組織における科学性、ルールとは何かを考える ソモサン第240回

ショートソモサン①:「科学で証明された『群れていたい』心」と「変化した距離間から生まれた『信頼できない』恐怖」の矛盾

皆さんおはようございます。

先週ブログの中で、「現代は、若者年代になればなるほど利己的で懐疑心が基準で、にも関わらず関係に異常に執着し、ルールや権力を気にするといった習性で動きます」とコメントしました。

では何故そうなのでしょうか。

言わずと知れず組織行動とか集団行動とは「集団としての利益を第一義に考える行動」です。これには「相手の立場で考える」とか「自己犠牲」という考えが必須になります。

ある研究者によりますと、こういった概念は人が生き延びていく上で身につけた能力であり、最初は(年齢の近い)兄弟の間で訓練される、ということだそうです。それによって相手の気持ちを測るシミュレーションをし、集団行動を学習していくのだそうです。では一人っ子の場合はどうでしょう。多くの場合、人形と対話するとか、空想上で作った友と対話することでその経験を補っているのだそうです。「見立て」によって補充するわけです。でもそれでは完全たる他者ではありません。見立てで大事なのは「名前」「人格」そして「対話」の三要素なのですが、どうしても見立てでは人格が一人称の領域から脱しきれません。その為に新しい刺激が得られずに、自立が為し得ず、その不安から依存反依存という心性が生じてしまう傾向にあるそうです。依存反依存とは、他者に頼ったり、反発したりという両面価値的な不安定な心情を云います。自立には自分と違う価値の存在への認知と受容による折り合いが必須になります。かくして人は自己を確立させ、自分とは異なる他者の存在を認知することから、他者の立場で物を考えるとか他者の気持ちを察するといった能力を開花させて共生関係を見出し、かつ適当な距離感を育んで行きます。この学習は通常4歳位までに出来上がりますが、妄想による学習でも9歳頃迄には社会的なデビューによって出来上がるのが一般だったそうです。

それが近年、親の育児放棄的な態度(共働きも意図せず、そうなることもあるようです)や核家族化、そして少子化によって人格が未形成なままに成長する子供が続出しているのだそうです。こういった人は「他者の気持ちが汲めません」。それ以上に妄想から卒業できないので、人形のような仮想人格(お気に入りの)との対話しか出来ない自閉症のような振る舞いに執心して社会から目を背ける行動が際立ちます(因みにオタクとは違います)。要は上手く対人関係が構築できなかったり、利己主義とは気付かずに自己中心的な発想を振りかざす行動が目立つということです。

この心性は社会活動においてより深刻な問題を生み出します。それは社会が互恵関係で成り立っている事実です。互恵は信頼が基本です。他者が受容できないということは信頼という枠の入り口にも立てません。特に組織は互恵は互恵でも間接互恵が基本です。そうなるとさながら「宇宙人」のように、社会には全くなじめない意識になっている状態です。

少なくとも信頼という気持ちは「同調」や「共感」から生まれます。共感という気持ちはいきなり間接的体験からは生み出せません。同じように身体を動かしたり、感じたりといった同時的な直接体験から育まれます。いわゆる「人の痛みを知る」「他人の靴を履いてみる」といった体感です。この経験がないと幾ら頭の中でシミュレーションしたところで理屈で分かったとしても気持ちとして感じ取れません。分かち合えません。つまりこの経験を踏んでいない人には利他心や互恵は生まれないということになります。対人関係が構築できないということです。

ところで最近の脳科学はこの領域に関して非常に見過ごせない研究成果を発表しています。それは「孤独」という認知は脳内前帯状皮質の背側部というところで反応するのですが、それは身体の痛みで起きる反応と同じ部分であるということです。このことは孤独は人に「痛み」を感じさせるということを示唆しています。ある動物実験では、孤独を感じさせると脳内視床下部にあるアミリン細胞が不活性となり、アミリンを排出しなくなるそうです。大凡6日ほどで無くなるのだそうですが、アミリンが無くなると動物は無気力になってしまいます。そう孤独になると動物は無気力になるのです。例えば、孤独になると子育てをする気がなくなります。産後鬱はこの典型的な反応です。そうなっては大変です。その為に人の場合その事前警告として「痛み」が生じるのだそうです。このことは人は本質として集団や集団行動を求めているということを物語っています。

集団は求めるが、利他的で自己犠牲な行動は苦手である。集団利益は二の次である。何とも厄介な話ですね。

因みに、現代の若者の友情感を調査したところ、数は多く応えるというデータがあります。我々世代はせいぜい5人前後位が標準のようですが、今はその10倍数が上がります。それとは対照的に、孤独を感じている人が全体の30%に及びます(日本人の場合)。つまり関係が広いが浅いわけです。実際友達と納得いくまで話し合うかといった問いに対して、多くの若者が、本音が出せない。否定されるのが怖い。距離を作って置きに行く。諦める。相手を否定せず尊重する、といった回答に終始しています。このことは、要するに友達の心底の部分には本当の意味では関心がない、ということを意味しているといえるのではないでしょうか。

では孤独から逃れるためにどうしているか。現代の若者は、悩みの相談相手を友達でなく、親、特に母親においているのだそうです。友達的親子関係。親が安全地帯になっているわけです。これを甘やかしというかどうかは人それぞれですが、これでは若者が人と繋がり難くなったのは当然です。大人が物分かりが良くなり過ぎている。それが子供を自立させない結果を生み出しているというわけです。

友達はある意味喧嘩の積み重ねで育まれます。喧嘩とは「違いの表出」です。動物にとって喧嘩は和解のための手段ということが分かっています。ですから動物は当事者間で勝ち負けがはっきりしたら双方遺恨は残しません。この経験のない若者は喧嘩の積み重ねが出来ません。それはリスクであり、恐れになってしまっています。ですから本音をぶつけ合えない関係になっています。自分の主張を通すことができない。自分の本音が出せない関係。これはストレス以外の何物でもありません。そして経験がなく、訓練がされていませんから和解の仕方も分かりません。そうなると、人とは居たい、でも人といると疲れる、といった矛盾に苛まれることになります。ともあれ現状は「孤独にはなりたくないが、ネットで四六時中人と繋がっている状態の中で気を遣い続けて疲れ果てている」のが若者の大勢である、といった塩梅です。

しかもネットは先にも述べたリアルな体感がありません。五感を伴わない脳と脳との関係は、情報が「べき論」的に作り出したイメージを交換する状態を生み出します。「べき論」的な付き合いです。そこにはリアル体感によるアナログ世界が持つ曖昧さがなくなります。曖昧さがないと動態的な距離感が生み出せません。心に遊びがない状態はただただ疲れ果てる状態を生み出すのみです。これが現代の若者の心理状態なわけです。

ショートソモサン②:信頼を担保するルールを捻じ曲げてきた日本の管理者モドキたち

当然運命共同とは本当の意味での友情関係と等しい世界です。相互に平等、信頼を軸とした互恵的な関係です。それが組織になると間接的互恵になります。今の組織で運命共同関係やロイヤリティーが創出できないのは必然なのです。

ではどうすれば良いか。まずは打算的な利己から始まるにしても信頼関係づくりから始めざるを得ません。スタートが臆病になっている心理においては、前提として必要なのはポジティブなアプローチです。警戒心を解く必要があるのです。しかし組織運営は生産性を第一義とする論理が優先されます。論理は正誤を分ける分析的行為です。つまりそれ自体が誤を明らかにするという懐疑的行為であり、クールでネガティブな存在です。それを如何にポジティブに伝達し納得させるか。そこで求められるのが平等を感じさせるニュートラルな状態です。それを現出するのが秩序だった「ルール」です。組織に所属する万人が理屈として納得するルールによる統制が組織運営の要となってきます。

そしてマネジメントとはそのルールを保守させ維持させることが始まりになります。全員がルールを認知してそれを保守し履行して初めて全員に信頼の種が生み出されるのです。しかしルールは教条的で状況対応的ではありません。それでは変化する外部要因に対して臨機応変は出来ません。ですからルールだけでは駄目です。それでも基準は大切です。基準があって応用です。いきなり臨機では根のない木と一緒です。まさにドラッカーの言う「科学に仕え」です。

特に若い人にとって動きの拠り所、集団への依存として権力は大きな意味を持ってきます。この権力が傍若無人になって反依存に展開されないためにも権力の基盤はクールである必要があります。ルールとは唯一の論理的な権力の表れと言えます。

ところが昨今この組織の基準たる科学としてのルール自体を認知していない人が増殖してきています。最初から知ったような穿った見方での組織行動を信じ込んで、それを押し付けたり、自分に都合よく解釈した組織ルールを振りかざす人が一杯います。そうして歪んだ権力によって組織をネガティブに貶めてしまう例が跡を絶ちません。若い人は組織離れをする一方になっています。

今の組織にとって急務なのは哲学の前に科学の再構築と浸透です。理念の前にルールの徹底です。信頼のない世界に何が信頼の構築ですか。ゼロには何を掛けてもゼロなのです。

日本は集団主義の中で、伝統的な組織運営のルールやそれに伴う規範が是とされてきました。年功主義や終身的関係、そして男尊女卑社会運営などが集団主義に絡まって社会規範としてルールにまで影響し、運用を歪める状況も多々ありました。また改めてルールを理解しなくても規範的になあなあで運営していてもお咎めもないしそこそこ動いてきたというラッキーさもありました。これがグローバル化の中で致命傷となりつつあります。

何れにせよ各組織体が今後ともに勝ち残りたい、否、生き残りたいのであれば、ルールの再構築と徹底が最優先です。

今の日本は普遍的なルールですらまともに認識していない人、それが直接的な立場の人においても意に介していない人が組織に混乱を招いています。これからの回。順次組織ルールの基本をご紹介しながら、皆さんに認識の是非を問うていこうと考えています。

例えば「組織運営の三面等価性」。これは組織は置かれている立場において「コミットメント(組織との公約)」があり、それは権限と責任、義務の3点において等価(同じ比重)の原則にあるというものですが、本当にこれを理解している管理者が何人いることか。これは権限と義務に挟まれる裁量への取り扱いを見ると一目瞭然です。裁量とは言い換えると権限委譲です。そして部下の責任はこの委譲と重なってきます。このことは上司の責任(結果責任)は部下が負うものではないということを意味します。義務とは活動責任を意味しますが、部下の責任は上司の義務の範疇であり、負うのは上司の権限に収まる活動責任ということになります。ところが現実の現場に赴きますと、結果責任を部下に押し付けたり、裁量を超えた責任を権限も与えずに負わせる上司ばかりです。これでは部下は権力として逆らえず、そのアンバランスさの中で心を壊しいていくか(少なくともネガティブになる)、組織に不信感を持つばかりです。こういったトボけた無能上司が横行するのに、そのまた上司も愚かにもルールを知らずにそれを看過しているといった組織は、最早その体をなしていません。全くそういった人たちはどこでどういうマネジメント教育を受けてきたのでしょうか。やる側もやる側、受ける側も受ける側です。それでいて「今時の若者は」では「鶏か卵か」の話と変わりません。生産性が上がるわけもありません。まあこういった事例が山のようにあるわけです。真に組織が事業を潰しているのが日本の実態なのです。

ということで、次回からは、更に組織におけるルール、管理の基礎について言及していきたいと考えています。

それでは皆さん、次回のソモサンも何卒よろしくお願い申しあげます。

さて皆さんは「ソモサン」?