• 組織道を支える力理という考えについての理解を深めていく、その二。

組織道を支える力理という考えについての理解を深めていく、その二。

さてそれでは力動についてより詳しく言及していくことに致しましょう。力動を説明する力理では、その構成を方向づけと器量の二つで織り成しているとお話しさせて頂きました。そしてその一つ一つを詳解していく旨をアナウンスさせていただきました。今回は前回の流れに応じて、まず方向づけを更に詳解させていただくこととします。

力理における方向性の働き

先週ではマインドフルネスというアプローチを通して、マインドフルネスはあくまでもエネルギーの調整を行う技法であり、ある時はエネルギーを鎮め、ある時はエネルギーを高める作用を果たすという観点では効果的であるが、そのエネルギーをどういった方向に誘えば、より自らをポジティブで活力ある状態に保ち続けることができるかを生み出す技法ではないということをご紹介させて頂きました。

実際マインドフルネスのルーツである禅の坐禅や瞑想法といった修行アプローチには、そこに必ず看話や説法といった知の充填や作務の様な体感学習といった心身に生きる方向性、哲学観を植え付ける領域が両輪的に伴われています。

欧米では宗教上の問題もあって瞑想法だけの部分を切り取って活用していますが、そこにはあくまでも精神的にマイナスを抱えた人たちに対して適応した経緯がありますし、そのアプローチも禅と同様に認知行動療法という思考のあり方をポジティブ化する方向付けに対する取り組みもセットされているということを見逃してはなりません。

そういった方向付けに対するアプローチを除いた技法は、ある種片肺飛行をしている危なっかしい状態にあるといえます。このような飛行はいわゆるダッチロールに近く、どこに飛んで行くか分かりません。またそれが高推力なものであったならば、かえって危険度は増すことになります。

 

さて上記にも見られるように、力理において自分の中で方向付けがあやふやな場合、他にはどのようなことが起きてくるでしょうか。そう、例えば「論理的思考法」の考え方の一つに、「Why  So,  So  What」という枠組みがあります。

前者は「何故何故」思考、後者は「具体的展開」思考と云われています。ここで着目すべきはSoという単語の意味するところです。論理的思考の概念はあくまでも「因果」的に考えるということが主題です。ですからSoについては言及されていません。

しかし現実社会ではあくまでもSoが一番重要なメイン目標です。WhyもWhatもSo、つまり「何」を深堀したり、展開させるためのサブ要素です。「何」とは物事を方向づける言葉、主語です。物事はまずそれがなければ手段としての何故も、どうしても、もあったものではありません。論理の流れなどという理屈も展開も元より始まらないのです。

 

以前より私は「意」のない「知」は無意味である、ということを主張して参りました。「知」はあくまでも「意」を深めたり、広く伝えるための手段です。「知」なくして「意」は存在し得ませんから両者は一対なのですが、両者は同じではありません。

これはとても重要なポイントです。ところがこの命題がどうも腹落ちしていない人、どうでも良いと思っている人が大勢います。これが本当にどうでも良い話で問題解決の路線から外れているのであれば空論なのですが、実際はこの違いを理解しない人材開発アプローチが組織にとって時間もお金も浪費させているが故に看過できないと云っているわけです。

問題解決するための着眼点は何か、創造を生み出す視点は何か、それは幾ら「何故何故」というブラッシュのテクニックを持っていても、それでどうする、と具体的な展開技法を弄しても生み出されるものではありません。そこで必須なのは一言でいえばセンスであり、発想を呼び起こす思いや気概なのです。それが「意」の本質です。

方向性を生み出す気概 力への価値観と認知

そしてその気概の源泉となるのが「力」への価値観と自己認知なのです。自分はどういう価値を大事にしているか。その価値にどういう力を見ているか。その価値に対してどういう影響性を欲しているか。

そして実際に自分の影響度をどう見積もっているか。それこそが「自分は自分である」という自己存在の起点であり、アイデンティティの始まりです。

 

大人の三要件として「自己選択」「自己決定」「自己責任」という要素が俎上に上がってきます。大人である、つまりアイデンティティがある人は、「自分の意志」を持って自分で選択をし、自分で意思決定をし、自分で責任を担えるということです。

責任感が脆弱な人は意思決定がブレますし、選択ができません。あるいは無責任が故に身勝手な意思決定をしたり、選択をします。こういう人たちは共通して極論に走ったり、人の意見に容易に左右されます。自分の考えや意見がない、あるいはキチンと練られておらず、目先や偏った情報で安易に判断しがちだからです。

自分がないということは判断軸がないということです。ですから非常に「曖昧性への許容度」が低く、すぐに二値的判断や極論に陥るわけです。当然力の制御もできません。ですから対人に対しても間合いが持てず暴走します。

今それが社会問題にまで発展してきているのは皆さんも認識されているのではないでしょうか。例えばネットで問題になっているSNSでの誹謗中傷の主因もこのアイデンティティのない人による極端思考から生み出されています。

「あらゆる物事はスペクトラム的に生じる」という考えが今日の科学では常識になっています。色などは好例ですが、全ての色は三原色の混ざり具合で生まれてきます。にも関わらず、最近の特に若者は物事を極値的にしか見れない。科学の深耕による事象の解明から遠ざかる一方です。彼らはどうしてその様な発想しかできないのでしょうか。

一般には思慮が足りないとか、思い込みが強いとか「知」の開発不足を理由として判ぜられるのですが、本当にそういう理由でしょうか。

 

今「意」がない社会で大義や未来とか成長といった外に向けた関心が薄まる中で、創造、革新といった力への希求よりも、安定を前提とした内向きの関心で「知」を基調とした格差を希求する力への関心が高まり続けています。

そうして人と人との間での力のバランスが過度に崩れることから、破壊へ繋がる力への優劣感と厭世観や人への牽制感の暴騰が加速度的になってきています。

残念ながらそれを抑止する「意」が社会的に退廃してきていますから歯止めも効かない様になってきています。力の方向付けを誤ると本当に危険です。自分さえ良ければ。自分に自信が持てない。自分は悪くない。仕方がない。全て「意」のない人たちが口にする言葉です。

方向付けを持たない力は最悪です。

 

力理の本質である「方向性」つまり「意」の存在。皆さんはどう思われ、そして社会が健康的な成長を取り戻すためにどうか啓発をし、どうアプローチをすれば良いとお考えになるのでしょうか。

「医者」が「裁判官」が「弁護士」が必ずしも「意」に優れているわけではないのです。「人体」のプロでも「人」が分からない医者、「法」は知っていても「倫理」は弁えない法曹人も一杯います。

今皆さんの周りで必要な人はどの様な人でしょうか。どの様な人材を未来に向けて開発しなくてはいけないのでしょうか。健康な力を希求する人材を創り出していきたいものです。そしてそういった人材が参集する組織を創っていきたいものです。

それでは来週も何卒よろしくお願い申し上げます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?