日本に求められる社会的なチープアダルトからの復興

恩田 勲のソモサン:第一回目
最近仕事に追われましてブログ更新が滞ってきました。また残念ながらメルマガと違ってブログはスマフォなどからは見づらいためか、正直購読が進まない状況にあります。ということでよりJoyBizの思いを積極的に伝えるべく、メルマガに「恩田 勲のソモサン」というコラムを掲載することにしました。「ソモサン」とは禅語「如何に?」という意味です。まあ軽い読み物だとご理解頂ければ幸いです。皆さんも是非内容に対して「セッパ(応えた)」をしてみて下さい。では早速の第一回です。

先だってブログの方でチープアダルトという話をさせて頂来ましたが、それと歩調を合わせるかのように、マスコミをチープアダルトたちが賑わしています。財務省のトップや県知事のセクハラ事件に始まり、医者のあおり運転など紙面を彩る話題に事を欠きません。そしてここに来て超有名なアイドルグループからまさにチープアダルト的な事件が飛び出しました。もうマスコミさん的にはほくほくの毎日なのではないかと思われます。

ただ良識ある人であればそのマスコミさんの中に潜むチープアダルト性に気付かれる人も多々おられることと思います。例えば財務大臣が国を代表しての重要な会議に出席しているにも関わらず、国内のスキャンダルを真っ先にした取材姿勢など、全く開いた口が塞がりません。その様なマスコミですからチープアダルトに対する認知も実にお粗末な感がします。マスコミ人材も学歴主義的に知には秀でた人が採用されているのは周知のことです。

しかし本当に意のある人材はその中でどれ位いるのでしょうか。先だってとあるテレビの報道でMCと呼ばれる司会者が「一流大学を出たエリートがどうしてあのような非常識な振る舞いをするのか」といった発言をしていました。

この人の社会に対する認知は「知性のある人、即ち人間性が高い」といったステロタイプです。しかし私はこの司会者に限らず、今の日本人の趨勢がこういった認知であるとみています。度々主張させて頂いていますが、「知性と意性(一般には人間性と称する場合が多いようです)は別の世界」です。知性とは情報量と論理的な思考力によって形作られる無機的な受動的処理能力のことです。有機的で主体的かつ能動的な社会的能力ではありません。意を発揮するのに知は必要ですが、意味もなく知を駆使しても人間性という意になることはないのです。

私が思うに、「知性が高い人は即ち意性が高い人でもある」という構図は戦前までのしっかりと徳育が為されていた時代ではないでしょうか。明治以前の教育はまず論語のような儒教や仏教の経典が通読できる素養から始まりました。
つまり意性を高めることが知性だったわけです。その考え方は明治以降も太平洋戦争までは続いていました。旧制高校などでは「デカンショ」といってリテラシーとして哲学の素養を必須としていました。しかし敗戦後GHQの強制的指導によって国体問題といった思想排斥を契機に日本独特の意性に関する教育の全てが否定され、道徳的な教育が為されなくなってしまいました。以来75年以上が立ち、今の日本では意性の欠けた知的能力だけで人格がまでもが判断される時代に陥り、誰もがそれを不思議と思わない風潮に支配されるようになってしまいました。そして行き過ぎた潔癖症や中庸を伴わない二値的判断、そして捲土重来を認めない無機質な人間社会を本来は「社会の木鐸」であるべきマスコミが主導している殺伐とした世を生み出してしまっています。

日本が世界の中で再び存在価値を輝かせ、多くの人々が前向きな人生を送れるような豊かな社会を取り戻すには、もう一度人としての心の核である「意性」を再教育することから、「武士道」とか「大和魂」といわれる日本固有の心性を復興させることが最優先課題であると私は切に思う次第です。

さて皆さん「ソモサン?」