ヴァレンシーという意の作用と繰り返す判断行動を考える

これまでの人生に大きな影響を与えて下さった尊敬する方を偲んで、今週は先週に引 き続きもう一つ心に残った教えについてご紹介させて頂きます。

それは「ヴァレンシー」という世界についてです。ヴァレンシーとは「誘因性」という心理学用語で、人は如何なる場合においても最終的な判断をする時に必ず2つの価値観からなる誘因性に導かれて判断を行うというものです。それは「立ち向かうか」「逃げるか」という二者の択一です。

彼はこの選択自体に良し悪しはないが、人はこの資質によって無意識にどちらかに偏った選択をしてしまうという「心理的な特質」の存在を教えてくれました。そして経営者はこういった自分の特質に対して十分な認知を持っていないと、それによって経営の舵を社会的な責任に対して誤った状態に貶めてしまうことになる、と教えてくれたのです。この話を彼がしたのはまだ私が20代の終わりの頃で、ある上場企業の役員研修の場においてでした。

この話の重要なポイントは、人はどんなに意識しようとしても必ず最後はヴァレンシーという心理力学が作用して生来か原体験的に学習した選択をしてしまうから、そういったことに俯瞰を持った意識的な自己でなければならないということです。換言すると「逃げる奴はどんな局面でも逃げるという選択を取るし、立ち向かう奴はどんな局面でも立ち向かう」ということです。
ですからそれが、個別の局面において最善であれば言うことはないのですが、誤った結果を招いてしまうことが多々あるので十二分に気を付けなさいということで、心理学的に裏付けられた戒めと解釈することもできます。

 

人はヴァレンシーの幻惑に晒されると無意識に非合理な判断を選択します。無意識ですから客観的な理由などはありません。寧ろそれを誤魔化そうと後付けでの抗弁を弄したり他責にしたりと、自己正当化を図り始めます。むろん自分の非などを考える余裕もなくなります。というよりもそれ自体に目が向きません。本人的には自分としてはその判断は理知であると思っており、他者からの指摘も指摘であるということ自体が理解出来ません。むしろ攻撃であったり虐めのようにしか写らなくなります。例えそれが自分で招いたことであっても幻惑されると、ともかくそこから逃げたい。後はどうなってもいいとなってしまうのです。
冷静に考えるとその認知は本当は自分にとってマイナスになると分かるような場合でも、また、それが明らかに自己の価値を社会的に下げていくとしても、原始的な観念が理性を凌駕させ、感情としてこの場を処理すべく判断を推し進めてしまい、理屈はその補強のために作動し始めるという歪みが起きてしまうのです。
ともかくここから逃げよう。或いは最早戦う以外にない。自分は善良で何も悪いことはしていない。自分に問題は一切ない。なのに自分は虐げられている。損をしている。自分は被害者であるといった具合に自分のヴァレンシーを誘因起爆として自己正当化に結びつけ、自分の選択を自己合理化していくのです。

 

例えば逃げるヴァレンシーの人は、問題への対処や困難への対峙など様々な関所に遭遇した時に、常に逃げるという選択をします。そしてそれを強化するように、理屈付けて現実をその場しのぎに誤魔化します。そこに潜むのは(甘ったれや利己主義に多いのですが)、自分にとって安楽であることが最優先という心根です。そうして親に甘え、酷い場合には伴侶にまで甘えて自分を安楽化させようとする幼児性がヴァレンシーのエンジンとして無意識に作動し始める人もいます。
最近多くなったようですが、まさにジゴロとかヒモという輩と同じような心理と云えます。でも本人は無意識ですから、そういうもんだということで罪意識は全くありません。無論そういう性根の人材が成功する確率は少ないのですが、それに気がつかない位にだらしなく生きてきているのですから仕方がありません。組織としては重荷ということになります。これこそ道徳教育が長年不在であったことの弊害と云えます。

 

私がその話を始めて恩師から聞いた際(忘れもしない熱海の大野屋ホテル)、同行していた私の直属の上司が青ざめたのも印象を深めるポイントでした。彼は小声で「俺はまさにフライト(逃げる)ヴァレンシーを持っている。今後は意識的に逃げないようにしなければなあ」。私にはその時その意味するところが深くは分かりませんでした。

彼は前職の銀行を若くして退職し、会社に中途入社をした後、破竹の勢いで抜擢的に管理者にのし上がった人でした。私は彼は寧ろファイト(立ち向かう)ヴァレンシーの人だと思っていたのです。
しかし彼はその夜私に「俺は大学時代に惚れた女性をめとる際、必ず豊かにすると約束したのだが、銀行に入ってその学歴から出世ができないと分かるとやる気がなくなり、今の会社に転職したんだ。
これまで自分はそれを合理として考えていたが、実は俺は自分なりに先を見通した時に壁を見出すと、我慢してでも努力してでもそれに立ち向かい、それを乗り越えようとしようとせず、何とかなりそうな世界に逃げようとするんだ。高校受験でも大学受験でもそうだった。就職の時は惚れた女のために少し頑張ったが、結局は今の状態だ。これではいけない。意識してヴァレンシーを変えなければ」と話をしてくれました。

恩師は研修の中で、ヴァレンシーは意識することで新たなる判断を生み出し、それを繰り返すことで変えることができると心理学的に説明してくれました。自分のヴァレンシーを知り、内観することで自分の傾向や特徴を知り、そのこと自体を意識することから自ら合理的な判断を考慮し続けることでヴァレンシーは変えることができるというのは、まさに認知行動メソッドという認知心理学において医療保険も効く療法的アプローチです。

ヴァレンシーには「立ち向かう」という領域もありますが、これも過度では問題が生じます。昔の武士道はこのヴァレンシーによって玉砕を生んでしまいました。三十六計逃げるに如かず、も戦略の一つです。最後に笑うものが最も大きく笑うという言葉もありますが、何事も程々というのも重要な判断です。日本人はこの「立ち向かう」意識が強い文化です。本人はそうでもないのに雰囲気で追い詰められたり、本人自体の玉砕精神でウツを始めとした悲劇を生み出すことが良くあります。
私もこの立ち向かう精神によって20年近く人生を損させた感を持っています。何事もバランスです。当然この話を持って、逃げるヴァレンシーの人間に正当化を与える気は毛頭ありません。

さて件の上司ですが、その後は逆境を耐え忍んで相当期間は因業な会社の中でも頑張られたのですが、頑張り過ぎて奥さんから逃げられてしまいました。家よりも仕事という人間と見られたようです。そしてそれ以来気概をなくして、結局は辞めて流浪してしまいました。噂では職を転々としているそうです。これは「結局彼は逃げるヴァレンシーだったのだ」といえるのか否か。難しいところです。いずれにせよ何とはなく悲しい話です。

ともあれ「逃げる奴は逃げる」例え説得してその場は留めても、そういうヴァレンシーの人間はまた同様の判断を繰り返します。ヴァレンシーを転換させようとする努力をしない人は同じ判断を繰り返すのです。去る者は追わず。そういう人はまた他でも同じ行動を繰り返すことでしょう。人材雇用の際の要注意事項です。外資に見られるキャリアアップは別として(といってもその中にもこういうタイプも大勢はいますが)、転職を繰り返す人材はご用心ですね。

さて、皆さんは「ソモサン」?