「レジリエンス」を再考し、心の健康、活性の在り方を洞察する

恩田 勲のソモサン:第四回目

最近つらつらと頭の散策をしている中で気付いたことがあります。
これまで「レジリエンス」という言葉が流行する中で、殊更疑問を持たずに私も長い間深く考えずに「レジリエンスの向上」と云ってきたのですが、よくよく考えると「レジリエンス」とは「復元力」という一定領域においての作用的な力の表現であって、本来向上すべきはレジリエンス以外の作用にも紐付けられる「リフティング・フォース」とか「マインド・バイタリティ」と云われる原動力の方であり、そういったことをきちんと理解した上でアプローチをしていかないと、期待する成果が得られないということに思い当たりました。

言葉の意味やそこからもたらされる影響はとても大きな結果の違いを生み出します。皆さんもお感じのように現代は先行きが不透明で精神的には非常に不安定となる時代です。そういった個々人の不安感がうねりを作り出し社会の風潮もネガティブが基調となって、それが翻って個々人に対して対人関係面やアイデンティティ面において強いストレスを生み出す状勢となっています。これは洋の東西と云うよりも、先進国と途上国の成長に向けての期待感の違いと云った観点で、世界的に先進国を中心に閉塞感を生み出しているように思えます。このような精神面を中心とした問題の打開策の一つとしてアメリカから「レジリエンスの向上」という取り組みが始まりました。
対人的ストレスもアイデンティティ的ストレスもその根っこは「自信」という心の作用に帰結します。そして自信は「ポジティブ思考」と相関的な関係にあります。真の自信はポジティブな考えを導き出し、ポジティブな考えは積極性とやる気を引き出し、それがまた自信を深める要因となっていきます。そしてそういった意識から為される活動は目的意思を明確にし、その具体的な目的意識は責任意識を導き出すので、対人関係においても相互の在り方がより信頼的になり、お互いの関係が更に前向きな状態に発展していくことに繋がっていきます。人にとっての幸福とはこの様な正の循環が自他共に回転していることを実感出来ている状態です。つまり人として精神的に問題を抱える人とはその軽重に関わらず、このポジティブサイクルが機能不全に陥り、ネガティブサイクルになってしまっている状態です。そしてその負のエネルギーは周りをもネガティブな状態に引き込んでしまいます。

では人にとってポジティブな状態、自信ある状態とは具体的に一体どういった心理状態をいうのでしょうか。自信とは文字通り「自分が自分を信じている状態」です。ここで重要なのが信じようとしている「自分」の定義です。
人間は「思想的な存在である」と哲学的に定義されていますが、一言で云うならば「自分」とは「自分が考える思想観」です。日本の思想家の雄である吉本隆明氏は「思想とは精神を論理化した意識で、倫理と社会的意義に大別される」と言っています。倫理とは道徳観であり善悪の基準です。多少の差異はあれ人間の在り方として万国に共通する共有的な約束事と云えます。例えば、社会的活動によって生命を持続させる人間にとっては、共存共栄、利他的意識は全ての人間社会にとって約束事、精神的基盤になっています。従って利己的な行為やつぶし合いは論理的にも精神的にも忌諱されます。一方社会的意義とは社会における個々の存在価値であり存在理由です。
主義主張と云っても良いでしょう。社会的意義は倫理の道を踏み外さない限り、固有的な意識体系になります。これらを纏めると、「自分」とは「所属する社会において共有され契約される倫理観とそれを踏まえながらの自己の存在に対する認識の在り方」ということになります。
さてここで重要なのが「所属する社会」という前提です。明治初期にアメリカに渡った宗教家であり思想家であった新渡戸稲造氏は、アメリカの知識人から宗教的な教えの場を持たない日本人の倫理観はどのようにして醸成されるのかと問われ、それが「武士道」の執筆に繋がったのは有名な話ですが、原則として西洋人はユダヤ教もキリスト教もイスラームも一神教としての絶対神が存在し、倫理はそこから不完全である人間に戒められ、躾けられる存在になっています。しかし東洋、特に日本人は神道と仏教が混合する中で鎌倉以降禅の思想が倫理に強く影響している文化形成の歴史となっています。そこに室町以降は中国の儒教の考えが強く混じった独自の倫理観となっています。こういった背景にある日本人の倫理は「完全なる人間」としての仏を目指して自らを修行し徳を積むべき行為になっています。そしてその中に儒教的な行為が混成される状態になっています。

では何が大きく違うのか。西欧の宗教的観念での倫理やそれを踏まえた健康的精神状態は、神との契約の中である種「他動的な側面」があり、自らの努力によって衛生維持として精神状態を安定しさえすれば、必然としてそれ以上の「マインド・バイタリティ」「リフティング・フォース」は神の許しと導きによって他律的にチャージされるという考え方があると云えます。まさに「信じる者は救われる」という考え方です。
しかし日本人の思想観は、常に自律的に自らが積極的に「マインド・バイタリティ」「リフティング・フォース」を高めようと意識し続けないと「誰が助けてくれるわけもない」という考えが前提で、それには相当強い「意志と信念」の状勢が必須になります。日本人が精神的に健康であり続けるためには倫理を始め衛生維持としての精神を単純に安定させるのみならず、促進的な自分作りへのアプローチが必須条件になるわけです。
ここまでお話しするとお気づきになる方も出て来られていると思います。そう欧米発のレジリエンスとは西洋的な思想観、宗教観が前提となったアプローチです。本来ポジティブでなければならない思考が狂ってしまった状態を調整するため、まずはネガティブになった心理を内観や対話、引いては体感的にニュートラルにすることから、心を平静にするだけでなく、大いなるポジティブな力の源泉たる神の力によって(ある種の暗示が働く)、活性な心理状態にエネルギーアップを図る取り組みです。事実これで多くの欧米人は活性されているという事実があります。その最たる技法が坐禅をベースにした「マインドフルネス」です。思想観として「マインドフルネス」をすれば「安定」のみならず「活性」も手にできるのが欧米的には是となっているわけです。

一方、日本人はそう云うわけにはいきません。いくらマインドフルネスを取り組んでも、坐禅してもレジリエンス的な心の平静や安定は得られますが、それで心が活性し、前向きになって挑戦的になることは殆どありません。西欧かぶれで有名病、権威病に掛かっている無為夢想の一部の日本人が流行に乗って技法を取り入れることが後を絶ちませんが(マインドフルネスもその一つになっている)、現実に日本人がそれを行っても成果が出てきません。このままではマインドフルネスは一時の流行に陥ってしまいかねません。
何故か。前述のように「レジリエンス」という言葉に惑わされず、きちんと「マインド・バイタリティ」「リフティング・フォース」という源泉力に着目して心の健康や活性に着目すれば、活性にはレジリエンスとは別のアプローチや取り組みが求められることが見えてくるはずです。私はそれを「モメンタム」と呼んでいますが(最近スタンフォード大が同様に呼び始めているようです)、日本人にはレジリエンスに加えて、更に自らを勢いづけ盛り立てる技法が求められるのです。例えばヨーガやアクティビティのような活性技法や異種交流としてのダイアローグ、ナラティブといったアプローチです。

最近では日本人の贖罪的問題として「倫理観や道徳観の喪失」がクローズアップされてきました。戦後、時を経るに連れて教育の偏重から「思想レス」人材がマジョリティ化し始めているのです。その為に理非分別が出来ない、感情が抑制できない、ネガティブ・マインドに蹂躙されている、目的意識が形成できない、責任感がないといった人材が社会問題となってきています。元々宗教的な倫理教育が為されない日本において、戦後は国家的な思想教育が倫理レベルに至るまで不在となってしまっています。
そうなると体感アプローチだけでなく、思想の基礎教育が求められることになります。意と知は別物です。幾ら知的に優れていても意のない人は判断や分別が出来ません。知的秀才をそれだけのフィルターで採用し、結果組織的な問題、倫理的な問題に苦しめられている企業が如何に多いことか。こういった基準の修得なしではレジリエンスの方も機能しません。こういった意識面へのアプローチも必要になってきているのは確かです。今日本の社会教育は大きな曲がり角に来ています。確かにレジリエンスという着眼点もウツの増大と云った対処療法的な問題解決には重要です。しかしその根本的な問題解決を考える限り、より本質を見極めた原動力の開発、日本人の場合レジリエンスに加えてモメンタムの開発が重要テーマになっていると断言するところです。この問題は実は欧米でも焦点になってきています。エグゼクティブにとってはグローバリゼーションの中、これまでの信仰する一神教的な倫理観だけでは対処できない事象に行き当たることが増えてきています。その問題解決と自身のメンタル・アップのためにマインドフルネスでは対処できないと、思想観の領域までもが一貫して体系づけられている「禅」に直接アプローチする人が増えてきています。鎌倉や京都は今そういった欧米の人達で溢れ返ってきています。日本人はお膝元でも欧米人に後れを取っている状態になってきているのです。

さて皆さんは「ソモサン?」