「視ると聴くの大切さ」

皆さん、こんにちは。

問題解決は頭の良さだけで決まらない

巷ではマネジャーの能力開発の為に様々な取り組みが為されています。時には効果的なものもあるようですが、殆どは一過性で終わっているような感があります。そこに通じるのは「理屈は分かっているけれども…。」という反応です。

人の行動が保有する能力によって左右されるのは当然ですが、能力という言葉だけに反応していて、能力という意味をしっかりと把握してアプローチしていない状況が多いように感じられます。

能力には知能のような他者とは関係なく独立的に機能する能力もありますが、感受性のような他者との間で関係的に機能する能力もあります。
例えば物知りという言葉がありますが、物事を学習する能力には秀でていても、それを上手く他者に伝授することが出来ない人が大勢います。或いは無機的な事象の探求には力を発揮するのですが、移ろいゆく人の気持ちや状況は関知出来ない、所謂「人間音痴」な人も一杯目に映ります。こういう人たちの多くは頭の中だけで思考することは得意なのですが、人との対話や意思疎通は苦手で、集団活動的に支障をきたしています。

面白いもので、組織はこういった不具合を認識しながらも、組織全体が風土的に鈍感症候群に陥ってしまっており、クリティカルな問題を先送りにするだけでなく、臭いものに蓋をするかの如く問題から目を背けて強引に組織を運営しようとして、様々な亀裂や生産低下を招いているのですから、本当に知能の方も高いのか疑わしくなる気もします。

では何故こういう至極当たり前の問題解決が為されないのでしょうか。現場でヒアリングをする限り皆さん問題意識もあり、また実際に困ってもいるのですが、その本質に対しては大凡他責で職場環境のせいにする声が圧倒的です。どうすれば良いかの理屈や対策も分かっているし、必要性も分かっているのだが、時間や状況がそれをさせてくれない。余裕がないといった案配です。

しかし、その殆どは嘘です。言い訳以外の何者でもありません。そう、本気ではないのです。その大部分は前回紹介させていただいた「正常性バイアス」の心理的発動で、他責が許される職場環境があるからです。そして職場集団に所属する人たちが相互にそのバイアスを持って「グループシンク」させているからです。グループシンクとは「思考の同調化を利した相互牽制」です。自分が悪いのではなく、全体の空気がそれを許さない。そんな中で自分が違う行動をしたら異端視され村八分となる。といった考えが、個々の考えは反対であっても全体としては容認を作り出してしまう集団力学です。特に集団への同調行動を基盤にする日本人はこの反応が顕著です。

こういった状況に置いては口火役も出て来づらいし、せっかく口火があってもそれを促進する空気が生まれにくいのは火を見るよりも明らかです。ましてリーダー不在のグループでは余程追い詰められてもいない限り、火中の栗を拾う者などいる由もありません。

グループシンク状態の集団が状況を脱するにはリーダーの存在とそこで発揮されるパワーの行使が必須要件となります。ところが先述したように、組織全体が風土的悪循環を起こし、パワーの源泉でもある感受性の開発や評価を軽視し、知能偏重の昇格やリーダーを排出しているのですから始末に負えません。結局はリーダーの能力不足が影響してチーム活性や生産性の向上は水泡に帰することになるわけです。時間がないとか余裕がないなどはリーダー人材が口にするものではありません。己のパワーの発揮不足こそを嘆くべきです。

 

疎かにされてきた感受性の開発

では感受性とはどうすれば開発されるのでしょうか。パワーとは影響力の行使であり、影響力が他者との関係の中に発生する力である限り、パワーの源泉が感受性であることは間違いありません。そして感受性が他者との関係の中で営まれる過程であるということは、この能力は幾ら単独で思考しても開発されたり錬成されたりするものではないと云うことを意味しています。
知能は固有に開発される能力であり、社会人基礎力として幼少期より国を挙げて養成している力です。その為日本人であれば一定の水準まで作り込まれてきている経緯があります。ところが感受性は、同じく社会人基礎力として双璧であるにも関わらず、国も社会もその開発に真摯ではありませんでした。最近ようやく発達障害の引き起こす問題などで脚光を浴び始めましたが、多くの日本の成人はこの能力の開発に大きく後れを取っているのが実態なのです。

冒頭に日本人は頭の中で思考するのは得意と述べましたが、実際は慣れているというのが相応しいと云えます。つまり感受性も鍛えれば啓発されるのですが、日本のこれまではそれを怠ってきています。寧ろ核家族やピントのズレた個人主義思想の侵入、パソコンによるオタク型生活の蔓延で、集団行動や対面関係の場が減退する一方で、感受性開発を阻害してきているのが現状です。
だから成人になっても人間関係音痴のままの人材が輩出され、それが学歴社会で支配階級となり、自分に都合の良いやり方で組織作りを進めてきた結果が今の多くの企業の職場の実態を生み出しているのだと云っても過言ではないでしょう。

 

感受性とは観察力と傾聴力

さてそれでは具体的な感受性開発の話に駒を進めましょう。感受性の肝は一言で云えば「観察力と傾聴力」です。「動き出す」まえに、「自分の職場や商圏をじっくり観察すること、視たり、聴いたりすること」ができるかどうかの力の有無です。動く前に部下の話を聴く、視るそして「職場や商圏を徹底的に理解すること」です。感受性の無能者は、自分の職場を観察し、そこにうごめく様々な事情・人間関係・顧客の様子を考慮・理解せずに、思考停止的な慣例行動で「動き出して」しまいます。ここで重要なのは聞くではなく聴く、見るではなく視ると云うことです。両者の違いはそこに心が入ってるかどうかです。

ではどうして感受性が疎かになってしまうのでしょう。一つは先にも述べた幼少期からの訓練不足です。実際発達障害と思われる人たちの多くもスペクトラムというように程度が軽い人が一杯いるのですが、そういった人も訓練によって多少は改善されるにもかかわらず、社会的な関心の低さから野放しにされている経緯があります。

最近それ以上に多いのが「前のめり」症候群です。成果を出さなければならないというプレッシャーが、行動を「前のめり」にしてしまっているのかもしれません。そして次に「前のめり」が陥る罠が、「水平展開の罠」です。「水平展開の罠」とは「自分が実務時代にとって成功したやり方を、そのまま部下・職場にもやらせようとして、成果が出ないこと」を云います。職場や商圏や部下の特性などを理解せずに、過去のパターンを横展開しようとしてしまうのです。面白いのは、自分がされて嫌だと感じていたパターンでも、それ以外を知らないとそのやり方を踏襲しようとすることです。

そしてお次は、「人は皆、1を聞けば10動く」と思っていて、少しだけ目標を伝えれば部下は皆分かって、ただちに動くと思い、目標の腹落としに失敗して、チームで目標を握れなくなり動きがバラバラになる、という流れです。無能者がリーダーの場合には「オレの背中についてこい」とだけ云い言葉不足に陥ることが圧倒的です。これまた面白いのは「リーダーは忙しい」のでメンバーからみれば「見て欲しい背中」は、いつもいないという実態です。メンバーからすれば何故やるかも、優先度も意味も分からず、ただ黙々と意思無く動かされるわけです。その上パターンを押しつけられ、付いていけず主体性も持てず、出るのは「ため息」ばかりです。

更に感受性のない人は、人に関心が低くて細かく人を視ていませんので、ラベリングが大好きです。結局当人からすれば「答え」を教えてやっているのに動かないということになり、いらいらし最後は「恐怖政治=叱りつけて無理矢理やらせる」か「巻き取り=部下がやるべき仕事を自分、ないしは、自分の右腕の部下で巻き取ってやってしまう」ということになるわけです。

そして結果は「メンバーに一揆が勃発するか」か「メンバーがメンタルダウンするか」になるわけです。下手を打てばメンバーのウツか退職です。

 

どうでしょうか、この状態においての生産性は容易に想像できます。それでいて時間がないも余裕がないもないでしょう。原因は全て感受性の不足、人への関心不足、要は傾聴不足、観察不足から生じています。そのような周りとの関係性の中で影響力など程遠い話です。

チーム活性や生産性向上も全てはリーダーのパワーが端緒となります。それには感受性が必要不可欠です。皆さんの職場は如何でしょうか。

 

さて皆さんは「ソモサン?」。