• 集団という疑似人格に対しての権力とその付き合い方を考える ~ソモサン第211回~

集団という疑似人格に対しての権力とその付き合い方を考える ~ソモサン第211回~

ショートソモサン①:権力欲求は集団忖度を生む?

皆さんおはようございます。

これまでのブログで何度かご紹介させて頂きましたが、「権力」とは「自分が思うような影響を周りに与える力」を言います。ところが一般的に権力という単語を耳にすると須らく悪事を為す力、どこか忌み嫌われる力のような認識が拡がっています。個人的には鎌倉時代における「執権」という役職を持って行われた姿の歴史観からくるものと考えているので、ネガティブに意識づけられてしまったのではないかと推測しています。

でも現実的には老若男女を問わず、人は自らの立ち位置を周りに示すことで他者を牽制したり、他者から承認を得たりといった基本的な欲求を満たすために権力という影響力を求めます。

欧米ではこの欲求充足に向けての意識が明確なため、ある意味露骨に競争心や主張がやり取りされる場面が多いようですが、日本では集団主義のために目に見える行動や言動は控えめで、それ故か裏での所業に結構えげつない位のやり取りが為される風潮があるように思われます。いじめやいじり、女性に多いといわれるマウンティングなどはその一例です。また忖度などもその好例といえます。欧米でも忖度は為されますが、日本では個人的な権力に対する忖度以上に集団圧力への忖度が多くみられるのがお国柄で、欧米ではこういった忖度をグループシンク(集団思考、集団浅慮)と称していますが、私は個人的に集団忖度と呼んでいます。

このグループシンクですが、集団の心理的な特徴を表す用語として米国の心理学者アーヴィング・ジャニスによって1950年代に発表されました。

ジャニスは真珠湾攻撃や、朝鮮戦争、ベトナム戦争、キューバ危機、ウォーターゲート事件などが起きたときの記録を調査し、誤った意思決定につながる集団決定の失敗における心理的傾向を分析し、モデル化したのです。

ジャニスはこれらの事例に基づく検討から、次にあげる条件があるとき、集団思考の兆候が現れ、それが欠陥のある意思決定につながると結論づけました。

それは、

  1. 団結力のある集団が、
  2. 組織における構造的な欠陥を抱え、
  3. 刺激の多い状況に置かれるという条件を満たすと、

集団思考に陥りやすい、ということです。ここでいう構造的な組織上の欠陥とは、

(1)メンバーに発言の機会を平等に与える公平なリーダーシップが欠如している

(2)整然とした手続きを求める規範が欠如している

(3)構成員の内輪意識が強すぎる

といったことをいいます。

また、刺激の多い状況とは、

(1)集団外部からの強い圧力的な脅威がある

(2)集団内に責任負担が過重に課せられる

といったことなどをいいます。

 

こういう状態の集団が陥ると、集団思考の兆候を示し始めることが多いというのです。

①自分たちの集団に対する過大評価が始まる。自分たちは絶対的だと見なす幻想や、集団固有の正義に対する信仰が始まる。

➁閉ざされた意識状態に陥る。集団による自己弁護、集団外部に対する偏見が始まる。

③均一性への圧力が強まる。

これがいわゆる集団圧力です。自分の意見が集団内の明白な合意から外れていないかを自ら検閲する行為が始まったり、決定が多数派の見解と一致するよう留意する全会一致の縛りに嵌まったり、集団決定の倫理性や効果に対する集団の自己満足を妨げる情報が集団に伝わるのを防ごうとする検閲官が登場して、情報を監視し抑圧し始めるといった動きが始めります。そしてこれこそが集団忖度の温床になるわけです。

集団忖度が始まると以下の動きが出てきます。

  1. 盲目的になって本来の狙いや代替案を充分に精査しない。
  2. 自分たちの採用しようとしている選択肢の危険性を検討しない。
  3. いったん否定された代替案は以後全く再検討されない。
  4. 情報に目配りをして、きちんと探して取り入れない。
  5. 手元にある情報の取捨選択に偏向を持つ。
  6. 非常事態に対応する計画を策定しない。

というように、まさに忖度的な意思が集団の合意形成に対して働き始めるのです。責任を取りたくない。村八分になりたくないといった自己権力の失墜や遺失に対して全員が敏感に反応し始めるわけです。

その後米国の経営学者ジェリー・B・ハーヴェイがその著書『アビリーンのパラドックスと経営に関する省察』The Abilene Paradox and other Meditations on Managementでアビリーン・パラドックスという集団思考を提示しました。現象の名称は、この現象を説明する小話の中でハーヴェイが用いた町の名にちなんでいます。

「ある八月の暑い日、テキサス州のある町で、ハーヴェイ夫妻とその舅夫婦が団欒していました。そのうち舅が53マイル離れたアビリーンに夜食を食べに行こうと提案したのですが、姑も夫妻もその提案に反対もせず出かけました。

ところが道中は暑く埃っぽく到底快適なものではありませんでした。その後4時間かかって疲れて帰宅した後で彼らはこう言い合うことになりました。

姑「本当は家にいたかったけど、あなたたちが行きたそうなのでついて行ったわ」

夫「本当は別に乗り気じゃなかったが、皆が行きたそうだから連れて行ったんだ」

妻「あなたたちが行くと言うから一緒に行っただけよ。暑い中で出かけるなら家にいたわ」

舅「本当はわしは別に行かんでも良かったが、お前らが退屈そうだから行こうと思ったんだ」

ハーヴェイは、「集団内のコミュニケーションが機能しない状況下、個々の構成員が『自分の思いは集団全体の思いとは一人だけ異なっている』と思い込み、誰もが集団的な決定に対して異を唱えないために集団は誤った結論を導きだしてしまうことがある。アビリーンのパラドックスは「事なかれ主義」、集団思考の一例としてしばしば言及される」と唱えています。これも集団忖度、陰に潜む権力への拘りが為せる反応行動といえます。

ショートソモサン②:パワーストラグル現象が組織を殺す

人はしばしば、集団の流行から外れることを嫌います。社会的な抑制要因(消極的な集団圧力)が個人の欲求を通すことを思いとどまらせてしまうことがあるわけです。この理論の要点は、集団の抱える問題は「不和」から生じるのと同様に「同意」からも生まれるということです。まさに集団に対しての忖度行動を取ってしまうわけです。一種の「パワー・ストラグル現象」です。パワー・ストラグルとは「力の対峙、混乱」といった意味です。

因みに、集団におけるまずい決定、とくに「協同体」や「責任意識の乏しい集団活動」での決定の流れの中で、よく起きる状況を説明するのにも使われます。責任意識の乏しい参加者の議論を通して集団の決定をなすときには互いに「ほんとうにアビリーンに行きたいのか?」Are we going to Abilene? を問い直さなければいけないということです。

私は協同組合のような組織でも組織開発をしますが、何度かこういった状況に悩まされたことがあります。協同組合の場合、役員とは地元の選任で構成され、個々が地元の意見代表である認識はありますが、組織としての機能に対してはあまり関心がありません。その為組織として統一した見解を出すとか、組織としての責任を分有しているという認識が非常に弱いという特徴があります。「口は出すが責任は取らない」といった体である意味、無責任集団の一面があります。これは一般企業でもプロジェクトなどを組んだ場合、その構成員に生じる時もあります。特に地位の低い人たちは負うべき責任が感覚的に分からないか、恐れをなして参加しています。

このような条件下で合意形成を図ると、とにかく決まらないということが起きます。また決めても責任所在が不明な意思決定となったり、八方美人な内容になったり、全体賛成各論反対に陥ったりといった、まるで計画当初から実現不可能な状態に陥ることが殆どです。

無責任さの良い面は自由な発想が得られるということです。奇抜な考えや意見が得られます。しかしそういった発想や意見は実現段階になると粗が見られたり、時には荒唐無稽なものばかりです。とにかく責任を担えるような内容には程遠いといえます。しかしプロジェクトの場合、これまでの低迷を脱出するとか新規の知恵で限界突破をするといったことが課題の場合が殆どですから、発想段階では思い切りが大切です。そして出来る限りそれを精査して実現可能なレベルに論理化していくことが大事になります。

さて問題はここからです。ある程度実現可能になった計画をいざ意思決定する段階になった際、ここで流れが止まってしまうのです。決められない。責任が担えるレベルにダウンしてしまう、といったことが頻発し始めます。

結局は「何のためのプロジェクトだったのか」ということになります。また先の協同組合の場合も同様です。計画賛成実行反対とかやはり計画自体が最終段階で決められないといった事態に陥ります。責任回避が働くからです。

 

<パワーストラグルが組織を機能不全にさせた事例①>

以前中部地区の県組織で経営計画の指導をしたことがあります。この場合、出だしは順調でした。ところがいよいよ実行計画となると内容の詰めが空転し始めたのです。とにかく決まりません。最後は常務が激怒したのですが、私的にはこれは無理なからんといったところです。この組織がユニークなのは10年前に同様の取り組みをしたのですが、課長を中心としたプロジェクトチームが当時の部長の反対にあって計画実現が頓挫したという経緯がありました。以来10年、その中でも覇気のあった部長が常務になり、反対された課長の多くが部長になったのを機に再度挑戦したのでした。ところがその元課長たちが、今度は責任者の地位になったときに「あの時はあの時」と抵抗し始めたのです。そういった状況です。参加する今の課長たちはもう組織内で忖度の嵐です。これは理論とか知力といった内容の問題ではありません。組織行動特有の権力に対するネガティブ反応なわけです。

 

<パワーストラグルが組織を機能不全にさせた事例②>

また山形ではこういった事例もありました。最初に依頼されたのは組織ビジョンの設定でした。この指導は結構うまくいき、結構評価も得られるものが出来ました。ところがその時に常務だった方が、「あまりに時間が掛かり過ぎだ」と否定的だったのです。先ほどもお話しした通り、協同組合で若手をプロジェクトにして何かを作るというのは一仕事です。それが協同組合の人は分かっていない人も残念ながらいらっしゃいます。経営はワンマンでも、権力を発動してやらせれば動くとばかりに数年間ことを進めてこられたようです。この常務さん、その後組合長になったのですが、作成したメンバーを批判した過去が祟り、組合長になると多くのメンバーが辞めてしまう事態に陥りました。残ったのは忖度する職員ばかりになってしまったのです。言われることはやるが、自らは動かない。責任を問われることは避けるといった塩梅です。そこでその組合長自身から、「何とかもう一度彼らに自主性ややる気をもたらせられないか」と相談されて、今度は事業改革のプロジェクトを立ち上げたのですが、この課題はかなり責任を伴う内容です。しかも気概ある人たちが辞めてしまった組織です。

ここでユニークだったのは、今度はその組合長が、プロジェクトに任せっきりで権力的支援をしようとしないのです。ワンマンから急に放任です。結局動きは起きませんでした。私的にはメンバーが作った内容はイケてるものでした。しかし上の援護射撃がない。それ故にやはり現場で抵抗にあい、またまた気概のある人は辞めてしまい、自身で民間で取り組みを始めてしまいました。

 

組織や権力という存在に無頓着な組織体での出来事です。皆さん如何ですか。ポジティブ・マネジメントにとって肝なのは目に映る感情的起伏をプラスにすることだけではありません。その感情を誘引する権力、パワーの存在をしっかりと理解して、それを扱う、演出する(レンダリング)ことが非常に重要なポイントになります。それを見逃しては、「臥龍点描を欠く」ことになるわけです。

ではこういった場合、どのようにマネジメントすれば良いのでしょうか。

それが「衆議独裁」です。知恵や発想は現場を軸にして、自由にポジティブに進める。そして最後の意思決定での影響力が求められる瞬間は地位や専門性による権力によって統制し、ネガティブを牽制する、というのが最善といえます。これは私の経験からも間違いのない事実です。

衆議独裁は力のバランス配分が重要です。現場が主体的にやっているときに独裁すれば、人は反発します。主体的な時は後見しながら、「いつでも守ってやる」とばかりに、決め手の時に振るうのがコツになります。

自分が持っている権力のレベルや強さを常に自認しながら、的を射た行使をする。それもエンパワー的な行使をしていくのが権力の有意な使い方です。

さて次回は権力という影響力の行使について、もう少し日常的なポジティブ・マネジメントのやり方から話を展開していきたいと予定しています。次回も何卒よろしくお願い申し上げます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?