• JoyBizが結果にこだわるのは、本物であり続けるためです~ソモサン第197回~

JoyBizが結果にこだわるのは、本物であり続けるためです~ソモサン第197回~

ショートソモサン①:「結果にこだわる」とは?

皆さんおはようございます。

弊社の社名は「JoyBizコンサルティング」なのですが、この名称の由来は「リザルト」にこだわった私の使命感に由来しています。リザルトとは結果という意味です。言わば「弊社は〇〇という成果を出します」と言うことです。企業の名称の由来は様々ですが、その一つにこのリザルトがあります。その対局がプロセスです。プロセスとは、やっている内容・手段のことで、「弊社は○○のお手伝いをします」といったような意味で、例えばボストン・コンサルティングなどは「ボストンにあるコンサルティング(経営相談)の会社」ですし、組織開発センターなどは「組織を開発する機関」といったところです。因みにマッキンゼー・アンド・カンパニーなどは「マッキンゼーさんの会社」といったところでプロセスすらも唱ってはいません。凄い自信です。

社名への思いはそれぞれであり、良し悪しはないのですが、時に「名は体を表す」の如く、非常に歯痒い企業が存在するのは気に掛かります。社名としてプロセスを唱っているのだから、結果は関係ない、興味もない。取引先がどういった状態になろうが知ったことではないといった仕事を姿勢にしている会社も存在し、それが業界のイメージすらも低めているとするとあまり冷笑してばかりもいられません。現実として自社だけが潤えば良いのだ、といった企業が自分の業界内に横行しているとなると、それはもう苦々しい限りです。さらにそれにも増して自分の会社までもが「同じ穴のむじな扱い」にされるのは嘆息するところです。本人的には「だからそういう会社を辞めて独立したのに」思うのですが、世の中にあるバイアス文化には勝てません。

実際創業以来、何度か前職の名前を耳にした途端、クライアントから不信な顔をされたり、不快な言い回しをされ、その度に辟易してきましたし、瞬間で決めつけをされて、あとはその思い込みのフィルターで判断されるという憂き目にも遭いました。マッキンゼーなどの場合、そこを退職して尚、そのイメージで稼ぐことができる人が後を絶たないのとは真逆な話です。

そういった中、最近またまたそういったことに関わる不快な情報をお客さんが教えてくれました。これは「学者に二代なく、長者に三代伝わらず」という話とも繋がります。

それはある中堅会社に入り込んだコンサルタント会社がゲスを噛ましている、といった内容で、表面的にさらっと聞く限りでは、採用する側もコンサル側もどっちもどっちだという面もあるのですが、先の話のように、過去を知る限り、「またボンボンをだました「たかり」をやっているのか」といった体で、正直本当にこういった会社が野放しにならないように何らかの規制はかけられないのか、と憤るところです。

具体的には、関西にある中堅企業の二世に取り入って、二世体制を作るという名の下に全社員にパワーハラスメントまがいの介入を行い、結果経営幹部を筆頭に有能な社員が続々と退職して、組織がボロボロになってしまったという話です。この会社は先代からの努力によって、特段苦しい状態ではありません。ただただボンボン社長に人材が付いて来ず(当たり前の話)、それを打開しようとコンサルタントを使っての過激な洗脳的な教育アプローチを断行し、それによって自分に振り向かせようとしたという本末転倒の話です。結果としてコンサルタント企業の言うままに従業員の平均年収の10人分もの金を注ぎ込み、一方会社の方は機能不全に追い込まれてしまっているという話でした。

この会社、これまでも度々こういった倫理に劣ることを平気でやらかして、私の知る限りコンサルタント倒産(コンサルタントに金を使い過ぎて資金繰りが廻らなくなった)を起こした会社もあるといった過去を持っています。

にもかかわらずそこから何も学ばない会社、自分たちがやっていることの倫理的問題に気が付かない会社というのは本当に憤りを感じます(その会社の売りの一つが「コンプライアンス強化」というのですから)。

しかし世の中ってどうしてこうもおかしなことが横行するのでしょうか。倫理を売りにする会社が倫理問題を平然と起こし、守銭奴のような事業展開に突き進んだり、先代が必死で築き上げた会社の信用を利己的な幼児みたいな承認欲求でいとも簡単に崩壊させる。

ショートソモサン②:教養とは何か?下品とは何か?

日本では「衣食足りて礼節を知る」とか「実る穂ほど首を垂れる」、西欧では「ノブレス・オブリージュ」といった倫理観、道徳観を象徴する格言があります。人は豊かさを求める。集団社会において皆全て豊かだと満足することはあり得ない。だからこそ集団社会を維持していくにおいて少しでも豊かさを得た人は「社会的規範となるように振る舞わなければならない」という不文律の社会的心理とも言えます。そしてその骨子は「利他の精神」です。

そういった観念をしっかり身につけているか否かを表すのが品格ですが、その品格を支えるのが教養です。教養のない所作や振る舞い、またそういった人のことを下品と称します。Wikipediaでは教養を「人が持っているべきと考えられる一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、古典文学や芸術など質の高い文化に対する幅広い造詣が、品位や人格および、物事に対する理解力や創造力に結びついている状態」説明しています。これは知性は品格の必要条件ではありますが十分条件ではない、つまり知的であるからといって品格が高邁なわけではないということです。

ノブレス・オブリージュでは「社会の模範となるように振る舞うべきだ」という社会的責任に対して用いられます。私はそういった観点で「企業の社会的責任の中核は関与者に対して結果を示すこと」と社名に結果の意味を入れ込んでいるわけです。うちはやるだけの会社、やった分だけ報酬を貰うのであって、結果はそちらの責任ですよ、とか、その癖、結果が出ないのはやり切らないからだ、結果が出るまでやり続けるのが責任だ、と何処かの宗教団体のように相手の不安に乗じて布施をせびるような下卑た人生だけは送りたくはありませんでした。これは今でも両親に感謝するところです。

思うにこのような品格やそれを支える教養とは如何にして醸成されるのでしょうか。一つは幼少期での基礎教育にあると思います。これは特に親を中心とした家族での教育が大きいと思います。教養の一面に知性、知力があるのは確かです。ですから思考力や読解力、想像力といった基礎力を鍛えるのは大事です。この力の弱さから深謀遠慮できない浅はか人材、盲従人材が一杯いて問題解決の障害になっているのは間違いのないところでしょう。

一方で表立って目立たないので見過ごしがちなのが、造詣の狭量さによる哲学観の欠落人材です。ある意味人間が人間足り得る要素とも言える領域です。善悪の良心や道徳心、はたまた美学といった生きる目的や意味に繋がる深みです。

先に「衣食足りて礼節」と書きましたが、まさに道徳心なども幼少の折にどう仕込まれるかが勝負です。この時期に家族が貧困などの理由で造詣の教育をしっかりしないとその人は品格に乏しい価値観になってしまいます。

現代の社会制度では家族の都合で社会的人権が阻害されないように学校教育などで場は提供していますが、戦後の経年の中で日本は知性偏重の教育によって道徳心が育まれていない人が量産状態になっているように思えます。面白いのは小学校レベルでは指導要領によって着目はされているようですが、造詣のような知能レベルの開発は中学や高等学校レベルで意味があると言えます。しかし日本では高校でそういうアプローチをしているのは埼玉や茨城、千葉位とごく僅かというのが実態です。ただこういった造詣開発はやはり家族の問題であり、更に心の問題は生活的な貧困ばかりが要素ではありません。やはり親や年長者の意識の問題が大でしょう。

経営者においても子供に次代を期待して、優秀な学校に行くことばかり期待して、知性偏重のアプローチで人としての造詣開発に全く関心がない人が多々います。そして学歴は優秀だが人間としてはお粗末な人材に実権を引き継いで、将来に禍根を残す事例を至る所で目にします。

さらに日本ではGHQの影響で、日本独自の宗教や国体など思想観の排除を目的とした教育的施策が経年で効果を表し始め、宗教観もなくしつつあり、どこにも人間教育、造詣開発の場がない状態に陥っています。こうして日本は壮大な下品社会に陥りつつあるのが今日の実態なのではないでしょうか。

心に芯がないのですぐに折れてしまう。迷いから抜け出せない。傷つくのが怖いし脆いから楽に流れされる。経験がないから人の痛みや気持ちが分からない。自分しか見れないので誹謗中傷の傷みが解らない。平気で人を追い込む。このように下品な世界における負の連鎖が加速度を増しているのでしょう。

面白いのは、人は生来目的的で意味を求めて彷徨う存在です。それが人間が人間たる所以です。ですから意味ある人や組織に追従しますし、希求します。特に器はあっても中身がない人は、それ故にそれを求めます。反社と言われる人でさえ求めます。それが生きる上で心を保つ支えだからです。一人で居られない人が集団に帰属していると実感するための錦の御旗だからです。

ショートソモサン③:社内に教養と造詣を開発していくためには?

二世経営者などは自分が経営をする立場になったときに痛いほどその意味を体感します。そして自らの哲学や理念を持ちたがります。創業者でも一定の成功を収めはじめると、次のステップに向けての空虚さと不安感から哲学や理念を持ちたがります。まさに最初は衣食を足りさせるための「金」が求心力であったのが、「金」では人が引けなくなるからです。ところがこれまで考えたこともない人がいきなり造詣など持てるはずもありません。すると安易な人(だからこそ造詣がないわけですが)は他にそれを求めます。その多くが宗教です。そして時にいかがわしい宗教に引っかかる人も出てきます。そういった魑魅魍魎の中に件のような「コンサルタント」がいます。したり顔で「理念や哲学」の重要性を訴えてくるのです。想像力のない学校秀才的な知性偏重人材は吟味する力がありませんので、ブランド名などですぐにころっと騙されます。そして冒頭書いたような悲劇が起きるのです。

私から見ると、自らの会社にビジョンも理念もないくせに、長年哲学は「金と儲け」しかない下卑た会社が他社に企業理念の開発や浸透を唱えるのも馬鹿馬鹿しい(だからこそその意味がわからないのでしょう)限りですが、そういった空虚な人ほどブランドといった外形に頼り、それを盲信して泥沼に嵌りますから皮肉なものです。「貧すれば鈍する」と言いますが、貧したわけでもないのに鈍した経営をする会社に共通するのは、哲学なき会社にありがちな「最初に一発当てて、その遺産を食い潰しながら過去のブランドにだけ依存する金の亡者の集まり」の所業です。

ところで、造詣の観点から言及すれば、「教育などのアプローチは知的向上」以外には効果はありません。造詣の開発の根本は「体験」です。それもある種の「苦行から得られる慧眼」のような感覚です。それを得るには覚悟が必要です。当然自らその境地に踏み入るのであれば素晴らしいことです。しかし多くの人はそういったことの意味すらも想起できないでしょう。

ではどうするか。その一つは率先垂範です。そして影響力の行使です。コンサルタントのような影響力のない存在に、しかも閉鎖空間での缶詰的な教育アプローチで慧眼など起きるはずもありません。それが分からない愚か者に人などついてくるはずもなく、泥沼に嵌まり、自分よりも影響力がありそうな人に抵抗したがるといった反発を心理的リアクタンスと言いますが、その心理的リアクタンスによって度を高めていくだけです。最後に影響力への端的な抵抗を示すだけです。それは辞めるという賢明な打ち手です。

もしも影響力を身に付けたいのであれば、それを認知してもらいたいのであれば、それはまず自ら彼らの中に入っていって共感を得ることです。自ら汗を掻き、体感を共有し、理屈の前に感情を触れ合わせることです。それもポジティブな感情を行き来させることです。その上で造詣に基づいた自分の美学を示すことです。知性や知力とはその美学的で論理的な哲学を表現する手段に他なりません。

皆さん如何でしょうか。どっちもどっちと言った意味はご理解頂けたでしょうか。でも今回のケースの場合はコンサルタント会社の方に罪は大きく掛かると私は見ています。問題を起こした会社の二世は無知は責められるとしても困って頼ってきたわけです。相談を生業にする以上、それでお金を頂戴する以上、応じた結果を出すのは責務です。それこそ企業倫理です。

そう言った意味において日本のコンサルタント会社は無責任な教育屋ばかりで、実際に責任を持って企業に切り込む実務屋は殆どいません。いてもそれは金周りばかりで、最も心臓部たる組織問題にアプローチする人や組織は本当に稀有なのが実態だと言えます。

「名は体を表す」。だからこそ私はお付き合いをするに際して最も着目することを「リザルト」に置いています。自分の会社が何をしているのか、その生業を分かりやすく示すことに矜持を持とうと名付けたわけです。また社員章にもあるように弊社のロゴは紫です。これは仏教界で最も高貴な色にあやかり、品格高邁に振る舞おうという意味が込められています。中のJを作る十六の点にも意味があります。一つは、「2個の素数と13個の2の冪乗の和で表せないことが知られている最大の偶数」だということです。この性質を持つ偶数は、有限個しかありません。また仏教の十六観智にも由来を持っています。十六観智とは煩悩(苦悩)から脱して涅槃(悟り)に至る上での瞑想による観から得られる智のことです。いずれも至高としてJoyの状態を生産的な世界において実現しようという意志を表しています。

ともあれ、皆さん、ブランドはいつまでも価値があるわけではありません。殆どの場合地に落ちていきます。日経新聞の調査では100年間の中で上位100社に存在した企業は皆無です。私が入社した時の会社で消えていった優良企業は星の数です。エクセレント・カンパニーにおいても調査を始めた時の優良企業で調査後に残っていたのは6分の1だったというデータがあります。ブランドに頼らず、本物を見つけ出す力を持ってください。見極めの力。それに必要なのは知性ではありません。教養、造詣、そして責任意識に基づいた倫理観です。

 

それでは引き続き次回も何卒よろしくお願い申し上げます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?