正常性バイアスがもたらす社会的破綻の兆候

正常性バイアスとは?・・・「茹でガエル」がもっていたバイアス

認知バイアスの一種である「正常性バイアス」とは、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう「人の特性」のことを言います。例えば、家事や台風、地震といった災害や何らかの事故や事件に巻き込まれた際、明らかに自分にとって大小に関わらず被害が予想される状況下にあっても、それをたいしたことではないと判断し「自分は大丈夫だ」「今回は大丈夫だ」「まだ大丈夫だ」と認知し、逃げ遅れたり損害を被ったりという結果を招いてしまうケースがこれにあたります。2014年の御嶽山の噴火で登山者55人が噴石や噴煙に巻き込まれて死亡した出来事では、死亡者の多くが噴火後も火口付近にとどまり噴火の様子を写真撮影していたことがわかっています。彼らが正常性バイアスの影響下にあり、「自分は大丈夫」と思っていた可能性が指摘されています。

人の心は自己保存の本能に基づいて、予期しない出来事に対して多少鈍感に反応する特性があります。これは、変化に対して過剰に反応してしまうストレスで心が疲弊しないように内在化された働きです。それによって人は、変化に対してある程度までは(人それぞれで異なります)それを正常な活動の範囲であると処理します。その認知の在り方を超える変化が起きた場合、その変化の度合いに思考の処理が追いつかずにパニック反応を引き起こしてします。いわゆる思考の停止です。正常性バイアスとパニックは思考の阻害要因としては表裏の関係にあります。

こういった正常性バイアスという心のメカニズムは、危機管理として災害以外にも日常の中で様々なことを示唆しています。その中の一つに「茹でガエルの法則」という寓話があります。これは「カエルをいきなり熱湯に入れると直ちに飛び跳ねて逃げるが、水に入れて熱すると温度の上昇が知覚できずに逃げ遅れ、茹で上がって死んでしまう」という話です。生理学的には実際にはこういうことは起こり得ませんが、危機管理に関して分かりやすい寓話と言えます。人は環境変化に適応する能力(多少の鈍感さ)を持つが故に、変化が致命的なものであっても、それがゆっくりと起こる場合は変化を知覚できずにその障害を受け入れてしまう傾向が見られます。

飽食の時代においては正常性バイアスが蔓延する?

こういったバイアス反応における最近の社会的な問題に「若者の浅慮と短絡」があります。社会の飽食性が高まるにつれ、この傾向がますます強くなっているように感じます。「飽食」とは「食い飽きる」ということです。要は「食うに困らない」ということです。日本は、1990年代前後は既に飽食の時代になっていました。

ライオンや象を見ても分かりますが、哺乳類は食が満たされると無駄な動きをしなくなります。思考を停止させて寝てばかりいます。人間もその例に外れません。食が満たされれば考えるという作業を停止させます。窮すれば生きるために思考し知恵を駆使しますが、満たされていれば思考しようとしなくなるという人の行為は心理学的にも証明されています。戦後20年程までに生を受けた人は復興期を含めて、原体験に「飢える」とか「貧する」という体感を持っており、一定の危機意識が醸成されています。つまり、「生き残る」という生存本能の領域に関する欲求反応やその為の思考を基点として有していますが、それ以降の人は理屈のみならず感覚的にそういった欲求にはピンとこないのが実際です。また人は目的的存在として目的の有無が思考発動の有無を生み出しますが、貧していた時代はその貧するという状態自体が人に「生きる」「食う」という普遍的な目的を提供してくれましたから、誰しもが自然と目的的に生きる状態になっていました。しかし、満たされた時代においてはその目的が見出せなくなっています。

1990年代前後はバブル経済期の破綻期とも重なりますが、この出来事は若者に未来に対する閉塞感を生み出しました。終身雇用や安定的な就労が望めなくなったという未来への失望が、将来に目的を持ったとしても結局はどうなっていくか分からないという諦観を生み出し、若者は目的を見出せないという状況に拍車を掛けていきます。そして多くの若者は、今は食えているわけだし現実に死と隣り合わせになるほど窮しているわけではない、という漫然とした空気感に浸りながら、「まあ大勢に準拠さえしていれば成るように成るだろう」と日々を送る状態がもう20年も続く中、社会はまさに正常性バイアスが蔓延する状況と言えます。

目的意識がないということは心に芯がないということであり、自分の意見が持てません。自律心がなく動きが依存的になります。自己喚起な意欲が持てずに活気が弱く、すぐにネガティブになったり心が折れたりしてしまいます。また、物事に回避的で葛藤からすぐに逃避してしまいます。そういうことを繰り返す経験しか持ち合わせていませんから、打たれ弱く我慢ができません。深く考えることが出来ませんから心の問題解決ができずにウツ状態に陥ったり、責任の他者転嫁に明け暮れたりします。壁を乗り越えることができませんから、漫然とした状態で日々を送ることになってしまいます。そして、そのような行動が更なるネガティブ思考を生むという悪循環を招いています。残念ながら短絡思考ですからそういった状況自体に気づくことができません。我が社でも、もう何人もの若者が出入りしましたが、その殆どは、知は高くても物事を深く考えず短絡的場当たり的な思考で人生の選択を安易にしている状況でした。

飽食の時代を乗り越える

歴史を紐解くと、古代ローマや古代中国の王朝など亡国に陥った国々の原因は総じて飽食からの怠惰と思考停止です。飽食を乗り越えるとは、「このままでは未来を食い潰すことになり、そこで待っているのは亡国であり、新たな貧困の出現である」ということを自覚することであり、そこに危機意識を持って事前に対策を講じ、それを実践するということです。それには経験は無いにしても他者の経験から虚心に学ぶという学習原則に則り、坦懐に自分の正常性バイアスを深く認識して事前に有効な道程に舵を切り直すことです。そして楽あれば苦あり、苦あれば楽ありという格言のように壁を乗り越えることの重要性から目を背けないということです。これらはまさに知の開発ではなく意の開発です。意があっての知であるという原則から目を背けない。難しいからこそ先に手を打つ。

ともあれ、日本の社会がグローバリゼーションやダイバシティの中で生き残るには、飽食が生み出す負の側面をしっかりと認識し、そこから目を背けたり後回しでその場逃れをしたりせず、正常性バイアスを打破すべく先手必勝の気概を持って手を打っていくことです。

さて皆さんは「ソモサン」?