• 外資系企業、日本の特異性の中で悪循環している問題~ソモサン第214回~

外資系企業、日本の特異性の中で悪循環している問題~ソモサン第214回~

ショートソモサン① 仕組みで見る外資系企業の文化

皆さんおはようございます。

私がお付き合いしているお客さんの中にはいわゆる外資系という会社も幾つかあります。何故いわゆるというかというと、外資系の中にも民族系(オイル系の会社では日本人資本の会社をそう呼んでいました)の性格の会社もあれば、日本の会社でもまるで外国資本の様な性格の会社もあるからです。

昔ネスレという会社をお手伝いしたことがありましたが、彼の会社などはかなり民族系的な文化で運営されていました。それでも私がお伺いしていた時はちょうど東京の本社(イトーヨーカドーの本社ビルの隣にありました)から神戸に移転するときでしたが、いきなり神戸に本社を移すとスイスからの指示があり、何故かと問うとご担当の課長は「上島珈琲さんを始め民族系の会社は積荷港である神戸に集まっており、物流的に良いと考えたのだろう」ということでしたが、「せっかくヨーカドーさんの横に合ってマーケティング上は最高の立地なのに」と問いますと、「まあスイスから見れば東京も神戸も地図上では同じくらいに見えるのでしょう」というお答えで、やはり外資は外資だなあと思ったのも確かでしたが。

その時ネスレさんから「弊社に募集する人はマーケティングという名称に反応して応募してくる。内容は他者同様に営業的活動が主であるので本来はセールスといった方が近いのですが、それでは人が来ないので、呼称には気を使ってね」と言われたのが妙に引っ掛かったのですが、その後も他の外資系の会社とお付き合いする度にこういったやり取りがあり、最初は「なんか外資系って見栄えや見かけにばかり執着するなあ」と思っていた時がありました。実際その後に味の素さんなどとお付き合いすると、民族系の会社は営業という職種を第一線のセールス活動の部署として取り上げて、マーケティング以上に重要な存在として扱うので、どうしてこうも外資と民族では捉え方が違うのだろうと不思議に思っていたのですが、それが「ああそうか」と腑に落ちたのは、今から約20年前に慶応大学のビジネススクールにおいて、当時のマーケティングの大家であった嶋口教授の講義を受けたときでした。教授はマーケティングを「売れる仕組みづくり」と定義しておられ、セールスを介在しなくても自動的に売れる仕組みを構築するのがマーケティングであると説明されたのです。「そうか仕組みか」。

仕組みとは「構造」です。最近でいうと「ビジネスモデル」です。生産部隊におけるテーラーイズムによる量産システムがその典型ですが、確かに物事を無駄なく無理なくムラなく最も合理的に動かしてパフォーマンスを最大化するという考え方がシステムの論理です。それを徹底させる思想や文化を前提に物事の道理を考えるのが欧米の理屈であり、そしてビジネス界、つまり外資系の企業の前提的論理にもなっているわけです。

何故そうなのかは今回詳しく調査していませんからエビデンスはありませんが、乱暴に推論すれば多民族で多宗教で多言語といったダイバシティな中で物事を運営していくには属人的なアプローチでは混乱が生じ、応じて相当の無駄やロスが起きるといった組織統制の歴史の中で練り上げられていったやり方ではないかと私見しています。

ともあれそこにおいては人というファクターも仕組みの中の一つの資源であり、欲しいのは労働力、例えば筋力であり、思考力であって、それ以外の気持ちや意志といった要素は全体最適に対して余計な存在になります。

これを表面的にみると「人をロボットとして扱うのか」という短絡な見方をする人も出てくるかと思いますが、欧米の場合、ダイバシティの中で下手に違う価値観に応じようとするとむしろその方が却って混乱の度を高めることになり、それを誰しもが経験認知していますから、その方がやり易いということになります。

その為に欧米ではロボット化されないように個人の基本的な権利はきちんと守られるように徹底した契約社会になっており、組織の運営も職務主義で、個人の価値観も個人主義が前提になっています。平気でレイオフしますが、スピンアウトも日常で、しかもそれでの不利益はありません。とにもかくにも情実が入る余地がないというかそれを排除することを取り決めた社会行動になっています。

だからといって彼らが無機質でクールなわけではありません。公私を明確にするだけで、家族を軸とした私的生活や、ボランティアや非営利的な奉仕活動に対しては非常に情実的ですし、地域活動には積極的です。宗教的な寄り合いも単に神様云々だけでなく、共同体として相互支援を大事にしたコミュニティーを形成しています。

いずれにせよそういった欧米的な価値観による契約社会を前提とした組織運営による事業活動を営む外資系は、ともかく公的な会社活動としては徹底したシステム論による運営に終始しているということです。

ショートソモサン② 日本企業のユニークさは関係性の重視から生まれる?

一方日本企業はその真逆に近い組織運営です。組織の中は情実だらけです。これは後発的な日本の組織がシステムに劣る中で、個々人のガンバリズムとその集積としての一致団結を基調に運営をしてきたことに起因します。マーケティング力に劣る顧客との取引関係を営業のセールス力で補うといったようなところです。

もともと村社会を基調とした日本の社会ではビジネス界においてもこういったやり方が性に合っていたのでしょう。そういった経緯によって日本の商慣習は海外に対して非常に特殊な形態を持っています。ですから日本の商社のような存在は海外にはありませんし、その奇抜さが世界の商取引を席巻しているのも極めてユニークなことだと思われます。

ではこの日本とそれ以外の国の違いとは具体的に何が違うのでしょうか。私は組織活動には2大機能があると見ています。一つは問題解決機能(ソリューション)、そしてもう一つが人間関係機能(リレーション)です。この2つは渾然一体となって組織の動きを支えています。この比重が日本とそれ以外では全く異なるのです。海外は問題解決機能が主軸です。人間関係はあくまでも添え物です。問題解決の一つの方便と捉えているといってもおかしくありません。しかし日本は圧倒的に人間関係が主軸です。問題解決も人間関係で解消できると捉えている節すらあります。モノの見方考え方が真逆なわけです。ですから日本の組織で生きるために磨くのは問題解決力、例えば専門力や情報力よりも人間関係力、人間力や地位力といった方が重要であるといった考えが主になっているという現実があります。まあお欧米のモノマネをしながら後追いをすれば経済成長できる時代においてはこれで充分だったのかもしれません。実際にそれで高度成長した時代があったという事実はあるのですから。年長者にとってその考えがパラダイムになるのも仕方がない面があります。

ショートソモサン③ 外資系的な仕組みは「郷に従う」ことができるか?

さて今回私が皆さんにお話ししたいことはそういった前提が生み出している一つの特異性についてです。

その一つは「郷に入れば郷に従う」です。これは今の外資系企業で今一つパッとしない組織の共通する課題です。

上記のように日本では関係論が主軸です。従って情実的世界に非常に用心深く対応するアプローチをします。先に上げさせて頂いたネスレなどの現場は非常に情実的です。おそらくは味の素などがスタンダード化した食品業界の問屋への商慣習などがその様な影響を与えたのかも知れません。しかし多くの外資はどうも人材を資産というよりも資源と捉えたガバナンスが横行しているように映ります。決してそれを否定するわけではありませんが、成果的に見ると生産性のレベルの低さを感じざるを得ません。

ちょうど先週、外資系企業の社長と面談したので、その時のやり取りをご紹介しましょう。

彼はアメリカでMBAを取得したどちらかと云うと外資系的な教育を受けた人材ですが、ひょんな理由から日本の中小企業に20年以上在籍していたという変わった経歴をしています。その彼が、今回ある外資系にM&Aされた、日本の中小企業の経営を任されることになり、純日本的組織文化に外資的文化を組み込むべく相談をしてきたと云う経緯があります。

その中で、人事制度のあり方、特に賞与の在り方に対してどう折衷すれば良いか、という話がありました。欧米は徹底した職務主義、個人主義での評価です。ですから業績に応じた個別賞与をしたいと考えています。一方これまでのこの組織はいわゆる日本的な給与の考え方の延長として、年間での業績を基準に賞与で全員に上乗せする考えです。ここで面白いのは外資側のスコアカードにおける業績への見立てが全て業績数字一辺倒であると云う点です。欧米では職務給ですから管理職の仕事はあくまでも管理という専門業務ということになります。ですから業績が上がるということは自分の管理業務が良かったと云うことになります。勿論管理者は年間を通して部下の業績にきちっと関わります。ところが日本の場合は少々事情が異なることになります。日本の管理者は現場の専門性の延長で(時には実力がなくても年功的に)管理者になります。一応管理者研修というのは実施しますが、適正にその職務を評価されない文化の中で、まともに管理という専門職を遂行できる人は殆ど皆無です。そのような状態で形だけ職務給的な概念によって査定をするとどうなるか。何もしていなくても業績だけが上がっていれば賞与が多額に貰えるということになります。そしてこの会社では実際に管理職務を何もしていないのに賞与を貰えているといった歪みが生じていたのです。しかも個別評価ですから自分の業績にだけ邁進して(しかし大した業績は上げていない)メンバーはほったらかしという管理職務的にはマイナス査定になるような状態でもあるのに単に結果数字だけ(単に景気が良い)で、しかも全体利益に対する等級的な配分で高額に賞与を貰えているといった有様だったのです。まさに欧米的発想と日本的やり方の狭間で起きている問題でした。

この管理者たちは外資になって採用された人材です。そして外資的な人事採用で何年も会社に貢献した人材よりも高額で契約されています。今回の賞与問題はただでさえ事務所から出て、利益貢献行動をしないような名目上司に対してメンバーがモラルダウンしている中での出来事でした。新社長はどう落としどころを見出すかを考えあぐねていたのです。

このような事例は外資系でよくある話です。外資はシステムで物事を考えます。でもその条件は社員がシステムに対して契約をもってきちんと自分の仕事を順守するということです。例えば課長という人が課長という専門職をしなければすぐにレイオフです。ところが日本ではそこに情実が入ります。仕事の是非や質以上に課長という立場にその上司が情実的な査定を入れ込み、課長を守るような姿勢を表します。日本はシステムよりも人間関係の保守を大前提にするからです。無能でも年功序列が重要なわけです。そうすると能力をもっているメンバーのモラルが落ち、将来に対して有望な人材の方がどんどんと辞めていくという事態が頻発し始めます。

こうしてブランドや商品力があるうちは誰がやっても同じような組織状態であるが故に隠されていた運営の実態が、業績の悪化とともに浮き彫りになり、そのほころびから組織の活性度が失われていくわけです。その内追い詰められた上司は他の会社にホッピングします。面白いのはそれをまたその立場で採用する他の外資があるということです。こうして外資の中で無能な管理者がローテーションして行くことになります。悪循環です。組織が浮上するはずもありません。

ショートソモサン④ ローカライズされない根本問題〜パッとしないのは人の問題~

でも先の社長などはある意味外資では危険人物という面もあります。何故ならば真摯に会社の状態を憂い、現場中心の問題を解決しようとするので外資の本体に日本の実状を意見したり改善しようとするからです。外資の本体からすると自分たちのシステムが絶対と考えていますから、小国の日本に合わせる気は毛頭ありませんし、何を云うか、面倒臭いということになります。それですぐにレイオフともなりかねません。

だから日本で採用された経営者クラスの中にはすぐに恭順して、問題があれば下を切るといった逃げに執心する人が多いのも現実だと感じます。。まあ組織活動的に日本の外資企業でパッとしない所では、その理由は共通しているわけです。

その様な中、日本の文化を重視するような外資の中にはその文化の特異性にアプローチしあぐね、結局は日本を独立法人にしたりして直接マネジメントを放棄するようなところも出てきます。

そうするとそこの日本法人の幹部の天下となり、後は好き放題という会社が勃興してくるというケースが出現してきます。責任は本体が取る。実権には口を出さないとなると、もう自己保身を中心にやりたい放題です。年功序列的に振る舞い、組織内の改善活動や能力主義を封殺します。そんなことをしていると当然組織は活性しませんし、業績も上がりません。でもそれは全部現場の責任と押し付けます。社員は利己主義に拘泥するようになります。そして気概がある優秀な若手はどんどん辞めていき、お先真っ暗になります。本当に救えませんね。

こういった事態はじつは外資系だけではなく、グローバル展開し始めた日本の大手企業でも起き始めています。私が目にしただけでも、精密機器のC社や電気関連のP社など枚挙にいとまがありません。実に利己主義で組織で自分を売り出したり目立たせることにしか関心がない人材が、かつての時代では考えられない数で排出され始めています。

こういった人に関心がなく、人を資産ではなく資源としてしか思考できない人材が管理者として採用されると本当に会社は不幸になります。こういった人たちが作るシステム、例えば経営計画や人事制度には「人の気持ち」といったファクターが入ってきません。本当にコマ扱いなのです。全く誰のための組織なのでしょうか。彼らには利己的な出世か金しか見えていません(としか映りません)。

でも今の若い人の価値観が凄い勢いでグローバル化している中で上記のような外資系にあるシステム的にしか組織を考えられなくなっているのも事実です。そうした人が学歴やそれを利用した経歴によるホッピングの横行で、格差的に組織の幹部候補として扱われるケースも一杯目にする中で、頑張っている若手が蛸壺に陥っている組織を見ると、グローバル化の中で日本の企業が今後迎える状況が目に浮かんできます。どうしても明るい未来とは言えないように感じます。それでも若い人の価値観がシステム的に変化し、それがマジョリティ化されている事態を否定することもできません。

問題はそれに対する組織的な適応についてです。

皆さんは如何考えますでしょうか。これこそモメンタムのバックに潜む環境的な最重要課題だと私的には見ています。

当面「モメンタム」に纏わる内容をどんどんと掘り下げていく所存です。

次回も何卒よろしくお願い申し上げます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?