• コンパッション文化を醸成する「関西ノリ」と「ブリコラージュ思考」-第172回-

コンパッション文化を醸成する「関西ノリ」と「ブリコラージュ思考」-第172回-

会社にポジティブな感情エネルギーは充満しているか?

皆さん、おはようございます。

JoyBizコンサルティングの「JoyBiz」とはまさに「楽しい仕事」、最近で言うところの「ウェルビーングな組織」を意味しています。私はそれをコンパッショネート(温情ある、慈悲深い)溢れる文化・風土を持つ組織と定義しています。

18世紀頃から西洋を中心とした近代科学の進展は論理優先の風潮を醸し出し、その頃の著名人は自然化学や社会科学を問わず、感情は人間にとって害悪なものであると決めつけました。ダーウィンやマルクスなどはその先鋒です。それによって社会の風潮は感情を排除した世界こそが進化した姿のように認識されるようになりました。しかし昨今脳科学などの進展によって感情は寧ろ人間の自律的な意思の発動には必要不可欠なエネルギー源であり、特に創造性などにおいては切っても切れない関係にあることがわかってきました。それは昨今の企業組織が陥っている姿によって証明されていると感じます。論理偏重な運営に走り過ぎたために、分析一辺倒な空気を蔓延させ、過去と原因追求はするが、未来への創造ができない状況が生まれています。。

それ以上に本来は人間同士が協働することによって生み出されるはずの相乗的なパフォーマンスが、論理の組み合わせの前に感情的な齟齬が起きることによって、かえってマイナスに突き進む様々な組織の実態を浮き彫りにしています。この現実こそが人間から感情を排除した世界など机上の空論であることを物語っています。

さてこの感情が持つ力ですが、周知のようにプラスに機能するものとマイナスに機能するものがあります。感情の世界では、プラスをポジティブ、マイナスをネガティブと表現するのが通常ですが、自然社会全体が進化と発展を基調にポジティブに働くのに対して、人間社会はその自己保存を基調にネガティブに働くのが特徴的と言えます。文化人類学者のレヴィ=ストロースはこれを野生思考と科学思考というように分類していますが、日常の我々は放っておくとややネガティブに思考しがちなのです。従って意図的にポジティブを指向しないと人間関係相互に悪循環が生じて(例えば疑心暗鬼)、組織内に非生産的な雰囲気を醸し出します。

最近ではこれがウツなどの温床となっている面があるのも否めないところです。難局を打開すべく科学思考に偏重すればするほど心が病んでいき、それが組織瓦解に繋がっていくとすれば皮肉な話です。

ここで重要な視点は科学思考の否定ではありません。思考パターンの強化のためにも情的なバランス取りが重要になるということです。必要悪的なネガティブ思考によって擦り減らされる心のエネルギーが空になる前に、ポジティブな情的エネルギーによるチャージが欠かせないということです。

このポジティブなエネルギーこそがコンパッション(温情・慈悲)です。コンパッションとは人を慈しむ気持ちです。人を大事にし、人を癒し、人にエネルギーを注ぎ込む行為です。世界の宗教が重視する心構えである「愛」という気持ちの一つと言えます。単純に愛というと、その定義は「かけがえの無いものとして、大事に思うこと」ということになります。一部の辞書には「恋」と同列に書いてあります。しかし愛と恋は違います。これは慈愛と恋愛の違いによって証明されます。

私は若い頃に「愛は心が中にあるが、恋には下心がある」と教わったことがあります。ここでいう下心には「たくらみ」のようなネガティブな要素が強調的に含まれています。では慈愛の「慈」はどうでしょう。これも下心があることになります。実は下心は、本来「密かに考えていること。本心」を意味する言葉です。

では恋愛と慈愛はどこが異なるのでしょうか。それは「対象に見返りを求めているかどうか」です。恋愛としての愛は「相手に何らかのことを自分に対して答えてほしい」という「バーター的な求め」の姿勢があります。一方慈愛は「相手に対して一方的にエネルギーをチャージする」姿勢です。例えば自分の子供やペットに報酬を求めるでしょうか。ですから表現は同じ「愛している」でも意図は全く異なるわけです。それは前後の対話や行動で一目瞭然です。しかし、昨今ボキャブラリーが少ない若者や浅慮な若者が増え、その違いが分からないことから様々な意識のずれが生じることが多発しているような話をネットやマスコミの情報を通して耳にします。

そういった意味において職場内で率先して慈愛の活動を行うのは非常に難しくなっているような気がします。このことは同時に人間関係を深めづらくなり、職場がギスギスと殺風景になってお互いにエネルギーがただただ消耗する状態に突き進むことと比例しており、これからウツ的な職場状況はますますひどくなっていくものと憂慮します。。

 

情を高め合うコミュニケーションとは? ~関西人と関東人の違い~

ところで私的には若者もそれ程愚かではなく、何とかそれを緩和しようと反応しているのではないか、思う節も持っています。それは関西のコミュニケーション文化への傾倒です。特に漫才文化です。ヤスキヨや紳助辺りから始まって、ダウンタウンの松ちゃんで隆盛になってきています。以後〇〇世代という表現も出てきています。関東出身のタケシなどもそれに呼応していますが、いわゆる「本音トーク」、一見過激に見える「ボケとツッコミ」の対話です。関東というか東日本の人から見るとやや激しい(時には口汚い)物言いや冗談交えた表現の普及です。基軸は笑いによる人間関係の円滑化と場の盛り上げを使っての迅速な本音コミュニケーションです。時には場を円滑にし、人を立てて盛り上げるのは「嘘も方便」といったやり方を行う、ある意味高度に捻った慈愛の精神もあります。全ては人間関係の生産性の向上のために生み出された技術です。

私は大阪生まれ(幼少期は宮崎にもいました)で日々テレビで吉本を見て育った世代ですが、それを当たり前として東京の高校に転校した時に大変な目に遭いました(今日でもまだまだあるのですが、苦笑)。当時はまだ漫才ブームの前の時代です。もう関西ノリは変わり者、あるいはうざいという扱いでした。

関西的ノリで冗談を言うと、それを本気にしたり、また敢えて知ったかぶりで笑いを取ろうとすると馬鹿にされ、時には真剣に怒ったり、と全くツッコミがないのです。ボケが全く効かない文化。これには閉口しました。

ちなみにボケとツッコミですが、「ボケ」とは「冗談を言う」「話題の中に明らかな間違いや勘違いなどを織り込む」「笑いを誘う所作を行う」などの言動によって、笑いを誘うことが期待される行動を取ることです。一方「ツッコミ」は、ボケの間違いを要所で指摘し、相手や周りに笑いどころを提示する行動です。いずれも場を和ませたり、コミュニケーションを笑いで円滑にするやり取りです。ツッコミは、口頭で指摘するほかに、ボケの体のどこかを、平手・手の甲・小道具などで叩く(ドツキ)、または足で蹴ることでそれに代える場合もあります。ボケとツッコミの役割分担は必ずしも固定的ではなく、流れによってボケとツッコミが自然に入れ替わる展開を用いる場合もあります。例えば、ボケ役の冗談に対し、ツッコミ役がツッコまずに「ノる」、つまりボケに一時的に同調し、ある程度ノッた後にツッコミを入れてオチを付ける芸(ノリツッコミ)などがそれです。

未だに関東の人は関西の特徴を物言い、つまり言い回しのような方言に置いている人が一杯います。しかしそれは大きな間違いです。いわゆる関西弁は、あくまでも内容のストレートさや本音のやり取りを緩和させる表現方法で、立ち位置は副次でしかありません。一見物腰柔らかい物言いで、きつい本音でもきちっと相手に伝えることにより、無駄な忖度や歪んだ解釈による弊害を避けようとしているというのが実際です。そう関西人は無駄が大嫌いなのです。信頼は本音でのやり取りでしか得られないというのが根底になります。いちいち「俺の意図を汲んでくれ」とか「言わずとも解釈してくれよ」をといったやり取りは無駄でしかないと捉えているのです。

これは関西人が歴史的に身に付けた技術だと私は思っています。今年の春からNHKアーカイブスで「黄金の日日」という大河ドラマが再放送されています。先だって他界された中村吉右衛門さんの実兄の松本白鸚さんが市川染五郎と名乗っていた若き日の作品ですが、古来貿易港として南蛮貿易を行い、文化や価値観の違う人たちと交流しながら丁々発止と交易していた姿が描かれています。また当時は政治的にも階層的にも入り乱れた覇権の世界で、会合衆という有力商人たちが様々な公家も交えた武力政権の権謀術数と渡り合った過程が描かれています。内容的にはやはり関東が描いたストーリですが、関西人のコミュニケーションや人間交流のあり方が垣間見えます。

江戸時代になって発展したルール中心の(ある意味科学思考的で)官庁的な城下での文化で形成されたコミュニケーションとの在り方とは異なる、複雑な力関係の中で生き抜いた関西の文化やそこで培われたコミュニケ―ションの骨太さをボケとツッコミという本音を円やかにしながらも中身はストレートなやり取りの中に見ています。そこに関東の物言いはスマートですが、中身が分かりにくい、欧米人が日本人の特徴と見る難解なコミュニケーションのあり方との違いを感じるのは私だけでしょうか。

私的には関東時には物言いはキツイかもしれないが、情的には円やかで内容はシンプルなのが関西のコミュニケーション文化。特に欧米人にとってはやり易いコミュニケーションで、物言いは歯に絹着せて柔らかいが情的にはクールに伝わり、内容的には解釈し難く時間の無駄が多いのが関東のコミュにケーション文化と感じているのが本音のところです。

例えば関西人はよく「愛してるでー」と軽口を言いますが、これは一種の慈愛的表現です。前後や物言いを良く捉えて聞かなければなりません。因みに恋愛の時の表現は「惚れてるでー」です。関西人はストレートなのです。関東人のストレートとはそのやり方が大きく異なると私は見ています。

「論理的に考える」以外にどう考える? ~ブリコラージュ思考とは~

さてこの関西人的なコミュニケーションを生み出す思考ですが、最近私は「ブリコラージュ思考」という思考のあり方に出会いました。

ブリコラージュは、器用仕事とか寄せ集め細工などと訳されていますが、限られた持ち合わせの雑多な材料と道具を間に合わせで使って、目下の状況で必要なものを作るということです。それらの材料や道具は、設計図にしたがって計画的に作られたものではなく、たいていは以前の仕事の残りものとか、そのうち何かの役にたつかもしれないと思って取って置いたものや、偶然に与えられたものなど、本来の目的や用途とは無関係に集められたものであるため、ブリコルール(ブリコラージュする人)は、それらの形や素材などのさまざまなレヴェルでの細かい差異を利用して、本来の目的や用途とは別の目的や用途のために流用します。

例えばエンジニアが、全体的な計画としての設計図に即して考案された、機能や用途が一義的に決められている「部品」を用いるのに対して、ブリコルールは、もとの計画から引き剝がされて一義的に決められた機能を失い、「まだなにかの役に立つ」という原則によって集められた「断片」を、そのときどきの状況的な目的に応じて用いるといった活動パターンの違いがあります。

ブリコルールは、雑多に集めておいた道具と材料のもちあわせの全体との一種の対話を交わして、感性的なものと理性的なものを切り離さずに、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な解答のすべてを並べ出して、それを組み合わせて、あり合わせで思考し、物事を解決していくわけです。簡単に言えば「あり合わせの材料で解決策を見つける」のがブリコラージュ思考です。

これに対するのが論理思考です。先のエンジニアのように、論理思考とはフレームワークという公式に情報を当てはめて答えを導き出す思考法です。要は情報を整理・分析して問題点を洗い出し改善する思考です。みなさんもご存知のように論理思考のアプローチは2つあります。演繹法と機能法です。演繹法はある法則から因果を重ねて結果を導く思考、帰納法は複数の事例を積み重ねて結論を導く思考です。両者の特徴は過去の法則に照らし合わせた概念を用いて合理に考えると言うことです。例えば技術者が計画に即して既製品を使って作るといった流れです。目的にピッタリと合うものを概念として導き出して組み立てる思考ですから、ある意味無駄がありません。しかし現実にパーフェクトはありません。この思考は最初に決めた規則に縛られます。論理的思考は、前例や常識、ものを考える〝順番〟を重視する思考です。これでは未来に向けての新規性は生み出されません。未来を切り拓くには、置かれた状況のなかで、今ある材料を使って、常識にとらわれずに、新しいものを作り出していく必要があるのです。

それには過去の常識や順番よりもどこで生じるか定かではない「ひらめき」や「直感」を重視なければなりません。「計画的実行」ではなく「臨機応変」、「理性的」ではなく「感性的」が求められます。

文化人類学のレヴィ=ストロースは、人間の中には計画とか効率といった近代の力によって色がかっていない野生の能力がある。実際に未開社会でも人間は知性によって文化を形成している。「人間は本来こういった思考によって進化発展を遂げてきたとして、このブリコラージュ的な思考を「人間にとって普遍的な思考、野生の思考」と名付け、論理的思考としての科学的思考と区分しました。

そしてレヴィ=ストロースは、これからの時代、ブリコラージュとしての「野生の思考」をこそ重視すべきだとしました。「ブリコラージュ」的な考え方や行動方法がますます大切になる時代になると預言したのです。

私はこのブリコラージュ思考こそ論理的思考的な関東人の思考に対する関西人の思考だと実感しています。

今論理では対応できない複雑性と俊敏性の要請に中で、改めてレヴィ=ストロースの預言が現実のものになってきています。若者が関西のノリや物言い、関西人の思考に強い関心を持ち始めているのはその典型的な兆候ではないかと思うのです。

今後JoyBizではこのブリコラージュ思考に基づいた組織開発を進めていきたいと考えています。それは思考を論理だけではなく、感情を加味した思考のあり方を磨いていくアプローチです。

具体的な内容と進め方は新年からのブログで紹介させていただく所存です。

 

では皆さん、良いお年を。来年はコロナ禍が平定され、さらに良い年になりますように願っております。