大学機関における徳育と意性の問題

恩田 勲のソモサン:第三回目

大学には学章といわれる徽章があります。早稲田大ならば稲穂、日本大ならば桜です。同じようにスクールカラーというのもあります。その学校の特色というのではなく、その学校のイメージ色のことです。
大学駅伝のような学校対抗の催しがある時、各校の旗の色を見ればすぐに分かります。東洋大は濃紺、青山学院はグリーン、早稲田大ならばエンジ色です。こういった基礎知識を有していればそう大きな話題にもならないことが、今日の無教養なマスコミなどによって殊更筋違いな騒ぎが生じることもあります。

最近大学のアメリカンフットボールの試合において大きな事件がありました。反則と云うよりは明らかに犯罪行為といえる選手の行為が映像で公開されたのです。私的には昨今のような監視社会において、あれだけ堂々と傷害行為をする選手の知的レベルを疑うわけですが、その後それを監督やコーチが指導していたという内容を聞くに及び、論理性に対する今日の日本の大学の知的水準のレベル、論理性のなさにただただ嘆息する以外にはありませんでした。

選手も事後に悔し泣きをしていたと云いますが、その自分の行為が今後の自分の人生にどういう影響を及ぼすかを考えることは出来なかったのでしょうか。そういった知性を超える位の感情的な恐れや思想性の脆弱さがあったのでしょうか。しかし指導した指導陣の思考のお粗末さはそれを上回ります。以前相撲界において虐め的暴力問題や神事問題に関する不祥事が頻出した際、マスコミやコメンテーターがしたり顔で「それ位のことが分別できないのか」というコメントを多数する中、「そういった基礎教育が為されない閉鎖環境が根本原因だ」と語ったことがありますが、今回も同様です。但し今回の対象は大学社会、それも大学の理事会も絡んでいるという事実です。名目的に大学とは知の最高府の筈です。にも関わらず何故にこの様なお粗末な問題が頻出するのでしょうか。この事実はこういった問題が発生する根本が「知性」という領域だけでは語れない要素を孕んでいるということを物語っています。直言するとこれは徳育がもたらす「人間性」や「道徳性」に対する「思想性」つまり「意性」を基軸とする問題といえます。確かに「知性」がないと基盤として「意性」を思考することは出来ません。しかし幾ら「知性」を高めても、それが「意性」を生み出すわけではないのです。「知性」と「意性」は別立てて考える必要があります。哲学で「知情意」というように知と意を区分けしているのはちゃんと意味があるわけです。

それにしても当該監督やコーチは学問に携わる機関の人材として、まず人間としての徳育がされていないのは呆れる限りです。そして加えてこういった行為がどのような発展をするのかが想像できない論理性のなさに二重に呆れます。
またこういった時代グラウンドのあらゆる角度からカメラの目が光っているということが想起できない知的レベルの低さにも嘆息します。こういう輩が大学の理事という実態であり、それを隠蔽する空気を感じさせる理事会姿勢。
こういった大学が日本大だけであることを切に願う次第です。
ただ冒頭に紹介しましたが、大学には学校のイメージ色があって、それは「ピンク」です。この監督が関学大に訪問した際に「ピンク」のネクタイをしていたことを一部のマスコミは「こういったときに派手なネクタイを」と騒ぎ立てています。
果たしてこういった場合、学校の代表として学校の色をネクタイに結ぶのはいけないことなのでしょうか。無知蒙昧な輩は何でもネタにして叩きます。坊主憎ければ袈裟まで憎し。です。こういった姿勢が報道の姿勢と云えるのか。無教養な一般の方が騒ぎ立てるのは目を瞑るとしても、こういったマスコミの「意性」や「人間性」のなさには閉口します。

これがマスコミ関係者に多い早稲田大のような有名カラーである「エンジ色」ならば声も上がらなかったのでしょうか。とは云っても長年関係を持ってきた宿敵校の名前を「かんさいがくいん」と称する当該監督の知的レベルの在り方は、大学関係者としておくのにどうかとは思います。そういった人を理事とする日本大は今一つ応援し難いというのが法学部出としての率直なコメントです。
さて皆さん「ソモサン?」。