ストレス社会と云われている背景にある志向性バイアスの歪み

ストレス社会の構図

心理学での実証で「ストレス」は生きていくための「行動の起爆剤」としてある程度は必要な存在であるということが分かっています。ある程度に関しては良く「スパイス程度」という今一つピンとこない説明がされるのですが、人それぞれなのでその度合いに定義はないのが実際の所です。ただ最近は物理的にも生理的にも贅沢なご時世になるに連れて幼少期からストレスの経験がなく(最も顕著なのが甘やかされて育っている)、ストレス耐性が非常に弱くなっているのは確かです。ともあれお酒のように適度であればある程度は活動エネルギーの添加剤として有効ですが、過度になると心身の不調の引き金になるという代物です。年代においてストレス経験に違いがあるということは、ストレス経験のジェネレーション・ギャップが起き、年長者のストレス経験に基づいた若手へのアプローチが裏目に出ると云うことが頻出しています。心理学者のレビンソンは、教育学者のエリクソンのライフサイクル論をベースに「過渡期」という概念を提唱しています。

これは、人にはその健康な成長過程において人生の中でこれまでの活動パターンを根本から見直さないといけない時期があるというものです。レビンソンは、それは少年期、青年期、成人期、中年期、老年期の5段階であると説明しています。私的には学校に入って社会活動に入るとき、就職によって経済的に独立をするとき、結婚や出産などによって家族を持ったり被扶養者を抱えたとき、社会的地位を得て社会貢献が求められるようになったとき、そして老齢によって引退を始め社会との付き合いを再定義する必要が生じてきたときと認知しています。ストレスはこれ以外にも予測外のこととして、配偶者の死や離婚、難病、逮捕拘留、解雇、失恋と云った要素があります。ストレスはそういった変化的な状況に上手く適応しようという心的な営みの表れであり、そのために自己概念がしっかりしている人や責任意識の強い人ほど過剰に陥りやすいという特性があります。こういったストレスが長く続くと、心的な圧迫がホルモンや神経活動に影響を及ぼし、次第に意欲や気力を衰えさせるのみならず、体力も奪っていくと云うことが起きてきます。そうすると徐々に誰の目にもわかるような障害、ウツや精神障害と云った弊害に繋がっていきます。こういった現象は、短期的にも大きなストレスによって引き起こされることもあります。いわゆるPTSGやトラウマという症状です。

ストレスの正体・・・日常の中で語られるストレスとは

こういったストレスは日常では、周囲の期待に応えようと能力以上の仕事を抱え込んだり(過剰適応)、周囲の評価を気にしすぎて一度の注意で全否定の如く考えてしまったり(過剰反応)、仕事そのものに未来が描けず意欲が欠如する(不適応)という状況からもたらされることが多いのですが、そもそもは頭が多様的で想像的に鍛えられておらず、短絡で直線的な思考の持ち主ほど陥りやすいのが特徴です。私はこれを「意」の欠落症候群と呼んでいます。以前より主張していることですが、人の頭の動きには「意」と「知」の2つの思考があります。文科省的に云いますと前者は「理解力」後者は「演算処理力」と云うことになります。前者が「解」のない領域に時には未知を含んだ「解」を見いだしていく柔軟な推論性を基調とする思考とすれば、後者は事前に存在する「解」に対して、既知のパターンを用いて合理的な道程を導き出す析出的な証明を基調とする思考といえます。

つまり後者の思考、いわゆる知という存在は、これまでに得た何らかの既知のパターンに適合しない事態に遭遇すると思考停止したり思考不能になりかねないわけです。そして受験の技術や現在学校で教える領域はこちら側に偏重しているため、日本における秀才とは知に長けただけの存在で、必ずしも意が形成されているわけではありません。また領域が異なるということは幾ら知を高めてもそれが意に達することはありません。知の強化で意を埋め合わせることは出来ないのです。使えない高学歴者やMBAというのはそういった人材を指します。しかしながら実社会の問題解決は判断や決断が伴うにもかかわらず、そのための情報が足りない中で随時に推論が求められるので、意がない人材というのは非常に憂慮すべき事態になっています。このように意のない人材が実社会に排出されることが積み重なった結果が、現在の「自分に考えがない人材」によるストレス耐性の低下やそれに伴う葛藤回避型人材、挑戦回避型人材、他者依存的人材、責任転嫁型人材、人生迷走型人材、人間関係指向偏重型人材、短絡的自暴自棄型人材、単線的思考型人材、上書き思考型人材といった若者の蔓延、そしてうつの蔓延に繋がっているのは間違いのない事実です。

意の働きと志向性バイアス

では「意」とはどういった思考なのでしょうか。「意」を理解するのに分かり易い材料として「志向性バイアス」という概念があります。人の思考の論理において「合理」というのは思考における「秩序」が整っているということを指します。例えば「錯覚」という現象がありますが、人は自ら秩序を作り出せた場合錯覚を見にくいということが実証されています。以前アムステルダムの大学で面白い実験が行われました。机の上を片付けさせたチームとさせなかったチームに分け、後で机の上にあったシミを見せると、片付けたチームはそれをシミだと明言したが、しなかったチームはそのシミに対して、そこに存在しない姿を見いだして空想を語り始めたのです。このことは起きた出来事に対して色々な原因が推測される状況において、例えそれが偶然であったとしても人はそこに誰かの作為や意図を推測したがるし、そういう推測をする人の大多数は思考に秩序づけが出来ない(ばっさり云うと頭が良くない)人達に共通する特徴であるという説に繋がります。人は思考の秩序が乱れたままだと、脳が関係のない、学習した範囲内の情報を意味もなく結びつけ、誤った認識を生み出すという特性があります。その時に大きく影響するのが保有している情報の量と偏り、そして無意識に発動する志向性認識です。無責任や責任転嫁、甘え、他者依存、葛藤回避といった意思は演算処理ではなく、社会的な秩序においての基礎として理解していなければならない能力領域です。これが幼少から形成されていなかったり、何らかの事由で歪んだり欠落している場合、思考の中に一定の秩序が働きません。人は生理的に自分が分からないことを理解しようとするとき、全力で自分の既知のパターンを探り出し納得しようとします。そしてそこで秩序だった説明をする思考の準備が整っていないと、憶測による説明をしたり、自分にとって好都合でストレスレスな説明を想像したりして、その思考に自らを賛同させ始めるのです。そうして自分が得たい意味や自分で可能な理解を作りだし、逆説的にそれを繋いで自分なりの、そして多くの場合独善的な秩序を固めていくのです。そう、「意」はその人の持つ情報の幅、そしてその人の持つ思考の秩序によって形成される認識の在り方です。社会的に不適応となる人は自分では自分が良いと正しいと思っています。それを無意識的に反応させます。ですから「お前は間違っている」とか「自己正当化」といっても理解が出来ません。「何を云われているか」の思考の社会的な秩序がないからです。また最近の生活環境は努力がなくても一方的に情報が受信されますから、それが受動であることにも気がついていませんし、その情報が偏っていることも認識していません。ですから若くなるに従ってどんどん「意」の脆弱な人材が増加しています。でも彼らはそういったことが深刻であることすらも認識していません。しかしストレス耐性は弱まるばかりですし、意思決定が出来ない人材や与えられた受動的な知に依存した自分が不在の人材は増える一方です。挑戦が出来なくなった未来の日本の姿。既知のパターンに準拠してしか思考が出来なくなった知的無能力者の集団。

さて、皆さんは「ソモサン」?