より楽しい人生を生きるにはどうすれば良いだろうか

恩田 勲のソモサン:第十七回目

人が緊張して失敗したり冷静さを失って思慮分別が付かなくなったりするのは、全て「人から良く見られたい」という他発的欲求の心理が働くからに他なりません。その顕著な例が「人前で上がって頭が飛んでしまう」という反応です。
人は誰しも動物的な生理的欲求と共に人間特有の心理的欲求をもっています。この欲求には「人から弾かれたくない」という自己存在感と「人から賞賛されたい」という自己効力感の2つの他(外)発的欲求と、「自分として好むことがしたい」という自(内)発的欲求があります。他発とは他者との比較の中で自分を認知する心理的動向です。
自発と他発は常に相互にせめぎ合う関係にありますが、動物的本能の影響において他発的欲求の方が強く心を支配します。動物的欲求とは種族の維持に向けて「群れに属したい」「群れの中で優性的立ち位置でいたい」というほ乳類がその進化の過程で身に着けた反応行動です。つまり人はその習性として、反射的には他発的動機としての心理が働く存在であるということです。
従って人は誰しも素のままでは「人に良く思われたい」し、「人から尊敬されたい」し、そのためには傍目に対して「上手くやりたい」という心理が心を支配しています。言い換えると常に「人からどう思われているか」を気にしながら日々の生活を送っているのです。そしてこういった自意識は、人生における欲求充足の自己認知状態に応じて強弱が生じます。
例えば成熟の過程において他者の存在を自己と比較していない幼児には「あがる」という症状はありませんし、無邪気に誰彼構わなく他者に関わる行動を取ろうとします。
こういった欲求充足に基づく意識の力は人によっての性格的な要素もありますが、殆どの場合は幼少期からの原体験によって強化されます。幼少期に豊かな愛情に恵まれないとか、ネガティブな空気の中で過ごすとか、周囲から常に比較される環境の中で育つと云った場合、人一倍「人からの評価」を気にした行動選択を取る性向となります。そしてその環境下においてその劣的な気持ちが解消されるような充足状態の心理を経験していない場合、気持ちは時系列的に拍車が掛かっていき、過剰な位に「高く評価されたい」とか「卓越した自分を他者に認知されたい」という意識が顕著になっていきます。これがいわゆる「プライドが高い」という現象です。当然それが高ければ高いほど、「それが失敗に繋がったときの恐ろしさや不安」を大きく膨らませることとなります。

この心理は日常「目立ちたがり」という行動にも反映します。最近、顕在的潜在的を問わず心理内に「目立ちたがる」意思を抱えている若者が頻出していますが、マスメディアやインターネットにおける反応を見る限り、やや度が過ぎているような感もあります。これは人本来の能力限界を超えるグローバル化に伴う多様性への対応や、更にそれを俊敏化という理屈の中で「無理を加速させる社会的な風潮(この端緒は本来その歯止めや舵取りの役割をしなければならないマスメディアの機能劣化や教育制度の歪みも促進要因になっているかもしれません)」の放置による大きな歪みの発生に起因しているように思えています。それが若者に対して過剰な位に他者比較的な生き方を煽ったり、ネガティブで殺伐とした情念が中心となった風潮を蔓延らせたり、そのストレスが若者に必用以上の「目立ちたがり」という行動をとらせているのかもしれません。
ともあれこの心理が自分自身に損をもたらす場合は何らかの手を打った方が得策だと思われます。ではどうすれば良いのでしょうか。
ポイントは他者比較をしない、或いはしなくて済む環境を作り出してしまうことです。
最も単純なのは、比較の心理、「自意識」を過剰化させるポイントを逸らすことです。例えば「人前で面白く」とか「格好良く」と云った意識の矛を収める認知を持つことも一手です。私はこれまでに最大で2000人程度の人の前で話したことがありますが、一番初めの話は50人を前にした講演会でした。正直200人を超えると後は何人でも同じです。何故ならばそれ位の人数になると最早聴衆の顔は識別できなくなり、言葉は悪いですけれどもまるで芋の子が並んでいるように映るからです。ただ芋の子では反応が見えずに聴衆との対話が出来なくなり、内容が無機質になってしまいます。それを避けるには最前列辺りの前向きそうな人を一人二人見いだして、その人達に語りかけるように話すと非常に話に潤いが生まれてきます。しかしそういう技術を身に付けたのはだいぶん経験を積んでからのことです。
最初は50人でも心は舞い上がってしまいました。「上手く話せるだろうか」「時間が余ったらどうしよう」「言葉が出るだろうか」。様々な思惑が頭をよぎり、直前ではすっかり頭が白くなりかけました。良く言われるように「手に人と書いてそれを飲み込む」という方法もやってみましたが効果はありません。
「さあどうしよう。」その刹那頭にある考えがよぎりました。「聴衆はお前の顔を見たいわけでも、パフォーマンスを見たいわけでもない。また語りかけを聴きたいわけでもない。あの人達が欲しているのは話のテーマに関する内容である。その内容を伝えれば、誰が話しても良いのである。」面白いことに一気に冷静になりました。幸いなことに我々の商売では事前に聴衆に配布してある資料があります。その内容を丁寧に説明すれば良いのです。心にゆとりが出来、そのまま難もなく2時間を過ごすことが出来ました。
さあ、1回でも成功は自信に繋がります。そして冷静にかつゆとりを持った場数の経験は、新しいアイデアを生み出します。そうして私は話術を身に付けていった次第です。今では仕事に関わる話においては、ほぼ8時間はぶっ通しで話せる自信があります。面白いのは何百回も場数を踏んできた私ではありますが、結婚式などでいつもと違うスピーチが要求された場合や「明らかに内容よりも私の話を聴いていらっしゃる」という状況になりますと、途端に上がってしまうと云うことです。それを乗り越えるには、やはり事前準備による最低限の自信の創造しかありません。話というのは人間性のみならず技術による自信が関わってきますから、意識転換によって瞬間での上がる気持ちを逸らすという自己管理術やそのきっかけを手中にすると同時に、それがどういう場面でも自然と出来るようになるため、様々な場数を踏むことで自信を作り上げることはとても大事なことだと思います。それこそがまさに「足で考える」という過程です。
こういった流れは、人前で行うあらゆることに繋がっています。スポーツ選手の本番でのプレーや試験本番での気持ちの準備など、心の不安を伴う場面は全て同様な心理状態が働いています。その気持ちを更に膨らませるのが、基本欲求反応への心構えや自己認知の在り方なわけです。
冷静になる方法として「自分は期待されていない」という自己暗示を紹介する方もいらっしゃいますが、私はそれには同意できません。何故ならば、自分を卑下するやり方は「無理なモノは無理」「自分の器に応じたことを精一杯やるだけ」という暗示によって心を一瞬安定化はさせますが、その暗示のかけ方は自己奮起を妨げる問いかけにも繋がっているからです。人は発憤したときに「火事場のくそ力」が発動する無意識的な能力も備えています。ですから自己を否定するようなアプローチは得策とは言いがたいわけです。大事なのは、人は「自分は自分以上でも以下でもない」という自然体の時に最も力を発揮する、という生理学を知ることです。そしてその境地になれるには、常日頃から他発的欲求を凌駕できる自発的欲求心理を内的に持ち、そこに対して集中し発憤できる自己認知力を身に付けることです。
自発的欲求とは「自分が好きなこと楽しいことに対しての目的意識を持ち、それを達成することでより自分の快適を高めようとする前向きな気持ち」のことです。それはちょっとした成功体験から導き出されます。またそれは日常での周りのちょっとした賞賛によって高められます。そしてその賞賛は自分を取り囲む全体がポジティブな空気の中で、比較という世界ではなく、ごく自然な中で発せられる自他共に共有できる快適な反応行動でなければ意味がありません。
そういった空気(例えば健全なライバル関係があるチームの状態)の中で自発的欲求を高められる明確な自己実現の目的を持って日々を送る人を見ると、まさにどんな逆境や本番においても動じず(上がることなく淡々と冷静)に、着実に成果を上げていっていますし、皆さんもそういったシーンをスポーツなどで垣間見ることが多々あると思います。彼らにとって他者は関係ありません。何故ならば、彼らはそういった外野が自分の目的達成に対してプラスか否かを経験の中で身に付けているからです。彼らはとにかく自分の目的達成に向けて集中しようとします。そして感情によって思考や動作が歪められないように自己を抑制することの意義を見極めた上で、そのための訓練を日々積み重ねています。そうしてそれが体得できるまで高められているのです。
そして「最後に笑うものが最も大きく笑う」ということ、人生を楽しく生きる術を実現しているのです。
但し、テニスの錦織さんを見るように、誰しもが完璧なわけではないというのも皆さんは分かっていると思います。全ては一歩一歩の積み重ねです。

さて、皆さんは「ソモサン」?