自力本願と他力本願という仏教の教えと自尊観

恩田 勲のソモサン:第十五回目

これを書いている時はお盆の真っ只中にいます。ということで私も少しお休みモードで今回のソモサンは、先週の続きを短めに送らせて頂こうと思います。

先週は、日米の違いを通して自己存在やダイバシティ時代における社会的な対人関係の在り方をご紹介させて頂きました。その最後の方で自尊観という実存に関する考え方が時に「闇」を生み出してしまうことにも繋がってしまう怖さについて触れさせていただきました。
人は社会的存在として生存競争を生き抜いてきましたから、誰しもその本質に「群れていたい」という欲求を持っています。一方でその群れの中でより優位になることで更なる自己生存を確保しようとし、「特別でいたい」という欲求も持っています。この矛盾でもある欲求本能は常に群れを意識し、群れと自分を比較する意識行動を生み出します。心理学者のマズローはそれをピラミッド構造で、人は誰しもまず群れに同化するための比較反応が起こり、次に群れから畏怖されるための比較行動を起こすと説きました。つまり人はまず同化するために人の顔色を見て同調しようとし、それが満たされると次に畏怖されようと優等的な行動を取ろうとするということです。

これは同時に、同調できず、また劣等に駆られると人はストレスをいだき、闇に陥るということを意味します。禅などはその欲求を如何に自己統制して心を安定させるかを説きますが、鎌倉時代以降禅が特権階級に支持され、今でもエリート階層に持て囃されているにも関わらず一般階級に普及されなかった理由がこの辺りに垣間見られます。

ところで、「考える」には3つあります。「頭で考える」「手で考える(これにはよりライトな口で考えるも含まれます)」そして「足で考える」の中で3つです。その中で実存にとって最も重要なのは「足で考える」です。
「足で考える」とは端的に言えば「経験知」という「暗黙知」の取得であり、世の中では形式知になっていない知識や情報が沢山あり、少ない情報で幾ら思考を駆使しても豊かな見解は生み出せないということへの警告です。

実際弊社にも最高学府の卒業生がいます。非常に頭の回転は鋭いのですが、如何せん雑学的で土に塗れた情報が乏しく、狭い了見での見解が多いのが課題になっています。対話をする時、他人から得た情報を駆使して論を組み立てるのは目を見張りますが、能動的に創造するのは今一つと云えます。創造とは「異種の情報を異質に組み合わせること」ですから、非常識と云えるような発想はそれだけの情報の格納が求められます。彼とその件について話すと、実際彼の時代には雑学などに触れる余裕など無いくらいに受験のための勉強量が求められる状況になっていたということです。これは文科省の責任重大です。しかし、それこそそういう経験しか無い人材が文科省に入って指導しているのですから悪循環の度合いは増す一方でしょう。理非の判断も出来ず、収賄行為に手を染める幹部が出てくるのも道理と云えます。いずれ民間も今の学歴偏重意識を自衛しない限り、早晩破綻する大手企業は続出するかもしれません。
さて弊社の人間はそれを意識し、現在経験知を増やすべく現場を徘徊していますので杞憂は早い段階で払拭されると思いますが、そういった「頭は良いが賢いとは云えない」人材がそのことに気付かず、リスクや経験を避けて口先だけで蠢いているのも近くに見られます。こういった輩は実力や成長心がないので隠れた劣等感が強く、やたら見栄やプライドだけが強いのも滑稽な限りです。
だいぶ話が外れてきましたが、ともあれ最近のこういった人材は、足で考える力が無い上に、頭や手で考える力も足りていないのですから、日本の未来には暗雲が立ちこめていると云えます。

本題に戻しましょう。最近はともあれ、中世から近世において禅が上層の階級に支持されたのは、その層の人達が頭で考える余裕があった人達だったからに他なりません。基本「衣食住」に困るわけでもなく、「苦役」は自らを高めるべく、自らの判断で自らが選択して行うポジティブな世界観の中で生み出された境地と云えます。
一方下層階級は「苦役」を自ら求めたわけではありません。貧困のような肉体的なものもさることながら、社会からの疎外感や劣等感のようなものは、本人からすれば「誰が好き好んで」という境地です。そういう人達にとっては「自尊観」が満たされたという経験がありません。人によっては周りから見て明らかに低いとみられても、本人は今の「自尊観」が普通の心理状態である思っているのです。そういった人に「貴方は卑屈だ」といって、それが理解できるでしょうか。また心に染み入るでしょうか。「人と比べるな」といって「ハイそうですね」と意識を変えられるでしょうか。変えられないからこそ苦しむのです。這い出せないからこそ闇に陥るのです。特に幼少期から劣等感や愛着障害に貶められた原体験を持っている人にとって、救いの先は見えません。まず自助努力など不可能です。そこに求められるのは、枯渇している愛情という他者力の注入です。エネルギー源の装填です。これは自分自身がそういった経験、つまり「足で考える」力があればすぐに分かることです。
ところが「頭でしか考えたことの無い人」、特に恵まれた人にはその機微が分かりません。現代はそういった歪んだパワーエリートに支配される時代になり、上級階層(勝ち組といった時代もありましたね)は何が人のエネルギー源であり、何のために人は生きていて、何を目指して活動しているのか、も考えずに漫然と日々を過ごしている、つまり上層階級の人も病んでいる状況になっているように思えます。その闇を更にグローバリゼーションやダイバシティと云った、これまでの日本人の意識や観念では状況を悪化させることになる状勢が加速させているように私はみています。鎌倉時代に、禅と共に何故浄土宗が、菩薩信仰が特に下層階級を中心に広がっていったのか、その本質を真に考えるときが来ているように思っている今日この頃です。
そう書いている今はお盆なのです。

さて、皆さんは「ソモサン」?