新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。

2018年、東京オリンピック開催まであと2年と迫る中、世界の目は確実に日本に向けられつつあります。それは禅を源流に有しながら、欧米で考案された「マインドフルネス」の分野においても例外ではありません。

昨今では海外でマインドフルネスとして瞑想を実践してきた多くの人々が、日本の禅を知りたいと鎌倉や京都といった禅の本場にやってこられます。マインドフルネスといえば本来は、「禅から宗教色を排してメソッド化した瞑想法」です。これを医療分野に応用した第一人者のジョン・カバットジン博士(マサチューセッツ大学医学大学院名誉教授)は、仏教信仰の背景をもたない欧米人に禅のエッセンスを伝えようと、意図的に宗教色を排除し、その狙いが見事にヒットするかたちで多くの実践者を欧米諸国にて醸成することに成功しました。

その実践者たちが何故、日本の仏教の一派たる禅宗寺院をおとずれるようになったのでしょうか?そのことを理解するためには、仏教や禅の精神の本質の一端に、目を向ける必要があります。マインドフルネスを医療の世界に導入するにあたっては、あくまで「治療」としての位置づけが必要となります。すなわちそれは、「○○病を治すため」という明確な目的を見据えて、坐禅や瞑想をするということを意味します。医療だけではありません。米シリコンバレーにひしめくIT企業をはじめとする世界の名だたる大企業はいまや当たり前のようにマインドフルネスを社員研修や育成に用いていますが、その背景には「ROI:Return onInvestment(投資利益率)」という「数字」が燦然と輝いています。自らの疾患を治そうと瞑想をするとき、あるいは利益を生むため、経費を削減するため、業務効率を上げるために瞑想を用いるとき、その人は何を意識するでしょうか?言うまでもなく、明確な「利得」を求めて瞑想し、坐禅するわけです。

ここにこそ、欧米式のマインドフルネスに立ちはだかる大きな壁があります。

仏教の発祥は、ブッダが生老病死の苦しみからただ逃れたいと必死で出家し、6年間にも及ぶ想像を絶する苦行に取り組んだ末に、その苦行すらも手放して、たどりついた菩提樹の下で、ただそこに「居続ける」ことの大切さに気付いたところで、悟りに導かれたという体験にあります。「楽になりたい」「苦しみに耐えて悟りを開きたい」「誰よりも厳しい修行をして崇高な存在になりたい」といった「目的」を手放して、ただここにある自分自身の存在を受け入れて、生きているということそのものに感謝したとき、ブッダは本当の人生の意味に目覚めたのです。彼が村娘のスジャータから供養を受け、苦行をしていた頃には口にすることもできなかった乳がゆを美味しくいただいたというエピソードは、自らへの慈しみ「自慈心」への目覚めが、悟りの根底にあるということを端的に示しています。私は禅も仏教も、ことさらに宗教という枠組みに収まるべきものではないと考えています。武士道はまさにその好例でしょう。キリスト教徒であれ、イスラム教徒であれ、無宗教者であれ、禅の精神を理解し、実践することで心幹を養うことができます。禅の精神を組んだ「日本流のマインドフルネス」は、この不確かで混沌とした時代において、この日本から世界へ向けて発信されるべき重要な平和のメッセージであると考えます。自らの在りようと向き合い、自己を受容した人だからこそ、まさに心からの手助けを他者に向けることができるのです。

2020年を目前に控えた今だからこそ、日本で千年以上の歳月をかけ培われてきた武士道や禅の美学を、確かなものとして己の心内に携え、胸を張って世界の人々に「和の心」を伝えてゆけるとしたら、それはどれほど素晴らしいことでしょうか。

まさに今、機は熟しています。

平成30年1月吉日
川野泰周 合掌