武器としてのこころリテラシー【8】~LIFTモデルの根幹である意を「調整」する(前半)~

みなさん、こんにちは。

おかげさまで、ひっそりと始めたブログ連載「武器としてのこころリテラシー」ですが、徐々にお読みいただいている方が増えていっているようです。

ブログを書く手が止まりそうになる「こころ」を自分自身で叱咤激励し、気を引き締めて様々な情報をお届けできるよう頑張りますので引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

 

さて、本日のテーマはLIFTモデルの中でどれが一番大切かという話をしたいと思います。

 

先日までの連載で、武器としてのこころリテラシーを高めるための「こころのLIFT UPモデル」をご紹介してまいりました。

詳細は先日の記事(※下記ブログ参照)でご紹介していますのでぜひそちらもご覧ください。

武器としてのこころリテラシー【4】~2つのこころの問題へのアプローチ(前半)~

 

その中でこころの構成要素として

知・情・意の3つの要素があり、それらが相互に関連し合って人のこころを形作っているということをご紹介しています。

~こころの最も大切な要素とは~

さて、では知・情・意の中でどれが最も大切なのでしょうか?こんなことを考えてみたいと思います。

 

(少々考えてみてください!)

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちの考え:最も大切なのは意です!

 

※ちなみに質問をしておいて肩をすかすようで恐縮ですが、当然3つは三位一体という関係なので、どれが欠けてもこころは良い状態にはなっていきません。なので最も大切なのは何か、という質問に対しては論理的には「すべて等しく大切」が正解です。しかし、やや誤解を生む表現かもしれませんが、あえてここでは論旨を明確にするためにこうした表現を使用させていただきました。

 

私たちが生活したり、仕事をしたりしていくうえで、様々な状況にさらされ、時には大きな葛藤が生まれる場面も出てきます。要はたくさんのストレスにさらされているのが私たちの生活なのです。その中にあって自分のこころを豊かにしていくためには、ストレスフルでコントロールできない自分以外の周囲の要素を嘆き、それに流されるのではなく、そうした状況を受容し自分で自分自身の方向性を決めて意思決定をしていくことがとても大切だといえます。

 

では自分自身の方向性を形作るものは一体何でしょうか? ここで知・情・意のそれぞれの役割を思い浮かべてみてください。

 

 

知は情報のデータベースなのでそれ自体にベクトルはありません、情報はただの情報なのです。

情は情動のエネルギーです。原始的な快・不快の情動が行動を促す反応として現れ結果として私たちの言動のエネルギー源と言えます。しかしこれもエネルギーはただの熱量や力量であるのと一緒でベクトルはありません。それどころか「情に流される」という表現があるように時としてベクトルを見失わせる要因として機能します。

つまり、知や情を制御し、それに意味を与える存在である意「だけ」が(良い方向か悪い方向かはいったん置いといて)ある一定の方向性を生み出すことができるのです。

 

このポイントは非常に重要です。なぜならばこれまでの人材育成の施策はほとんどが知に偏ったものであるためです。業界情報を勉強しよう、戦略やマーケティングについて勉強しよう、思考法について学ぼう、人材育成のやり方を学ぼう、・・・などなどです。知は情報のデータベースですが当然どんな情報を持つかで自分自身の意にも影響を与えます。そのためそれらを学ぶことは大切なことです。

しかし方向性を持っている人にとっては有用な情報だったとしても、方向性自体があいまいな人の場合その情報は無駄になることが多いというのが現実です。人のこころを軸とした人材育成や組織開発の取り組みにおいては、今後は知や情より先に意に着目する必要があるといえるでしょう。「空いたバケツに水を入れる」とはよく言ったもので、意があいまいな状態、つまりこころの器が小さい状態ではいくら情報のデータベースを豊かにしてもこぼれおちていくのが現実ではないでしょうか。

~「意」に対する誤解~

さて、こころのLIFTモデルの中で意が最も大切だとあえて断言する形で主張を展開しております。私は仕事柄こうしたことを人にお伝えする機会が多い(というかそれが仕事そのもの)のですが、そこで聞かれる声(ご質問)があります。

 

それは「意が大切なのはわかるんだけど私はそんなに立派ではないので・・・・」 というような趣旨のご意見です。

 

なるほど

 

・意とは意志のようなものなので、

・何か道徳的に立派なものだけど、

・私はそんなに高尚な人間ではないし、私の周りもそうだ、

・だから意などは道徳の授業かなにかで学べばいいことで、

・目の前の仕事や生活にはあまり関係がないように思える、

 

このご意見の裏にはこのように感じていることがそこはかとなく伝わってきます。かくいう私自身も意というと意志を思い浮かべるというのはわかりますし、このような感覚は理解できます。

 

ただ、LIFTモデルにおける意のとらえ方はもう少し広いです。

もっというと上記のご意見には、意を意志ととらえていて以下のような誤解があるようです。そのため、ここでは意というもののとらえ方に対する誤解を解いておこうと思います。

~具体的な3つの誤解~

誤解①:意がない人がいる→意を持つべきだ

意を意志ととらえた際に出てくる最初の誤解が、「私には意がある/ない」というものです。「意志を持っている人が偉大なことを成し遂げるリーダーになっていくのだろうけど、自分にはそんな意(志)はない。意が大事といわれても・・・・」という感覚でしょう。しかしこれは誤解です。意とは「信念や解釈のシステム」(参照:上記記事リンク)なのです。

自覚しているかどうかは別としてすべての人が生きている以上はこのシステムを持っています。つまり「意がない」という状態は論理的に考えてあり得ないのです。ただそうした自分の意に自覚的であるかどうか、という点は人によって個人差があります。

 

誤解②:意が弱い人がいる→強い意を持つべきだ

よく意志が強い、弱いという表現が使われるので「私は意(志)が弱いなー」という人もいますがこれが2つ目の誤解です。上記の通りで意は「信念や解釈のシステム」なのです。システム自体に強弱はありません。ただそのシステムの処理の仕方の傾向が存在するだけです。むしろ強弱がうまれるのはエネルギーを発生させる情との関連からだと言えます。

例えば、大きな目標に向かってまるで自分の使命を自覚したかのように何かに没頭して取り組む時があります。このときは自分自身の意を明瞭に自覚することで情動的なエネルギー量がせき止められることなく発揮できているという状態だといえます。逆に何かわくわくする面白そうで創造的なことをやろうという情があるのに、「自分にはそんなことは無理だ」とか「こんなことやっても無駄だ」というような信念・解釈システムが作動するとパワーダウンします。

意と情が関連し合いはた目からは「あの人は意志が強い/弱い」などと見えるわけですが、厳密にいえば意に強弱はありません。ここでも自分の意を明確に自覚しているかどうか、という点に差はありますが、意自体に強弱があるわけではないことがわかります。

 

誤解③:誤った意を持つ人がいる→正しい意を持つべきだ

誤解の3つ目は、意が大事といわれると「何か(息苦しい)高邁な精神をもたねばならない」というものです。しかし意自体は、信念・解釈のシステムであり、それはその人の個別の経験や学習から生じるものです(もちろん遺伝的・先天的な要因もあります)。

こう考えると意そのものには正しい、間違いという価値判断はないということがわかると思います。つまりそこからくる方向性に良いも悪いもないのです。高邁だから正しい、陳腐だから間違い、というような類のものではなく、自分自身の固有の意のあり方を認めることがとても大切なポイントになってきます。

※ただこの点は議論がありまして、人が生きていくうえで、また幸せな人生を営んでいくうえで、持っておくとよいと思われる意というものは存在します。最も簡単な例は「人殺しはダメだ」という意です。人は集団生活をスムーズに営んでいくうえで相互保存(殺し合わない)を前提にしています。その中にあって仮に「人を殺しても問題ない」というような意は摩擦を大きくし自分の人生を困難が多いものにするでしょう。このように幸せな人生を生きていくうえでもっておいたほうがよい意は確かに存在すると思います。

 

ちなみにこの論点で補足的に以下を追記したいです。意に正誤はなく個人が真摯に突き詰めていくしかありません。しかし昨今は、正誤はないからといって、どんな意を持とうと個人の「自由」でしょ、という風潮になっているかもしれません。行き過ぎた自由主義です。

その反省から持つべき「意」を問い直そうと動きが起こっていてそれがリベラルアーツをはじめとしたさまざまな思想を学習するというムーブメントにつながっています(JoyBizでもリベラルアーツの重要性を痛感しこころリテラシーを高める要素としてメッセージしています。

※ご興味のある方は下記ブログもぜひご覧ください!

【なぜ、今「リベラルアーツ」なのか?】

なぜ、今「リベラルアーツ」なのか?

 

また、そうした思想観や歴史的経緯から重要だと考えられる意を代表恩田のブログ「ソモサン」でも考察しています。より深く知りたい方は下記ブログもぜひご覧ください。

 

【改めて人の活動を支配する中核である『意』と云う存在を考察していくに当たって思うこと】

改めて人の活動を支配する中核である『意』と云う存在を考察していくに当たって 思うこと