• 「組織に起きる対人的な問題は読解力不足なのか発達障害的な特性なのか」

「組織に起きる対人的な問題は読解力不足なのか発達障害的な特性なのか」

対人関係力をいかに理解するか

皆さん、こんにちは。

先週「読解力」についてコラムを書きましたが、この能力に関することで今社会的にはもっと厄介なことが頻出し始めています。

私たちは知能テストと云われる判断基準を持って幼少から思考の程度を測られてきました。

そして企業が人材採用や人材戦略を考える際にも、主に知的能力を判断基準にしてきた歴史があります。

しかし人の能力は知能だけではありません。知能は個々人の中で完結する能力ですが、人が社会的な活動を基盤に置く以上、人と人との相互作用を良好に保全させる機能を担う対人関係能力も必須能力として求められます。

 

ところが近年まで、この人の感情面に深く関わる対人関係能力をきちんと理解して社会秩序に有効に反映させるという動きは殆ど見られませんでした。どちらかというと補足的な能力のように取り扱われてきました。このことが近年社会的な活動に様々な悪影響を及ぼすようになってきています。

特に注視されるようになったのは、この能力において障害者レベルの人が社会活動上で多くの問題を発生させ始めたことです。例えば、人の気持ちが察せられない、自分の主張にしか関心が持てない、人を無機的にしか見れない、感情のコントロールが出来ず至る所でハラスメントを勃発させるといった具合です。にもかかわらずその原因が読解力の欠如といった誤った認知によって的を射た対応が為されていなかったのです。

そしてこういった能力的な特性から生じる社会問題に対する巷の理解不足から、事前にちゃんと認知していれば防げたり処置できたりしたことが、事が起きるまで放ったらかしにされ、一旦事が起きるとその事態を「変わり者や変人、問題児」といった個人問題として決めつけ、ハラスメント的に追い詰めるといったズレた扱いが至るところで起きて不要な不幸を生み出しており、それが年を追うごとに増加しているのです。

 

対人関係と発達障害

では対人関係における障害的特性とは具体的にどういったことを云うのでしょうか。一例を挙げてみましょう。

例えば、何らかの趣味の話において一定の拘りがオタク的に出て来る場合があります。その際あくまでも「趣味の話をお互いの交流や関係作りの題材」として捉えて話しているのと、特性として「趣味に嗜好が拘泥していて相手の存在が二の次になる」のとでは反応が大きく違ってきます。ここで後者の場合は相手の気持ちは度外視で、あくまでも情報交換の対象として相手をみてしまいます。こういった人は対人関係のために自分の興味への関心を下げることには抵抗があって、人への対応自体が頭に浮かびません。結果、対人が二の次になってしまいます。

 

こういった社会活動的側面における障害を「発達障害」と称し、その中でも対人関係的な領域を「自閉症スペクトラム」と称しています。自閉症スペクトラムの傾向にある人はたとえや比喩の意味がわかりません。たとえば「隣の赤ちゃんは玉のような男の子ね」と言ったときに、「その赤ちゃんはそんなに丸いの?」とびっくりして聞き返したり、誰かが「そのギャグ寒い」と言うと「ぼくは寒くないよ。毛布を持ってこようか」などと答えたりします。
一般として、物事をたとえ話や諺を使ってわかりやすく説明しようとすると、その意味が分からずかえって混乱してしまいます。一見すると読解力不足のように写りますが、自閉症スペクトラムの人の場合はたとえ話と現実の区別がつかずに、言葉そのままの意味だと思ってしまうことが原因です。性質的に抽象的な概念を現実に当てはめて考えたりすることが苦手なため、たとえ話が読解できないのです。たとえ話や比喩を使った説明と、実際の事柄との区別がつかず、話についていけなくなってしまうわけです。
また対人関係力や共感性が欠如しているため、相手の反応を見て話をすることができず、自分が思ったことをそのまま口にしてしまいがちです。なので、しばしば相手を傷つけたり不愉快にすることがあったり、自分の話ばかりしてしまうということがあります。更に自分の感情をコントロールするのが苦手なのですぐにテンパる、キレるがあったり、加えてストレスにも弱いので、突然イライラしたり、攻撃的になってしまいます。

こうなりますとそういった特性を単に個性と見なすわけには行かなくなってきます。個性とはある種の偏りや拘りがあってもそれを対人関係の中で調整できる場合を云います。しかし実際に障害なのか、或いは個性なのかはスペクトラムという用語に表されるように程度の問題で境界線はありません。その差は調整が働いているか働いていないかだけです。しかし外側からはなかなか見えにくいですよね。

どうやら最近は読解力低下と思われている状況が、発達障害的な観点で生じている可能性が強くなっているということです。もしも昨今の若い人たちに続出している対人無関心、対人不器用さが発達障害的な特性だとすると、単なる読解力強化といったアプローチは功を奏しません。

例えば発達障害的な傾向にある人は積極的な交流行動ではなく寄り添うような平行行動レベルを心地の良い関わりと認知します。ですから通常ですと冷めていると見られるかも知れません。彼らは他の人と気持ちを共有するということは二の次で、自分と同じ温度で自分にとって邪魔でなければそれで良いというのが心根だからです。それが本人には心地良いのですから、これはもう能力よりも個性に関するものです。そしてこれは簡単に変えられるものではありません。

だからといって彼らは欠陥者かというとそれは違います。彼らはマイノリティなだけです。ですからその特性を理解し、それが活かせる仕事を任せたり、その特性を解した関係作りが出来れば問題はありません。

しかし実際は安易に採用し、学歴主義でそういった人材をマネジメントにあてがって、結果組織的な問題を生みだしている企業が余りにも多いのが現実の光景です。企業における鬱もこの対人関係不適合的人材を知能優先で登用したことから起こしていることが幾多とあります。

人の特性の切り口は一つでありません。また最近はDNA的なレベルや原体験レベルで発達障害に準ずる問題を内在している人材が増えてきています。私的には今後の人材戦略を考えるにおいて、もう少し真剣に取り上げる問題だと思います。

 

さて皆さんは「ソモサン?」。