていったり、などが必要になってきます。創意工夫の段階はこの後第2段階にあるわけです。まずはとにかく指示に従い、与えられた仕事を自分でやりきってみるというのは、戦後日本の復興期を支えてきた方々は皆さんやってこられたのではないかと思いますが、次の段階は奪境不奪人、環境を奪い、自分を奪わない、つまり「環境にかかわらず、自分自身を出し切る」という意味です。それはわがままを言うということや横柄な態度をとるということではなく、ある仕事においては自分がそのスペシャリストであるという自覚を持ってやるということです。自分が与えられたこの部分は意思を持ってやるということとも言えます。自分の持ち味を自信を持って貫くということにつながります。言い換えると自分に何があるかということを認識する行為です。自分が仕事を与えられている時に、「やらされているな」と思っても、その仕事に取り組んでいる時は自分が自分の意思でこの仕事に対しては「誰にも文句を言わせないぞ」という思いで取り組むことが重要だということです。横田南嶺老師のお師匠さまにあたる老師が教えてくださったことがあるそうです。「新入りで毎日怒られてつらいだろうけれども坐禅堂の座布団の上に座ったら天下の主になったと思って座れ」と。これがまさにそうした心持ちだと言えるでしょう。誰にも邪魔はできないわけです。それくらい自分のデスクでは自分の天下であるという意識を持って、プロ意識を持って仕事をするということが大切なのです。自分の責任で担当しているという意識をもてるかどうか、つまり主体性を持って仕事に当たることができるかどうかが大切です。組織のやり方に対してはまずはそこに合わせ、方針に従ってみるということをしながらも、与えられた仕事に対しては自分の意思でやりきってみるということが両立できると、心というのは非常に落ち着いた状態になり不適応感が減っていきます。

人境倶奪の段階

今度は第三段階です。人境倶奪と言います。自分も環境も奪い去るという状態があります。それはもう外の世界も自分も関係ないくらいに没入するということです。よくマインドフルネスについて論じる際、忘我とか、我を忘れるとかいう表現で言われます。少し専門的な用語を使いますと「自他境界が不明瞭になる体験」と言います。例えば子供の頃、生まれた時には自他境界がないんです。お母さんのお乳は自分の所有物なのです。しかし自分が母親に噛み付いたり駄々をこねたりして、その痛みでお母さんがしかめっ面をした時に、申し訳ないという原始的な罪悪感が生まれるとされています。
(注釈)
それが人間の優しさの元になるという理論がある。ドナルド・ウィニコット博士という小児精神科医が提唱したもので、原始的な罪悪感が人間の優しさの元になるという理論。以下川野先生の解説
その罪悪感から母親は自分とは違う存在であるということを認識し母親と自分は違う存在という自他境界ができてきます。自分の行為により相手に痛みを与えてしまう相手とは違う存在だと気づくわけです。それが乳児期の終わりころに起きてきます。母親がたとえ一旦はいたそうな顔しても、すぐに笑顔を取り戻し、優しく介抱してくれれば罪悪感が癒され人への優しさを覚えます。ところがこの子は本当に手のかかる子ね、と言って愛情を振り向けず笑顔にもならなかったりする(自分の機嫌に任せてしまう)と原始的な罪悪感は自責の念につながってしまう、自分はダメな子なんだという感覚になり自己評価が下がり自己肯定感の低さにつながっていく。お母さんがそれを認めて満たされると自慈心が育まれていくという話です。前回のお話にも非常につながる話です。この辺りは高野山大学の井上ウィマラ博士が広く紹介されています。

その話と南嶺老師の話は非常につながります。子供は生まれ時はすべからくマインドフルな状態なんです。自分の行為を評価や判断などをしていないわけです。お腹が空いたからお乳を飲み、排便をして気持ち悪いから泣く、自他境界がないわけです。そしてだんだん母親などの養育者から離れて独り立ちしてゆく幼児期にかけて、自他境界が生まれてきて自己と他者を区別するようになっていきます。仏教でいうと分別の世界に入る。自分は他者と違う。相手が喜ぶことはいいこと、相手が怒ることは悪いことという分別がついていく。生きていく上では大切なのですが、分別をどこまでもきっちりと意識しすぎる生き方のスタンスでは、マインドフルな状態に繋がらなくなってしまい、良いか悪いか、極端な価値判断につながっていってしまうのです。「いいものはいい、悪いものは悪いもの」という判断が明確になりすぎて、自分も周囲も居心地が悪くなってしまい、結果として社会から振り落とされてしまうという価値判断が生まれてしまいます。

しかし人間というのは完全にいい人、完全に悪い人というのはいないわけで、一人の個体の中に良い部分と直すべき部分を理解できるかどうか、非常に簡単なことだがそれがわからず悩んでいる人が沢山います。「自分のこういう点はダメだ」となってしまう。確かに「自分のこういうところはこのようにして変えてゆきたい」と分析できていることは非常にいいことですが、「ダメだ」というのは自己評価を下げてしまっています。そんな時に一旦、我を忘れて対象に没入するという体験が非常に大事になってきます。その瞬間には自己も他者も関係ないという感覚です。例えばある仕事を任せられてその仕事が軌道に乗りそうで集中している時には、その仕事によって何を得るか、などの目的意識も忘れている状態、例えて言えば、チクセントミハイ博士のフロー理論が提唱している状態に非常に近い状態です。チクセントミハイ博士の理論がビジネスにおいてこれほどまでに注目されているのは、疲れないし、生産性も上がるし本人の幸せにもつながるというある意味「無敵である」という理論だからでしょう。これがつまり「人境倶奪」の状態なんです。そしてそういう体験をすることが非常に大切です。そうすれば人の心は健やかに満たされた状態でいることができます。ただみんながフロー状態で没入していると社会集団にはなっていかないですよね。従って自分にはそういう力があるということを自覚し、ずっと特定なものに集中するのではなく、ある時にはテニスに集中し、ある時には仕事に集中し、ある時には旅行を楽しむことに集中する、という体験を、自在に切り替えながら、増やしていくということが大切になります。

人境倶不奪の段階

そして最終的には「人境倶不奪」という段階に至ります。どちらも奪わない状態、つまり自他の共存です。ともに思いやり生きていく。そこで共助の考え方、つまりコンパッションの考えが生きてきます。フロー理論もマインドフルネスも同じなのですが、自分がウェルビーイング(よりよくあること)の状態になるわけですから心地よい状態になります。それが自分自身の自己肯定感を増大させます。それができると初めて他者に対して、自然に思い遣る気持ちが生まれてきます。その高まりの中で最終的には「人境倶不奪」という自己も他者もお互いが思いやり、一緒に支え合いながら生きていくという状態につなげていく、この4つが非常に重要だということですね。

こうした考えを聞いて現在のビジネス界や企業にも非常に大切だと感じましたが、臨済禅師はすでに大昔にこれを説いていたのです。禅の精神が時代を超えて、現代のビジネス分野に結びつくというのは自明であることがわかります。

ちなみにこういう風に臨済禅師の「四料揀(しりょうけん)」を現代の言葉に解説した人は、私の知る限りこれまで誰もいませんでした。臨済禅師の禅の思想は非常に難解なので修行した方でさえなかなか理解が進まず、自分ではわかっていても人には説明できないものです。それをここまで明解に、現代社会にも通底する解釈を与えた、円覚寺の横田南嶺老師の心眼がいかに鋭くも温かく、機知に富んだものであるか、感じ入るのです。

この記事は二部構成です。続きは

組織・集団の中で生きる禅の思想 後編(6月25日配信予定)

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