アメリカと日本では自己存在の在り方が真逆なのです

恩田 勲のソモサン:第十四回目

今回のソモサンはお盆の最中なので、皆さんの多くはお休みの最中だと思います。そういった心穏やかなところに仕事がらみ的な話も無粋ですので、今回は日本人という大きな視点でお話させて頂きます。

先日教育テレビ(最近はEテレというらしいです)をふと何気なく見ていると、たまたま帰国子女の中学生達が集まっての座談会が放映されていました。最近日本人の行動特性を捉えた行動改革について研究していたので興味深く見入ってしまったのですが、今回はその中で強く感じたことをご紹介したいと思います。
心を動かされた一つはいわゆるLGBTについてのコメントでした。出演していた中学生はその中のGの方のようでしたが、アメリカでは多様性の中で皆がそれを容認と云うよりもごく普通の存在として扱っているにも関わらず、日本に帰国するとまるで自分の存在が化け物かのように扱われ、これまで身を潜めて暮らしてきたという話でした。日本は世界では珍しい小種族国家ですので(これも、あたかも単種族国家かのように思っている無知も多数いる情けなさであります)、かなりの度合いで同質的な価値観が横行し、異質排除やマイノリティー虐めといった問題が私たちの鈍感さ故に生じているという実態が、その深刻さの度合いを深めているということを改めて認識させられました。

日本がグローバル化の度を高め続けていく以上、この問題はもはや避けては通れない問題です。そしてこれは、一人一人の意識変容へのアプローチというよりも、社会文化といった集団力学的な改善が求められる問題であるということを真摯に考える必要があります。
そして上記の問題解決にも関わる面が含まれますが、その次に別の参加者が放ったコメントが、日本が抱える様々な問題解決に対する困難さを表していたのです。そのコメントは今の日本の沈滞化に対する核心を喝破していると思います。その内容は、「自分はアメリカで幼少期から『自分は常に自分であれ』と育てられてきました。だから自分はどういったときでも自分という存在を明確にして自分を主張してきました。そして周りの人も同様に自己を主張する中から自己を作り上げてきました。ところが日本に帰国すると、周りから一斉に『自分は出すな。人と同じになれ』と指示されました。『そうしないと貴方は孤立するし、厄介者となる』。確かに日本で自分の意見を言うと、皆が皆に同化させるように囲い込んできます。例え皆の意見に基軸がなくて抽象的であっても皆の意見が一番で、具体的な自分の意見は逆賊的に攻められます。
私はそれでは浮いてしまうので、一度は皆が云うように私は私を人と同じにしようとしました。個性をなくそうとしました。そうすると日々段々と気持ちが苦しくなってきて、結局それは出来ませんでした。今どうすれば満足に生きていけるか悩んでいます」といったものでした。
最近「忖度」という言葉がはやっています。指示や命令ではなく、気持ちや考えを悟って動くと云うことです。この行為はあくまでも自己責任ですから、例え間違った判断であっても本来の責任者が責任を取ることは起きえません。果たしてそれで責任を要する活動、特に組織活動はきちんと機能するのか疑問ですが、これまでの日本の意思決定や実践はこういった「空気を読む」が基本の活動であったのは事実です。
確かにあるネットニュースにおいてアメリカから日本に嫁いできた黒人女性の投書があり、そこには「自分はニューヨーカーから日本の寿司職人に嫁いで女将になったが、『日本人の文化は、自分の気持ちを強く言葉にしない文化である。それはここでの文化では、皆が快適でいられることを大切にする文化で、そのために自分の意見はどっちつかずにしてもいい時がある文化だからである。伝えたい本音は少しほのめかしたり、それとなく示したりするだけで良い』ということに気付いた。今は主人の本心や言いたいことがすごく分かるようになった」という内容が書かれていました。その視点から見ると、アメリカではまず自分が快適でいられることが前提にあり、誰もがそれを主張し合いながらお互いに落としどころを握り合う文化であるということが分かります。
さすがニューヨーカーすごい洞察力であり、学習力です。こういった人は世界中何処に行ってもそこに順応してやって行かれることでしょう。但し彼女は重要なことを文面に残しています。
それは「どっちつかずにしても良い時がある」という一文です。これは当然「どっちつかずではいけない時は強く言葉にしないといけない、つまり自己主張しないといけない」と云うことです。
今の日本は何処か社会が狭量となり、長いものには巻かれよといった同調圧力が蔓延っています。そしてちょっと何かあると、バッシングの嵐です。そうして逆の流れが出ると、今度は一斉にそっちの方に同調していきます。また、社会が狭量になった原因自体が、グローバルによる多様性の増加や変化のスピードが速くなった社会の中で、日本という国や民族自体が自己存在(一般にアイデンティティと云いますね)を持っていなかったことに帰結しています。それは敗戦によって国家の大義や国体を破壊されたことから始まっていますが、そもそも社会的変化が乏しく緩やかであった日本の文化の本質が単一的な思想や価値観によって成り立っており、更に守りや縮みが基調となっているということに起因しています。苦しみや厳しさの経験がないと人は深く考えたり、存在を強く認識したりしようとしません。
今のマスコミの記者の多くなどはその好例と思います。知は高くても意がないということであり、意とは即ちアイデンティティ(自己存在)です。日本は国家レベル的にそういった面で世界でも非常にレアな存在と云えます。だからでしょうか、現代にアニミズムを持ち込んで存在している先進国は日本だけです。

ともあれ、日本の文化が産んだ集団主義やその一行為としての「忖度」は全てが否定されるものではありませんが、少なくとも現代のグローバル社会に日本が生き抜いて行くには、最初の方で中学生が問題視しているように、初期設定を「自己主張」「自己存在」という様に意識形成しておかないと、生き残りに向けて戦う為の土俵にも立てないことになります。論争を端から逃げていては自己を保つことは出来ません。これからは日本人もまず「自己主張」があって、その上で相手と「協調する」ことも大事であるというバランス感覚を見つける育成が必要十分条件になると思います。

先月私たちのパートナーである川野住職が「自己肯定感」に関する書籍を出版されました。そこでは自己肯定感と自尊心とは別物であるという説明をされていました。人間心理学のマズロー博士は人間の社会的欲求として、集団帰属欲求としての「自己存在感」、そして自我地位欲求としての「自己効能感」という2つの他発的欲求があって、それが満たされたときに始めて自己実現欲求という「自己肯定感」、自発的欲求が作動し始めると説明しています。
つまり確かに他発的欲求と自発的欲求は別物ですが、まず他発的欲求が満たされないと自発的欲求が作動しないということが重要点なのです。今の若い人は心身共に豊かな幼少期を送っている人が増えてきました。他発的欲求に歪みのある人生観を持つ人はそう多くはありません。だからすぐに自発的欲求を満たそうとしますし、その時には自己肯定感とか自慈心の作用が重要になりますが、時には多発的欲求に瑕疵がある人もいます。その場合は、まず他発的欲求を満たしてあげなければ、自発的欲求のモメンタムは作用しません。他発は周りから愛情を注ぎ込むことです。愛に飢えている人に厳しさや自律の要請は禁物です。現代の日本人は、旧来からの日本人としての文化からの自己確立と、新しいアメリカ的な自己確立の在り方の狭間に陥って心を病む人が増えているような感があります。アメリカのやり方は同時に日本人以上の家族主義が支えているのも事実です。日本の集団主義は家父長制が基盤でした。文化を考えるときにはそういった多角的な角度から複層的に考えることが重要になります。

さて、皆さんは「ソモサン」?