スキーマやバレンシィという「意性」がもたらす行動選択を考える

恩田 勲のソモサン:第十一回目

「神は乗り越えられる人にしか試練を与えない」という言葉があります。故事というのは洋の東西を問わず人にとって今を生きる上でも様々に示唆を与えてくれます。

実際のところ、人には一定の試練や逆境を経験してそれを越えた人のみに与えられる境地があります。精神科医の川野泰周先生に教わった話ですが、PTSD(外傷性ストレス障害)経験者に対する研究によると、精神的なもがきの結果としてポジティブな心理的変容が生じる体験を得た人が続出していたという報告があるそうです。これをPTG(外傷後成長)と称するそうで、1996年に米国のノースカロライナ大教授のR.テデシ教授によって発表されています。
具体的には、人間関係をより深く意味のある体験と捉える、自己の存在や霊的な意識が高まる、生に対しての感謝が強まる、人生や仕事への捉え方が本質的になる、そして自己の強さに対する認識が強まるといったことだそうですが、何れにせよレジリエンスがかなり強化される様です。昔から修羅場の経験が人を成長させると言われて来ましたが、あながち間違いではない様です。人は逆境を糧に飛躍する心の性質を持っているということは、現代の人材育成や能力開発に対する様々なアプローチは再考する必要がありそうです。

では逆境を乗り越えられた人は超えられなかった人と比べてどういった違いがあったのでしょうか。ポイントは様々ありますが、特に大きな特異点として、超えられた人は共通して心構えや人生に対する拘りがあり、人生において目的意識を強く持っていたことが大きく影響していたということがあります。ストレスの渦中にいるときは未来を予測する様な精神的な余裕はないし、むしろ情的には不安定な状態に嵌まっているのが日常になっています。しかもそれがいつまで続くのかも分からず、いつまで耐えれば良いのかが見えない心の重圧の下に過ごしているわけです。それを切り抜けられるのはまず何よりも「生きる目的」の所有に他ならないということです。

欧州に「夜と霧」という有名な随筆があります。これは第二次大戦下のナチスにおけるユダヤ人迫害の中で強制収容所での生活を生き抜いた心理学者ヴィクトル・フランクル氏が書いた記録を元にした内容で、日々多くの人々がガス室に送り込まれ、そうでなくても劣悪な環境の中で誰もが絶望し心折れて死んでいく状況においても希望を失わず生還した自身の経験的な物語です。この中で筆者は、自分が生き残れたのはこの世にやり残した仕事があり、人には生きる意味があるから生きなければならないのだ、という執念が自分を生へと駆り立てていたと述懐しています。興味深いのはフランクル自身が極限的な体験を経て生き残った人であり、ユーモアとウィットを愛する快活な人であったということです。まさにこの人の存在もPTGという研究の証明を体現していると云えます。そう、人が強く生きていくのに必須なのは、まず「前向きに生きるための目的意識」を明確に持っていることなのです。

そしてもう一つの要因として見逃せないのがメンタルモデル、それも深層に働くスキーマです。スキーマとは個々人が持つ特有の認知パターンのことです。これは殆どの領域で幼少期の情的な経験によって心に深く刻印されます。従って日常的には無意識に発動しますし、ある種洗脳と同じ作用をしており簡単に変容することが難しい心の作用です。人にはその中で幾つかの共通するスキーマとしてのパターンがあります。例えば物事を前向きに受け止めるか後ろ向きに受け止めるかとか、心理が極限状態になった時に逃避(回避)的な行動選択をするか闘争(挑戦)的な行動選択をするか、またこれだけあれば良いといった衛生維持的な指向を基調とするか、より向上を求める促進的な指向を基調とするかといった、行動や判断の選択に関わる認知パターンです。心理学者のヴィヨン博士はこれをバレンシィと呼び、選択における習性の様な存在で、それを変えるには日常での強い意識づけが求められると説明しています。
例えば、 闘争か逃避かというバレンシィにおいて逃避が軸になっている人は、どういう場面でも逃避の行動選択を本能的な感覚で選択してしまう。つまり、局面において逃げる人はどういう状況でも逃げる行動を取るということです。確かに私の周りでも、何かがあった時に直ぐに逃げる反応をする人がいます。そういった人を見ていると、本当にとことん逃げる選択をしますし、本人はそれを殆ど意識していません。また意識することがあっても、逃げまいとしたところで身動きが取れなくなり、結局は防衛機制を働かせて自分に言い訳をしたり自己正当化を駆使したりします。マネジメント的に見れば、これは採用や昇格的な観点での視点として扱わなければならないことだと思います。学歴や知性よりも、こういった意性における点をしっかり見定めて人の扱いをしないと本当にえらい目に合うことになります。
またこの逃避というバレンシィを自覚した場合はかなり強いメタ認識を持って自己に臨まなければ、ちょっとしたことで直ぐに崩れ去ってしまうことを自明する必要があります。バレンシィは殆ど無意識で発せられます。つまり心理的に余裕がない時に鎌首をもたげるわけですから、直ぐに穴に陥ってしまうわけです。私の先輩で何度か転職をした人が始めてこの理論を耳にした時に、心から私に「自分はそうだからまた転職をしてしまわない様に気を付けなければいけない」と述懐していました。そうして何年かは確かに自分を戒めて活動していたのは確かです。しかし10年ほど経ったある日、ちょっとしたきっかけで積年の我慢が切れたのかフラリと転職してしまいました。風の便りでは、それをきっかけにその後も風船の様に転職を繰り返しているということでした。能力的にはとても力のある人だっただけに勿体無い話です。

また促進的なバレンシィか維持的なバレンシィかも大きな影響を周りに与えます。前者は成長のスキーマ、後者は停滞のスキーマ(時には後退のスキーマ)と言い換えることもできます。私の経験では維持的なバレンシィの人の多くが逃避のバレンシィと被っている様に思えます。何れにしても「これでいいや」「この程度でいいや」といったバレンシィの人はどこか無責任な意識を持っている様です。それが行動に出ます。例えば口が軽い、深く考えないといった具合です。責任感があっても、あまりに深刻に構えすぎる人も困りものですが、ビジネスにとって軽いのはご法度です。またこういう人は何をやらせてもいい加減です。勉強をしないし、物事を流します。そして責任問題になった途端、逃避です。ですから永遠に自分に勝てません。

ケ・セラ・セラという価値観、そういったバレンシィやスキーマはそれによって助けられる場面があるのも確かです。全てを否定するのは危険です。それにしてもビジネスにおいては逃避や維持のバレンシィを基軸に生きている人は扱いづらいことだけは確かです。ここで重要なのはこういった世界は、知性ではなく、意性の問題であるということです。頭が良いのとだらしが無いのとは別の問題であるということです。意性を形成する、あるいは鍛えるには直接意性にアプローチしなければなりません。話して聞かせるといった知性に対するアプローチは効力を示しません。意性の形成には何よりも体験が大きな意味を持ちます。頭で考えさせるのではなく、足で考えさせることです。時には修羅場の体験も大事です。躾というアプローチもある種のミニ修羅場と言えます。
こういった体験の場を提供するのもマネジャーの重要な仕事です。従って上司自身が逃げる様な人材ではこの様なアプローチは出来ません。今、日本の様々な組織は、意性の開発に真剣に取り組む必要があります。意のない人材を採用したり、昇格させたりするということは自らの首を絞めているということに他なりません。皆さんもしっかりとした目的意識を持ち、果敢に逆境に挑戦し、レジリエンスやモメンタムの研鑽を通して共感できる意を持った人材を輩出し、明るい未来のためのイノベーションを生み出す日々を送っていただけると幸いに思います。

さて、皆さんは「ソモサン?」