• ブリコラージュ思考を支える構成的論理とは何か?-ソモサン第174回-

ブリコラージュ思考を支える構成的論理とは何か?-ソモサン第174回-

ショートソモサン①:あなたの世の中を見るレンズは「要素還元的」?「構成的」?

昨今SDGsの名の下で特に主張されているカーボンゼロの一環で年賀状の廃止が進んでいるようです。カーボンゼロは良いのですが、それで風物詩が無くなっていくのも寂しいものです。今年も幾つかの年賀状で「ソモサン読んでますよ」というメッセージには元気付けられる思いがしますが、こういった何気ないやり取りが減っていくのはやるせ無い感もしています。

今年からの弊社の推しとして「ブリコラージュ思考」という概念を年末からご紹介させて頂いています。ブリコラージュとは保有する情報系の中で取り敢えず有り合わせを上手に組み合わせることから問題解決の一手を産み出すという考え方で、自然界では科学的と称される論理よりも実証に使われているということから野生思考とも称されています。前回私はこの実践的な思考法であるブリコラージュ思考を一般に社会で流布されている論理思考とされている科学思考と対比して、その違いや用途性について言及させて頂きました。

一般に流布されている論理と表現しているのは、巷ではこの思考はあくまでも要素還元的に垂直的な因果関係を軸にした論理であるにも関わらず、恰もそれ以外は論理では無いかの如く喧伝されているからです。私的には偏った学校教育などによって要素還元、つまりは分析アプローチ的な論理が論理の全てであり、それ以外の論理、構成アプローチ的な論理は非科学であるといった無知蒙昧な風潮が、現場における様々な問題解決において多大なる障害をきたしていることに憤りを感じている日常と言えます。

それから拝金主義とまでは云いませんが、世の中の価値を測る尺度が経済価値、つまり貨幣価値に偏重していることも日本の悲劇です。西欧では宗教を始めとして、大義や理念といった存在意義を重視する価値概念がありますが、日本では敗戦後、天皇制による国体の解体を指導した進駐軍によって、古来からの独自の価値の体系までも失う結果となりました。これが経済価値依存を生み出し、貨幣、即ち数字依存の価値概念を生み出す事態に陥ってしまったと見ています。何でもかんでも数字化して比較検討しないと落ち着かない空気感を蔓延してしまったわけです。一時はエコノミックアニマルと称されるまで、プライドやパワーの源泉を貨幣価値、数字という見える化の世界に主体性を置こうとした、敗戦的自信喪失からの復興への拘りが未だに文化として根付いたのが日本の歪みだと私は思っているのです。自信の源泉を数字にしか見出せない姿をみなさんはどう見られているのでしょうか。

そういった背景のもとで、全ての評価基準において数字化を求め、分析アプローチを絶対視して、分析的思考を評価軸に社会階層や権力構造を構築した中で、分析思考しかできない人材を登用することから、特にビジネスや組織活動において問題解決に支障をきたしているのは確かです。分析は原因究明をしたり、問題点を特定することで解決の足がかりを生み出すことは確かです。しかし自然破壊をした森を分析してその原因を特定することから要素還元的にアプローチしても、殆どの場合元の森に戻らなかったとか別の問題の起因となってしまったといった要素自体が複雑な関係を問題を有機的に構成していく論理を持ち合わせない現実を見るにおいて、分析的論理は原因を知ることによる不安解消の清涼飲料水の働きはあっても、根本解決を見出す論理としては不十分すぎるということは最早「火を見るに明らか」な話です。にも関わらず相変わらず分析的論理に拘泥する日本社会。これこそが分析的論理思考の限界を象徴する現象といえるのでは無いでしょうか。

では構成的論理とは一体どういうものでしょうか。その一つに「マインドフルネス」があります。マインドフルネスというアプローチの原点は「禅」それも日本の禅における「黙想」の技術です。脳生理学の発達によって理系的に脳の仕組みについては大分分析的な研究が進んできました。脳にどのような神経作用があり、どういったホルモンや刺激がどういった作用に影響するか、様々な角度から研究発表が為されています。そしてそれを操作する様々な薬物なども開発されてきています。しかしそういった薬物において脳が問題を抱えたときに完全に解決する作用を持つものまでは開発されていません。必ず何かしらの副作用が生じています。つまり分析的アプローチによる論理には未だ限界があるということです。

そのような背景の中で、脳に起因する精神障害に対して薬物や外科的なアプローチではない治療法が出現します。それがアメリカのジョン・カバット・ジン博士による「マインドフルネスストレス低減法」でした。1970年代に現れたこの療法は、心的過程を「脱中心化」し、とらわれずに、穏やかにただ観察するといったアプローチ法で、起源は仏教の禅ですが、これを宗教的な修行哲学ではなく、あくまでも心身の健康に応用しました。

このアプローチは1990年代にはうつ病の治療のためにマインドフルネス認知療法(MBCT)へと展開されました。そして現在では危険な副作用を持っている可能性は低いということで、教育、妊娠中、刑務所などでも使用されています。マインドフルネス法は現在でも分析的アプローチではその要素還元が特定出来ておらず、展開には時間がかかりました。何故効くのかが分からないからです。でも現実に「効くのは効く。しかも薬物療法のような副作用もなく」です。構成的アプローチにも理解が深い欧米では早くから実証主義的に導入がなされ、同時に研究も進んでいます。ところが日本では2013年頃からようやく欧米の模倣で研究や導入が始まったばかりです。一応保険適応もされて来ましたが、普及は亀速です。その理由が分析的論理として検証出来ていないから、です。これが日本の頭の中(思考)の構造の典型です。有効性よりも解析性が優先されるのが日本が創造や開発競争で負ける元凶と云えます。

面白いのはNHKの「ためしてガッテン」という番組で、日本人は自分の不調の原因を専門家に説明されると、それだけで安心して不調が快癒されることがあるという内容が報道されていたことです。自分自身の真の不調原因がわかっていなくても、テレビで専門家が恰も分析論的に説明すると(本当は真因では無いかもしれないのに)、それを魔に受けて体調までもが改善されるという専門信奉の姿。分析論信奉もここまで来ればいうことはありません。最早神頼みに近いレベルにまで達しているということです。

 

ショートソモサン②:これからのビジネスは要素還元でうまくいくか?

さてこの構成的論理をより身近で考えてみましょう。それは「ビジネスモデル」です。これまで商売の優位性はマーケティング論理に基づいて、主客に対して提供価値(商品)、提供負担(価格)、提供条件(場所)、そして提供認知(方法)といった要素のどれかに優位性が担保されれば競争環境に勝利するといった分析的アプローチが為されて来ました。しかしこれらは商品力の拮抗や価格のグローバルでの限界負担、ネットなどでのタイムレス化、そして顧客における情報の非対称性化によってどれ一つ取って無為なアプローチとなって来ました。そして世の中ではブランドに代表されるような分析的論理が要素化しきれない価値の構成化によって競争優位が行われるようになったわけです。売れている要素や顧客が価値を見出す要素をいくら事細かに分析しても、その間でアジャイル(俊敏)に価値要素が流動化していく現状において、時間こそが価値となり、論理に基づいた過去分析の時間浪費自体がネガティブ要素となってきたのが現代です。いくら分析してもまたそこからの要素を還元しようと追従しても、どんどんと新しいものが創造される市場において、論点は時間を超越する、また論理では解析し切れない感情的な要素(好みや快適性、感動)やそれを喚起させる総合的イメージ(例えばロゴ、クールさ)といった不確定要素を構成的に編み出すことが優位性の源泉になって来ているのです。レアで模倣困難で組織化されたオリジナリティといった抽象的感性的な要素が勝負ポイントになった時、最早日本の分析論礼賛のビジネス展開や組織運営はその時点で破綻をきたしているわけです。これはBtoBの生産財でも同様です。今は取り引きではなく、取り組みの時代です。顧客や供給先と共同で価値を創造しないと追随ではアジャイル的に置いていかれるだけになっています。協働で構成的論理で市場を見ないと取り残されるのは自明の理と云えます。

私はもう20年も前に慶應大学のビジネススクールで学習する機会をもらいましたが、その時点でマーケティングの教授は「最早マーケティングマネジメント(分析的マーケティング)の時代は終わった。これからは戦略的マーケティングの時代になる」と仰っていました。またアメリカを中心とするビジネスの戦略論もハーバードのポーター教授の「競争戦略(いわゆるポジショニング戦略)は終焉し、ミシガン大のハメル教授の「コア・コンピタンス戦略(複合的中核能力戦略)」に移行していました。残念ながら今の日本のビジネス界は未だ競争戦略論やSWOT分析といった分析的アプローチ中心です。当然競争優位、特にグローバル市場で勝てる道理がありません。

こうなると事は明白です。組織がこれまでのような偏った論理、要素還元論を軸とした分析的論理に注力すればする程、競争環境からは遅れを取る一方になるという事です。早期にもう一つの論理、想像や創造を生み出す構成的論理によってオリジナルな競争環境を生み出して行かなければなりません。また組織環境的にもそういった人財を許容したり後押しをするマネジメント態勢や風土を醸成していかなければならないのです。事は急を要します。この構成的論理を担うのが野生の思考と云われるブリコラージュ思考です。レヴィ=ストロースは、生前「21世紀は心の時代になる。そうすると必ずブリコラージュ思考が切望されるようになる」と預言しています。

ただ気をつけなければならないことがあります。ブリコラージュ思考はあくまでも思考技術だということです。ブリコラージュ思考、いわゆるアブダクションの手法を知ったからといって、それを生かす幅広い情報系(ある意味分析論者が嫌う雑学という領域)に触れる意思が前提として求められます。この意思をIntentionと云いますが、特に弊社ではこの意思の中核を「主体性」そしてそれを喚起させる「当事者意識」として捉えています。当事者意識とは「自分に没入する意識」ではありません。それはある意味「利己主義」と同義です。主体性とはまさに構成的論理を創造する意思であり、当事者意識とは「自分をメタ認知して、場にあった自分の責任や役割を腹落ちさせ、応じた思考や行動が取れる」といった主体性の元になる意識を云います。弊社ではこれまでもこの当事者意識の喚起といった根本ベースから、より総合的に人や組織のPerformance(生産性向上)を調整するアプローチとしてLIFTという概念を提唱して来ました。今年はよりその姿勢を前面に活動をする所存でいます。

このLIFTは3つの-tionで構成されています。Solution(問題解決力)、Relation(関係力)、そしてIntention(意思力)です。これをSRI Cube Modelと称しています。これらは3つがCube(3乗)の形態を持ってパフォーマンスを組み立てています。どれひとつも欠かせませんし、相互のバランスも重要になります。まさに調整が綾になります。

次回は組織や人のパフォーマンスを調整するブリコラージュ思考開発を含めた3つの力の意味やその関係、開発手順についてご紹介させていただく所存です。

 

さて皆さんは「ソモサン」?