• 組織道を支える力理という考えについての理解を深めていく、その三。

組織道を支える力理という考えについての理解を深めていく、その三。

力動を司る「器量」とは 心のタンクの大きさと内容量

今回は力動を構成する「器量」について紹介していきたいと思います。

器量とは文字通り量のことです。物理用語では質量や熱量として「ポテンシャルエネルギー」などとも表現します。最も身近な表現では燃料とかボリュームといったものもあります。

この器量ですが、二つの意味を含んでいます。一つはタンクの容量です。

燃料が器の中で空っぽに近いか満タンに近いかで力動は左右されるのですが、その容量自体の大小は大きな着目点です。

例えば柔道の重量級と軽量級が直接対決した場合、やはり軽量級が重量級を投げ飛ばすのは至難の話です。燃料タンクをどれ位の容量に高めるかは訓練次第です。もう一つは量です。燃料タンクの中を何処まで埋めるかもその人の努力次第です。

 

さてこの器量ですが、意志や思いを支える燃料としても二つの領域があります。一つは知を司る思考力と保有する情報や知識です。どんなに情報や知識があっても、それを効果的な意思に組み立てる思考力(或いは論理力)がなければ、情報はゴミと一緒です。

西欧に「クリスマスツリー」という概念表現があります。概念としてのクリスマスツリーとは意味論としての表現です。まずもみの木はクリスマスだからこそ意味を持つのであって、クリスマス以外では意味を為しません。

更に飾り付ける様々な小物もクリスマスの時のもみの木だから意味があるのであって、クリスマス以外では雪は単なるわた屑ですし、星も単なる電飾にすぎません。全ての要素がクリスマスという主体によって意味を持ち、価値を高めるわけです。

夏のクリスマスツリーなど興醒め以外の何者でもないし、殆ど価値を為しません。これは夏の七夕飾りでも同様なことがいえるでしょう。このように情報は意味を方向付ける主体や意味を生み出す論理思考があって初めて価値を成すということになります。

 

一方反対にどんなに切れ味の良い論理思考力を持っていたとしても、それを活かす情報や知識の幅や量が無ければ、思考力も無力です。昨今高学歴主義の弊害として、受験知識としての偏った情報にしか接触する機会を持たない若者が、試験能力は高いけれども、実践での適応思考や創造力はお粗末であるとか、あまりに社会常識を知らなさすぎるために、場にあった対話ができない、対人関係が構築できないといったことが頻出しています。

なまじ高学歴という勲章を得たが故に、偏ったプライドに拘泥して、人からの情報や知識を享受出来ず、卒業後は落ちる一方であるといった悲劇を生み出し、せっかくの才能を無駄にしているという事実です。

マスコミなどの人たちにもこういった人が増えている様に見えます。

プライドとは、力に対する自己認知の典型的な発露ですが、自己肯定感が低い人ほど偏ったプライドが強く出るのが心理的必然です。

 

ここにもう一つの領域である情を司る感動力と保有する情熱が絡んできます。感動力とは何かを感じたり受け止めたりする感受と人に気持ちを影響する覇気(感情の出し入れ力)のことです。対人に優れた人はこの感動力が非常に磨かれています。

こういう力が使いこなせると他者の気持ちが察せられるので、対人に対してポジティブで安定した関係が作れます。他者が見通せるということは他者に恐れが生まれませんから、他者と自分とを比べもしません。良い意味で唯我独尊が貫けます。

ですから自己肯定感以前に、そういった感覚を重視もしませんので、もとよりプライドなどどうでも良いことなのです。いわゆる「器が大きい」と云われる人です。

誰も開発してくれない感動力と情熱をどうやって身に着けるか?

当たり前ですが、学校はあくまでも個人の能力開発の場です。ですから学校では多くの時間を皆が同じ行為をする状態にしています。机は全て講師の方に向かい、皆が同じ作業をする。まして授業料を払い、学校にとっては生徒はお客様です。

ですから学校自体に弊害がない限りには基本個々人は自由です。また学校の講師陣も果たして組織人かというと、推して知るべしところです。学生や生徒に組織行動など教える術も持ってはいません。

しかし社会は全く違います。社会は集団内で人が協働することから相乗性を醸し出す場です。求められるのは他者への発揮力です。同じ時間で皆が違うことをし、それを円滑に咬み合わさなければなりません。残念ながら学校ではそれは現場任せです。

最早そういった環境で偏った人が親になり、家庭内でも教育が偏重する中、現実社会ではこの欠損が元になって起きている様々な事件が巷間を賑わす有様です。

せめてもの働きかけとしては直接被害を被る会社組織が、自衛ではあっても、この両者のバランスを取り戻すべく、感動力の啓発に真摯に取り組むことを願うところです。これは能力ですから気付きと錬成で十分に回復可能です。

この様に感動力は外からの一押しで啓発可能ですが、情熱だけは自己管理の世界になります。知識同様に情熱もそれを保管するタンクの容量と燃料自体の満空があります。

どれだけ大きな感情の起伏を体感したか、です。これは正負でも同じです負の体感は、器は大きくなりますが、トラウマに代表されるように傷も付きますから、それを癒すには多大な時間を要することになり、望ましい体感とはいえません。

では一般人はどうすれば良いでしょうか。まずは感動、しかもできる限り大きな感動を体感することです。それもポジティブな体感です。体感とは五感で感じることです。それには外に出て周りに自らリーチアウトして行くしかありません。

学歴は高いが情的には障害者と思われる方々は、受験勉強や閉鎖空間でのネット生活に埋没している人が多く、開放的な五感体感が圧倒的に足りていない状態といえます。「書を捨てよ、旅に出よう」といった感じで、目と耳といった偏った情報系だけで使う頭での偏りが情熱のタンクを狭量なものにさせています。

もっと鼻や舌、肌感といったマルチな感覚を解放した中で、立体的な体感を通して情熱のタンクを広げながら燃料チャージを行うのが得策です。

 

そして他者と積極的にコミュニケーションし、協働することから感受と覇気のバランスや間合いを身につけ、情熱の出し入れをスムースにする手立てを身に付けることも忘れてはなりません。情熱は他者との絡みによって錬成させられる燃料系です。

例えば、人は多少の苦難がタンクの容量を広げますが、それは体感する以外に会得は出来ません。逃げていては得られませんが、強すぎても傷になります、その絶妙な力加減は体感でしか得られないのです。

体験学習の妙はここにあるのですが、日常の中でのそこに意識するだけで自身の容量は大きく増量されることになります。これは気力といわれる情熱の熱量をチャージさせる時にも大切です。

レジリエンスが強いといわれる人は、論理思考力たる知力よりも感動力たる情力に秀でているのが実際です。その本質が情熱のタンクの容量の大きさであり、そこへの燃料充填のための効果的な会得法やその術を体得しているか否かということなのです。

 

お盆休みを活用して、皆さんも再度レジリエンスについても一考して頂ければ幸いに思います。

次回は力動における「力の方向付け」をより深掘りした概念として、方向付けの本質である「欲」と「徳」についてをお話しを続けて行きたいと考えております。

それでは来週も何卒よろしくお願い申し上げます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?