改革の本質 ~意志のない組織が改革を無為に貶めていく~

今「成功が産んだ失敗」と称されることが多い、日本を代表する古老組織である農業系の協同組合での組織開発をしています。

 

この組織、もう40年も前から環境変化に対応するために事業や組織を改革させなければならないという課題を抱えています。にも関わらず一向に好転の兆しすら見えません。というよりも事は悪化の一途を辿るばかりです。面白いことに、この組織体は国家施策として一定の保全が求められていた関係上、その手段として国レベルでも都道府県レベルでもかなりの頭脳を持った集団が指導や支援活動をしており、政策立案や計画においては申し分ない態勢であるにも関わらず衰退の度は高まるばかりという摩訶不思議な状態にあると云うことです。何故こうなるのでしょうか。

一言で言うならば「組織が微動だにしない」ということです。どんなに素晴らしい地図が描かれようと動かなければ目的地に辿り着けないのは当たり前の話です。そんな当たり前のことが40年も続いているのは驚嘆に値します。しかし周囲を見渡すと同様な組織体は、一部上場企業を始めとして一般社会でもかなりの数が目に付くのも事実です。

一体組織が動かないとはどういう状態を云うのでしょうか。組織における行動とは集団行動による生産性に尽きます。集団が集団としての生産性を上げるには一つ一つのセルである個々人の生産行動が高いことに加え、個人行動と個人行動の繋がりが強くかつしなやかに連動していなくてはなりません。そしてどちらの影響の方が大きいかと云うことが非常に重要な問題となります。

 

具体的には「頭の良い奴が啀(いが)み合っている状態」と「頭の悪い奴が馴れ合っている状態」という異なった2つの状態が作り出す弊害です。

この違いは問題解決のアプローチの起点から大きな壁となってきます。ところが、自分たちがどういった組織状態に陥っているのか意識していない人達が、上層部ですらゴマンといるのが日本の組織管理の実態です。どんな計画も組織行動を通して営まれるし、「組織は戦略に従って機能される」以上、「戦略が変われば組織も変えなければならない」というのは経済社会にとっては常識中の常識なのですが。

では具体的にどのような違いが生じるのでしょうか。

まず「頭が良い奴が啀(いが)み合っている集団」から行ってみましょう。ここで最もポイントとなるのは「頭が良い」という定義です。
以前のコラムでも話しましたが「頭が良い」には「知能領域」の話と「意志領域」の話があります。多くの場合「意志はあるが知能は弱い」という人は希です。意志は知能によって下支えされた存在だからです。意味も分からずに意志を持っているというようなことは洗脳以外にはあり得ません。
一方「知能はあるが意志はない」という人は一杯います。せっかく習得した知能が、人として肝心な自分を立脚させる意志のレベルにまでは高められていないわけです。
これでは何のために知能を磨いたのかが全く無意味なわけですが、現実今の社会にはこういった輩が一杯います。高学歴なのに自分の意志や目的を持たずにただ漫然と日々を過ごし、ゲームのような非生産的な活動に性を出しているかと思うと、そういった自分に嫌気を持ち、厭世観や孤独感に苛まれ、そのまま精神病質にまで陥ってしまうと云う悲しい状態がそこら中で目にされます。

 

意志や目的がありませんから心の耐久力がなくすぐに折れてしまいますし、全てが受け身の姿勢で、まるでコンピュータのような機械的な反応です。また分別が付かず大勢に流されたり、その反動で深く考えもせずマスコミなどに踊らされて社会的規範に反発したりします。
とにかく根底に社会人としての集団活動に対して責任という概念を持ち合わせていないわけですが、困ったことにそういった輩にもかかわらず、現実には大量に組織に入り込み、社会活動の生産性を低迷させたり、障害となったりしているわけです。

このような意志の乏しい人材達ですから、元より集団行動という思考も全体最適という思考もなく、利己主義を前提に利害関係に塗れた自己主張をぶつけ合うのですから事が進む道理はありません。こういった輩は幼児性も高いので、主張はすれども傾聴はせずといった案配で、一体何の為に会合しているのかということも認知出来ず、ただただ権力的な攻防戦が目的となってしまい、組織の状態は停滞するばかりか加速度的に疲弊していくのです。

本来、マネジメントとはこういった状況にならないように舵取りをしていく活動なのですが、そういった意味すらも考えずに組織運営をしている経営陣がいる組織の何と多いことでしょうか。しかしそれ以上に大変なのは寧ろ「頭の悪い奴が馴れ合っている集団」です。
頭が悪いという定義は、既に紹介もさせて頂きましたが、文字通り知能が低い、つまり思考力が弱いということと云えます。深く考えないわけですから問題意識が弱いと云う事にも繋がります。そういった輩がただ集団的に存在している状態を一般には「烏合の衆」と云う言い方をしますが、まさにその言葉が当て嵌まります。

 

問題意識とは目的に対して齟齬が生じている場合、そのズレを認知することです。目的に対する認知がない場合、それは即ち問題意識がないと云うことになります。そして目的と問題意識と責任感は等価の関係にありますから、問題意識がないと云うことは責任感がないと云うことになります。簡略すると頭が悪いというと云うことは「責任感がない」と云うことに等しいということになります。

 

ということで話をまとめますと、「頭が悪い奴が馴れ合っている」と云うことは「責任感がない連中が問題意識もなく日々をナアナアで過ごしている」ということです。これでは問題解決どころか日々の生産性も上がりませんし、組織は流されるままに漂流するのみの状態になります。漕ぎ手が誰も艪を漕がないのですから当たり前の話です。

一見すると後者の集団や組織は「人への関心があるように見える」ので問題解決は容易にも映りますが、事はそう単純ではありません。

人に関心がある、或いは対人指向が強いという世界には2つの大きな違いが見られます。それは「自分のために人と上手くやろうとする」のか、「効果的に問題解決していく上で人との関係が生産的になるように調整していく」のかの違いです。両者の価値観には大きな隔たりがあります。意志や目的意識のない者にとっての人間関係には「対人や集団に起きる様々な問題を効果的に解決していく上での生産的な関係」などという考えはありません。
従って基本は「自分のため快適な関係を持っていたい」です。あくまでも利己主義です。当然葛藤を乗り越えようとか、傾聴し、融和しようという行動は希薄ですし、自分以外の人同士の関係を調整しようなどと云う努力は自分に利が感じられない限りするわけもありません。
それは例えマネジャーという立場になっても同じです。何よりも管理職という仕事自体に深い考えがない人が多い訳ですし、責任感が乏しいのですから履行する気も弱いのが実態です。これは意志の教育をおざなりにして知識の教育に偏ったアプローチの弊害である云えます。

いずれにしても幾ら自分のために人との関係を前向きにやろうとも、それはただ「馴れ合いの度を増すばかり」の行動です。後者の集団はそこに加えて「思考力が弱い」わけですから、理屈を理解しないという障害が発生する訳です。問題自体を認知できないわけですから解決への道はかなり遠いといわざるを得ません。もう組織を動かすどころのレベルではありません。

 

ともあれ「集団や対人を効果的に問題解決に向けてエンジニアリングしていく」には、参画する個々にしっかりとした目的や、求められる生産的な活動に対する意志、およびそれをやり遂げようとする使命感や責任感の保持とその集団的な共有が求められます。それにはまず個々人の強い意志と目的的な対人関係能力が必要不可欠です。

しかし、頭が良い奴に関しては自己の気づきが得られれば自浄作用が働きますが、後者の場合は自助努力には時間や能力的な限界が生じるのが事実です。従ってそこには一定のエンジニアリング的な介入が必要になってきます。

 

ところで始めに紹介した農業系の協同組合ですが、この組織は後者型に加えて協同組合特有の組織的無責任が加わります。協同組合は上位下達の任命的な機能組織ではなく、経営層は推薦や選挙による共同組織です。全ては全員参画全員決定といった独断が排除される名目的民主組織です。何故名目なのかというと実践としては「皆で決すると云うことは誰もやらない」に等しいからです。統制が機能しない組織において実践が行われることはあり得ません。事実、協同組合で実践があるのは、善悪は別として独裁的な統治が為されている組織だけです。

この様に国家的に影響のある組織体であるにも関わらず、長年にわたり改革停滞が起きている現況は、事業の在り方ではなく、計画が機能しないという組織運営の部分に問題があることは明白なのですが、これまた無責任組織体であるが故にまさに上からして「頭が悪い奴が馴れ合っている集団」の運営に拘泥しているのですから始末に負えません。またその為のエンジニアリングを担っている組織自体が官僚制に塗れて逃げ腰になり「火中の栗を拾おうとしない意志なき組織」が管轄しているのですから、責任回避のキャッチボールが起きるばかりです。

どんなに精緻に作った計画や戦略でも、意志を持って気持ちを込めた組織への取り組みがなければ、人は動かず自体は悪化するばかりです。人は感情で動きます。それも前向きな感情で動きます。それを産み出すのは、一人ひとりの強い意志を持った組織への働きかけとリーダーシップに尽きるのです。これは一般企業にも通じることです。特に古老企業は同質といえます。

 

さて、皆さんは「ソモサン」?