愚者と弱者を見極めるには哲学を持った洞察力が必須です

恩田 勲のソモサン第十九回目

日本人の好きな格言に「判官贔屓」というものがあります。これは客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情で、「弱い立場に置かれている者に対して、冷静な道理を持って判断を正すのではなく、同情によって問題解決に歪みを起こしてしまう」心理的な現象を云います。
「判官贔屓」とは「弱きを助け強きをくじく」といった心情で、弱い者虐めと云った和の中の人間関係を乱す行為に対してのカウンター的な所作に対して無批判に喝采を送るという心理です。民俗学者の池田弥三郎氏は「弱者の位置に置かれている者に対しては、敢えて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう。そしてその情が肥大化すると、事実に基づいた客観的なものの見方を欠くようになり、ついには短絡になり、正義か悪かで物事を判断するようになる。そこにおける正義は、弱者即ち正義であるという歪みによるもので、公正さを欠いた物事の進展を引き起こす」と説明しています。
日本人は和の維持を最優先するために、こういった義侠心と称される、中期的な理非よりも短期的な憐憫に執着する心理的な文化を持っていますが、これが様々な社会的な問題解決に大きな陰を貶めることが多々あります。最近の傾向としてはネットによるリンチとか公開処刑といわれる現象が顕著な事例としてあげられます。こういった現象は厄介なことに、個々の自尊感情からもたらされる防衛心の一つである「自己正当化に対する過剰投影」という心理的に病んだ反応が群衆的に上乗せされてきますからかなり歪んだ社会風潮を生み出します。

例えば一見弱者のように目に映るが実際は愚民である人の言に惑わされ、大衆が義を逸脱した結果、解決されなければならない問題が更に深刻な状況に転じてしまうと云ったことがあります。義とは言い換えると筋が通っている状況のことです。無理が通れば道理が引っ込むという格言もありますが、まさにそれが横行する世の中になったら秩序もへったくれもなくなってしまいます。それを意図的なのか無能なのかは分かりませんが、権力を持つマスコミがこれを煽ったら世の中は衰亡の道をひた走る結果になってしまい、和どころではなくなります。一体マスコミは意を持たず何処へ向かっているのでしょうか。

こういった世情を背景に今スポーツ界では様々な事件が噴出しています。大坂なおみ選手のような吉報もありますが、殆どが病んだ情報です。先般も体操界である女性選手が内部告発する出来事がありました。驚くことにマスコミを筆頭に多くの大衆がその内容に対して諸手で受け入れています。私的には論理的にどうも誤謬や齟齬が多くて眉唾に聞こえるのですが、マスコミの論調はその使命を逸脱した「判官贔屓」の塊です。あまりの単純な論理矛盾なので最近ではどこかマスコミの悪意を感じる気持ちが募ってきています。まあ大坂選手の記者会見の質問などを見る限り、採用時点での学歴主義の問題点がこういう所で露呈しているのかもしれません。問題なのはそういった媒体に煽られ、判断力も自己意思も持たずそれを盲信し「判官贔屓」という感情論でヘイトスピーチやネットリンチを繰り広げる日本の病んだ方々の存在です。

さて件の女子選手の話ですが、彼女はいきなり記者会見をし、その席上で「自分がコーチから暴力を振るわれたのは事実だが、自分としては、それは受け入れている。にも関わらず協会はコーチを罰した。それも行き過ぎた処罰なので撤回して貰いたい」という趣旨を話しました。そこまでは流れとして理解できたのですが、その後「コーチがいないと自分はオリンピックへ行けない。今回の措置はコーチを自分から引き離す手段であり、これは協会のパワハラである。そして協会の権力者は自分を取り込もうとして画策している」とぶったのです。冷静にその内容を聞く限り、私としてはこの辺りの話は推論、場合によっては妄言に近いかもしれないとしか認知できませんでした。
とにかくその発言には裏付けやエビデンスがないのです。また話している内容の脈絡も杜撰です。にもかかわらずマスコミはその検証もなく一斉に協会批判を捲し立て、協会の権力者を俎上に上げて批判一色にリンチを始めたのです。理由はただ告発した選手が未成年であり女子であるということしかありません。そしてそこには慣例的に協会と選手は主従であり、選手は弱者であるというステレオタイプ的な感情論があります。ともあれ社会的な公器がその女子選手の話している内容の論理性に関する検証をせずに一方的に情報を垂れ流すのですから驚嘆に値します。ところがネットではこのマスコミの姿勢をこれまた丸呑みしてヴァーチャルリンチが始まったのです。日本では肉体的障害に対しては厳しいが心理的障害に関しては非常にいい加減な国といえます。それによって自殺者が頻出してもそれを問題視する感受性が非常に鈍い国です。これで日本は本当にモメンタムあふれポジティブで未来に進化できる国になれるのでしょうか。はなはだ疑問が沸き上がります。

いまのマスコミは戦時中のような思考停止のステレオタイプな空気が漂っています。でも怖いのはそれを感知しなくなっている平和ぼけ的な日本の大衆の思想観と云えます。
ある国際政治学者が情報番組のコメンテーターとして「マスコミの弱きと決めつけた立場の百姓が出した訴状を盾にして、ともかく悪代官を血祭りにだけはしないと気が済まない、と云った溜飲を下げるためだけの報道や民衆の扇動はいい加減うんざりする」という発言には強く同意されます。本来私はこの学者は余り好きな人ではないのですが。
とある大企業の人事畑出身の仲間が面白い話を聴かせてくれました。「新入社員に日報を付けさせている中で、あるとき一人が日中眠くて仕方がない、と書いてきた。私は仕事の日報にそういうことを書くべきではない。眠くなると云うのは仕事に集中し切れていないからで、集中するためにはどうするかを考えて、それを書いてみなさいと指導したら、翌日全体の発表でその者から、会社では本音を書いてはいけないと指導されたと云われ大恥をかいた。頭の悪い人は自分の考えられる狭い想念の中だけで情報を組み立てて、想念を広げる足しになる助言や真意の意図が分からず、自分に都合が良いことだけを想起する。大変危険である。この場合も我が社にそのような頭が悪い人材が入るはずもないのだが、もしや、と思って調べるとやはり縁故採用だった」といった内容の話でした。

この選手の場合、「どうしてもオリンピックに出たい。そのためにはなんとしても自分にとって有利に事が進んで欲しい。それには今流行の権力者のパワハラをネタに使って訴えれば」と考えた可能性は否定できません。利己主義の浅慮な言い分です。実際その後にテレビ局が映像を流しましたが、間違いなく強い暴力はあり、協会の判断は正しかったように思えます。そういった事実が出ると件の選手は「何故勝手に映像を出したか」と憤っているのだそうです。
可笑しな話です。彼女を守るための処置が彼女の想定外の結果になったからといって騒ぎ立てる様は弱き立場の者がする所業であると云えるのでしょうか。全く矛盾だらけです。昔の百姓の訴えが全て正しかったわけではないし、義経が京都で勝手な振る舞いをしたことも史実として分かっている話です。全てが弱者なわけではないのです。「弱者の横暴程危険なものはない」、今一度私たちはしっかりとした哲学観を持って虚言や戯れ言と真意との判断が冷静に出来るような確かなマインドを整えることが必要なっていると思います。
面白いことにきっかけを報道した雑誌社は反証もせず、現場の客観的な調査もせずに大声を張り上げていたにもかかわらず、何となく潮目が変わってきた刹那、偏った情報ばかりを集めてそこに推論を満載して自己正当化の報道に邁進する体ですし、便乗したタレントも同様です。また宛てが外れた様相になってきた雑誌社は別のスポーツ団体の糾弾に乗り換えようと躍起になっています。本当にプロとして情けない限りです。部数主義、拝金主義はここまで魂を汚してしまうのでしょうか。今雑誌購読が減っている状況ですが、自滅したいのが本心なのでしょうか。

それ以上に気になるのは、自尊観の低い人材、モメンタムの低い人材のネット発言です。初期報道に便乗して騒ぎ立て「判官贔屓」を気取って正義感ぶったは良いけれども、論理性がなく徐々に反駁されるに連れ、選手の問題と協会の問題は別である、といった自己正当化の極みと云える発言がネットコメントを埋め尽くし始めています。
それに圧倒的に「いいね」ボタンが押されています。日本人は明確に「いいえ」を表現するのを嫌います。ですからどうしてもイメージは「いいね」が圧倒的に感じてしまうという側面があります。それにしてもやはり自分の浅慮な意見がその過程で違っていたように思えるのならば、正直に間違いを受け入れる心構えを醸成しなければなりません。実はこの辺りがモメンタム開発の第一歩なのです。
その辺りについて詳しくお知りになりたい方、興味がおありの方はまず私共に一報頂ければ幸いに存じます。

さて、皆さんは「ソモサン」?