• 人は本当に感情的な対立によって生産行動を低下させるのか。パワーという存在を考える

人は本当に感情的な対立によって生産行動を低下させるのか。パワーという存在を考える

わたしが「大切にしたいこと」~自分の意の中身と深さ~

コロンビア大学のE.シェイン教授はその専門である「キャリア・マネジメント」において、人がキャリアを形成する要素として3つを上げています。

曰く、「自分がやりたいこと」「自分がする意味(価値)があること」そして「自分が出来ること」の3つです。これは哲学でいうところの人間の存在証明である「知情意」とリンクするところでもあります。

長らくキャリアをやってきた中で思うのは、「やりたいこと」即ち「好き」ということと、「意味があること」即ち「大事なこと」をどの様に組み合わせるかが、最終的にはその人の人生のJoyを決めるということです。「やれること」即ち能力は後から付いてきます。

「大事なこと」とは、人間が社会生活を送る上で、その社会が求める考えや行動です。そして「やるべき意味がある」と思うことです。それには万国共通だったり万物普遍なものもあれば、所属する社会ごと、時代ごとに特有なものもあります。

例えば道徳規範とか「世の中で役立つ存在になること」という考えは万国共通であり万物普遍ですが、「正義に殉ずる生き方をする」とか「人から尊敬される人になる」というように具体的になると一見共通普遍の様ですが、その国や宗教や民族的な文化や風習によって変わってきます。

自分が育成され、学習してきた正義や尊敬は必ずしも他で通じるというわけではありません。大事なことを絶対視するのは危険です。しかし世の中にはこういった常識的道理が高学歴者でも無意識に歪んでいることが多々あります。

人は価値観に従って自分の知識を育み高めていきます。そういう観点から見れば、意の方が知よりも上位な概念であると云えるのではないでしょうか。意のない知はそれこそ意味がないという事です。

今の日本社会は意を育まない中での知の向上が大勢になっていますが、これは目的が見えない中で手段を講じているのと同じで、必ず何処かで行き詰まってしまうのは間違いないと思います。もうその兆候は出て来ているかもしれませんね。

 

さて意である「大事なこと」はそれ自体がテーマとなることとそれが何処まで浸透しているかと云うことがテーマになることとがあります。

それ自体がテーマというのは目指す方向性やその有無のことです。「何になりたいのか」「何故なりたいのか」とか「何がやりたいのか」「何故やりたいのか」といったビジョンや思いが「社会的な道義」や「社会的な要請」「社会的願い」はたまた「社会的ルール」に基づいたものになっているか否かといったものや、その思いは本当に意味があり、周りからも受け入れられ、役立ち持続的に持ち得るものであるかといったことです。

そして何処まで浸透しているか、とは本当にその思いは自主性(オーナーシップ)があり、奮起を促すものであり、心の底から本気で思っているものであるか、ということです。実は今の日本の若者を見る限りにおいて、後者に大きな問題というか歪みが見られます。

 

先週「修身斉家治国平天下」の話をしました。これは当然偏差値といった「枠の中での評価」といった手段の目的化から生み出されるものではありません。今の40代位までの人はこの「修身斉家治国平天下」のような意の教育がごっそり抜け落ちています。

知は意に従うと云いましたが、意は知の蓄積よって形成されていきます。知が偏っていたり、意に繋がらない内容での情報知であった場合、意は純然とは育まれては行きません。

今ユニークな保育園などで英語や絶対音感といった能力を幼少期から訓練することに集中させた学習方式を取り入れている話を聞きます。実際そこから有能な人材が世に輩出され始めてもいます。それは非常に良いことだと思います。

重要なことは意の醸成も同様だということです。刑法犯罪の中に「確信犯」という構成要件があります。これは「自分が為すことが当たり前のこと、時に良いことである」と信じ切って行われる犯罪をどの様に裁くかといった内容です。

例えばイスラムのカルト的な少数派閥には「アサシン」という暗殺集団がいます。物心つく頃から隔離されて「人殺しは良いことだ」「神に殉ずるのは当たり前のことだ」と教え込まれた人たちです。これは今の日本が取り入れている教育刑(人は無知だから犯罪をするので学習によって更生はできるという考え方)では如何ともし難い意思の存在です。因みに教育刑に対するのは応報刑です。これは「目には目を、歯には歯を」という考え方です。

 

人の心は初期設定に対しては非常に無防備です。条件付けや雛などのインプリンティング(刷り込み)、オペラント条件付けなどが有名ですが、人は大人でさえも「皆が言っている」という同調性や「それは良いことだ」という報酬性などを組み合わせて心理を揺さぶると容易に誘導的に物事を信じ込ませることができます。

特に家庭のような閉鎖空間の中でコミュニケーションを繰り返すことで特定の信念が増幅されたり強化されるエコーチェンバー現象も加わる中で、無垢な状態で意や知へのアプローチをされると、幼児はそれをスキーマとして学習してしまいます。躾などは有効なアプローチですが、昨今ではこれすら教育されない事態が頻出する有り様です。

ここで押さえておかなければならないのは、「大事なこと」に対しての浸透はほぼ10代まででの教育で決してしまう、ということです。浸透とは理解という知的作業の如何に関わらず、腹に入っていて良い意味でのバイアスとしてアンコンシャスにも働く価値概念となっている、つまりスキーマのような働きをする、ということです。瞬間的に想起される判断基準とも云えるものです。

 

よく自分は20代以降で新たな学習で思いを広げたとか変えたとかいう人がいますが、このスキーマ的な意思はそうそう容易く変わるものではありません。ですから本心はそうでもないのに、何らかの外圧の中で自分に言い聞かせたり、これまでの価値概念(大事なもの)の上に乗せたぐらいの浅さのものでは、いざという時や日常の無意識的な選択の時に想起されることは殆ど皆無に等しいのが実際のところなのです。

こういった心理的テーマとして近い話題に洗脳があります。洗脳は先のオペラント条件付けと同様の手法によって意思の転向を行うことです。洗脳の好例は北朝鮮による大韓航空機事件の金賢姫さんです。彼女の場合は典型的な条件付けによる洗脳での犯行でした。

この場合着目すべきはその洗脳解除のプロセスです。意思回帰のきっかけが、彼女が幼少期に社会的な道義に基づいた「大事なこと」をしっかりと持っていたということです。これこそが心に刻み込まれた幼少期での「大事なこと」は、不動に近い力を持って人の意思を導くという事実です。

「やりたいこと」や「なりたいこと」といった気持ちは詰まるところ自分が意図する「大事なこと」に導かれて生まれてきます。自分で大事に思うからこそ、それが気になり動機付けになるわけです。そういう点からすると情も知と同様に意の下位概念ということが出来ます。

アンガーマネジメントという技法があります。これは情的にカッとなった時、自分に対して6秒間の鎮静的な意志を持てば怒りは収まるというアプローチです。私は常々思うのですが、確かに訓練でカッとなった時に鎮静させるべく思考が働く様になれば素晴らしいのですが、実際はかなりのハードルといえます。典型的な机上論のように思えます。

知性が起動しなくなるのが「カッとなる」という状態です。それを知に戻すというのですからそもそも矛盾している話ではないでしょうか?

パワーとは何か 私が「大切にしていること」はエネルギーがある

それよりも重要なことは、何故カッとするのか、ということです。単純にいえば「嫌なこと」だからです。では何故嫌なのか。ここに大きな着眼点があります。それこそが怒りの起点なわけです。

そこへの処置がない限り、全てはその場凌ぎ、モグラ叩きが続くだけです。根本原因は何か。それは自分が「大事にしていること」への否定や見下しへの認知反応が表現として感情的な発露になっているということです。

「大事なこと」には見逃せない大きな要素が潜んでいます。人は「大事なこと」といった「思い」には、大きなエネルギーを注ぎ込んでいるということです。そしてエネルギーは必ずパワーを伴うということです。

即ち、「大事なこと」に対してはパワー、自分にとってプラスのパワーが発生するということです。このことは、人はその心根において、物事への判断や行動を全てパワー、そこでの力関係に対する反応に基づいて為しているということを意味します。何故頭に来るかは、自分が「大事にしていること」を馬鹿にされたとか軽く見られたとか無視されたといったエネルギーをマイナスにされることへの認知反応が、感情的な表現で発露されるということなのです。

 

「大事なこと」は「好きなこと」を凌駕する上位概念です。だからこそ「大事なこと」そのものが希薄であったり見出せていない場合、人は意思がない状態で、単純な動物的情動によって好き嫌いで判断したり、それに突き動かされた行動を疑問もなく取るということになります。

昨今の少年犯罪や虐め、SNSなどの誹謗中傷のプロセスを見る限り、こういった背景を強く感じます。幼少期の「大事なこと」への啓発不足が生んだ当然の成り行きを憂えるところです。政府や行政を筆頭とする社会的な犯罪に近い行為とも言及できるかもしれません。

理性的なエネルギーが情動的なエネルギーを制御するにも関わらず、理性的エネルギーの源泉を醸成していないのですからと当然の成り行きです。理性的なパワーはそれ自体に良し悪しはありません。しかし人間の生存本能や価値概念にダイレクトに影響し、その人の意思のあり方や判断の源となり、同時に感情的なエネルギーに作用して反応的行動を方向づけたりその強弱を左右する存在なのです。

10代までの幼少期にどのような「大事なこと」が刷り込まれたのか、理性的エネルギーの源を醸成されたのかは、その後の人生において、引いては関わる対人関係や社会活動において大きな鍵となってきます。

今はそういった「大事なこと」それも社会維持にとって外してはならない「大事なこと」が教育的にすっぽりと抜け落ちてきている、或いはかなり偏った形で為されている社会風潮です。

またくどい話ですが、この領域は20代を過ぎてから違った角度を醸成するのはかなり厳しいということです。「修身斉家治国平天下」などは10代までに意識付けしなければ、例えば「修身斉家」位までが当たり前のように刷り込まれた人が幾ら20代以降に「治国平天下」を仕込まれても、頭で理解して口では唱えたとして、その実際に日常で想起されるのは、結局「修身斉家」までの発想や活動であるのが関の山であるということですね。

余程の挫折的な修羅場や開眼的な経験的刻印でも受けない限り、啓発は無理だと思います。今ある様々な意図的修行などでは到底及ぶものではないということを付記させて頂きます。

本当に10代までの躾的な教育を、昔の父権的な思想での教宣を男女関わらず望むところです。父性が弱体しているならば、社会がその任を担わないと日本は亡国の状態になりかねないと憂いるところです。

幾ら内観しても、メタ認知しようとしても「無いものは無い」。無いものは気付けません。「希薄なもの」は「他に比する深淵なもの」が刷り込まれている限り、それ以上には広がったり深まったりはしないということです。経験的にも「人はそう簡単には変わらない」というのは名言だと思いますね。

教育研修の場においても意思に関する領域は10代までの仕込み次第で、後はそれを復興させられるか、回帰させられるかで、元がない人間を啓発することはまず無理、というのが本音です。

組織の問題の根底にはすべてパワー問題が潜んでいる

さてこのパワーにおける人の反応行動ですが、先に主張したように「人は感情によって反応するというよりもパワーへの認知に応じて、ただそれを情的な形で表現するのが、対立や葛藤の本質である」というのが私、引いては弊社の考えるところです。

その顕著な姿が組織内の様々な問題発生の原因と解決での暗礁や壁の存在です。「あいつが嫌い」とか「上司がうざい」ではなく、「パワー軽視される」「パワーダウンされる」「そしてパワー的にマウントされる」というのが本質で、実際にそうなっていたり、もしくはそれを自分のパワー問題とは云いたくないために、怒りや嫌悪というマイナス感情にすり替えて発露しているだけであるのが現実であるというのが論ずるところです。

ですから様々な組織開発やチームづくりのアプローチが理屈立てられてはいますが、その殆どが実践的になっていません。それもその筈、当然です。みな知的なロジカルコミュニケーションとか相互や状況の感情を感受し合うアプローチに終始するばかりで、肝心かつ本質であるパワー関係の調整(トリートメント)的アプローチに目が向いていないからです。根本原因を避けた解決策に持続的解決策など生まれるべくもありません。

JoyBizではこの人間間の生産的ロスの本質である関係や状況におけるパワー問題、多くの場合ポリティカルパワー問題に目を向けた問題解決アプローチを提唱し、展開していますが、今回のブログではその要点をご紹介したいと当初は考えていたにも関わらず前振りとしての前文の方で大幅に紙面を割いてしまいました。

ということで本論である組織開発におけるパワー問題とその解決へのアプローチは次回に回したいと思います。申し訳ありませんが、皆さん何卒よろしくお願い申し上げます。

 

さて皆さんは「ソモサン」?