• 利他的行為と利己的行為の違いを知ることから少しでも日常をJoyな世界にして行きましょう

利他的行為と利己的行為の違いを知ることから少しでも日常をJoyな世界にして行きましょう

集団で活動する人の本質は利他である

皆さん、おはようございます。

人が群れを作る事によって生に対する自己保存を得て、同時に進化や繁栄を手にしたということは以前にもご紹介させていただきました。100年以上の歴史を持つとある会社の社長が示した「組織の基本価値」の中に次の一節があります。

「人類の進化は『変化への対応の歴史』だが、最も大きい進化は2足歩行し、手を使うことで食を増やし、多人数を養育可能として、それによって行動範囲を拡大したことと、集い群れることから協力状態を創出したことにある。

それによって言葉を手に入れ、伝承を生み出し、チームという力を身につけたことである。協働は要である。協働とは会社、部門間、個人間、固定観念の壁を打破し、俊敏で同時進行で、顧客やライバルといった外の壁を打破することである」。

この一節は、我々人という存在に対して重要な真理を明示してくれています。それは人として生きる哲学の本質は「利他の精神」でなければならないということです。

 

さて、この利他の精神ですが、仏教の教えを始めとして言葉としては巷間でよく耳にするのですが、その本質をきちんと理解している人は案外少ないように思います。そして誤ったままの理解でその考えを推し進め、そのためかえってマイナスの場を作っている人が特に若い人を中心に非常に多く目にする昨今です。

利他的の本質とはあくまでも「自己の損失を顧みずに他者の利益を図るような行動」を云います。その行いは、例えば「親による子の保護や子育て」に代表されますが、時には命懸けの行動となる場合もあります。従って利他の考えは親たる大人の判断行動として一般には認知されています。

これが集団社会における種の維持を得ようとする動物の場合、その個にとっては利益になりそうでない行動であっても、進んでそういう行動を選択する場合も見られます。

例えば、群れの中で見張り役を決めていて、敵が近付いたのに気がつくと警戒音を発するといった目立つ行為を取る、ある意味リスクを伴う行為をすることで他の仲間を守るとか、リーダーが敵に対峙して他の仲間を守るといった行為を取るといった場合もあります。

ここにリーダーシップの源泉が利他的意志であるということも見え隠れしています。

協働作業において利他的行動は顕著です。例えば群れで獲物を追う肉食獣の場合、時に囮として獲物を追う担当と待ち伏せして追われてきた獲物を捕まえる担当を役割分担して任ずる場合がありますが、こういった場合、追う側は獲物を捕らえることが出来ないといった、ややそんな役回りを任ずるにも関わらず、ごく自然に労働分担や分業するのは、利他的行動によって全体が守られるということが代々として経験的に擦り込まれているからとしか思われません。

しかしこのような利他的行動が例え集団を利する行為であって全体益を得る方法であったとしても、この行為が相互の中で一方の利益に偏りすぎるとどうなってしまうでしょうか。それはそれで全体のバランスを崩してしまうことに繋がります。

人の本性はあくまでも個の維持と繁殖でしょうから利他の関係が不均衡に偏りすぎるとどこかで必ず反乱者による瓦解が起きてしまいます。

ですから利他行動というのは、あくまでも相利的行動の範疇こそがその維持的条件になると云えます。つまり互恵的利他行動が基本になります。これを仏教的には「自利利他」と称しています。

自利利他とは利他的行動は環境や条件的な適応度(生き延びるにおいての利益幅)として自分にも利となる行為の範疇で為されるし、適応度としての利のためには利他をしなければその集団や群れ、相互関係は維持出来ないという考え方です。

これは非常に合理な考え方だと云えます。ただ注目すべきは、相互関係はバランスの中にあり、これは固定化されたものではないということです。「人を見て法を解け」というのはまさにこのことです。

大切なのはこのバランスの基点はあくまでも相手から発せられる相互の関係の中にあって、自分中心からの発想ではないということです。

基本は利他であるが、相手を考慮せずにただ一方的に自分を無為に持ち出し過ぎて自らを瓦解させてはならないということで、最終的な自分の利益享受のために相手に事前投資をするといった見返りを前提にした行為ではない、ということです。

利他と利己のとらえ方 個人主義と利己主義をはき違えるな

ところが昨今の利他や互恵関係を見ると後者をもとに活動する人が実に多いのに驚かされます。見返りのために利他を偽装するのは利己的行動の表現の一つであり、とても不快な行為と云えます。

何故ならばこういった判断行為をする人は、前提が利己ですから、よく見ていると自分の得意にならないことには手を触れない、或いはまずは自分にとっての利益になるかどうかを見定めてから計算高く立ち回る、という良いところ取りをしようとする小狡さ、狡猾さが滲み出てくるからです。いわゆる偽善者と云う奴です。

しかしこれも適応度が重要な指針となってきます。どこまでが利己的でどこまでが利他的か、或いはどういった状態を利己と称し、どういった状態を利他と称するのかの定義は何なのか。

生態学、行動学的にはそれを「適応性とか適応度」という形で区分しています。では果たして利他的行動と利己的行動の間、或いは自利と利己の間にある適応度、適応性とは具体的にどういうことなのでしょうか。

生物学的には「生物個体がどれほどその生活する環境に適応しているかを示す性質や値」と定義していますが、生物学なのでどちらかというと物理的能力に寄った概念になっています。

ここではむしろ社会学的、心理学的に捉えて、互恵相互の心理関係や集団状況、中でも所属する集団文化や集団規範のあり様、平たく云えばお互いや集団の中での「握り」や「心理的契約」の性質や状態と捉えた方が合理といえます。

 

この顕著な世界に「個人主義」という考え方があります。個人主義の正式な意味は、国家や社会の権威を否定して個人の権利と自由を尊重する立場とか所属集団での重要性の根拠を個人の尊厳に求める考え方ということですが、一般には集団よりも個人の存在を優先する思想観として捉えられています。

その対義が集団主義です。集団主義は個人の存在よりも集団に価値を置く思想です。

この個人主義という考え方が日本では利己主義と同意に使われる場合が非常に多く見られます。個人主義は大陸での入り混じった民族や宗教的な価値観の中で自分の存在意義を保つために、「自分の意志」という個人を第一義にして人間関係や集団と向き合う考えです。

侵略や政権交代などで生々流転するあやふやな集団的な価値観に飲み込まれて自らの意志を見失わないように歴史的に定着した、まずは「自分は自分」という価値観です。ですからこの価値観の人は他者と互した時、良く自分の考えや価値観を強く主張する行動的特徴を示します。

「人は異なるものであり、お互いを協調させるのはお互いの腹蔵なき主張による徹底した相互理解が基本前提である」といった考えを基調としています。これは一見すると「俺が俺が」の利己主義と見間違う側面を有しています。

日本人は特有の集団主義です。侵略も殆どなく、主権たる国体も何千年と不動でした。政権交代も公家や武家レベルで皇室は普遍でした。そのような島国的で同質的な文化の中で、その体勢を維持させるには無為に争い事を起こすような個人主張よりも集団に帰属した全体的な同調意識が培われてきた価値観が無意識的に根付いています。

これは明らかに西欧や中国のような歴史の中で培われた個人主義とは異質な存在になります。それでも日本人にとっては当たり前な価値観です。

そう、皆さんもお分かりのように個人主義と利己主義は根本が違います。しかし日本人はこれまでの社会文化やそこで育まれた価値観を前提に個人主義を利己主義とごちゃ混ぜにして判断する認知相違を民族的文化として持っていることが様々な歪みを生み出しています。

個人主義的行動を利己主義的行動と判断したり、利己主義的行動を個人主義的行動と合理化したり、もうしっちゃかめっちゃかな状態です。

特に戦後進駐軍の国体の解体を目論んだ欧米化政策によって学校教育などが個人主義基調の中身になったのを機に、この歪みは大きく加速しました。そして今の若者は一気に個人主義のような体裁の利己主義的価値観に偏っていったのが、現代の社会活動や組織活動へ大きく影響しているのは確かなことです。

 

利他や集団を軽視するくせに、他者や集団への依存心は人一倍です。言行が全く不一致になっている有り様は、まさに欧米で施策を弄してきた人たちにとっては「我意を得たり」といったところでしょうが、今後の日本の国家維持にとっては正に国難の時代と云えるのではないでしょうか。私的にはあまり大袈裟でもないと考えるところです。

ともあれ個人主義という仮面を被った利己主義の横行は大きな社会問題です。

利己主義の背景は未成熟な幼児性 発達障害という現代のミッシングディメンション

ところで実はそれ以上に大きな問題が利己主義という世界には存在します。冒頭で紹介させて頂いたように、利己主義とは社会的な活動を主柱にしている人間にとって、人間的成熟としては未熟であることを意味しています。

個人主義は個人と集団のバランス上の立ち位置の話です。その集団がそれを価値観として認知しているならばそこでの個人主義は一定の利他的行動を含んでいます。ですから西欧ではボランティアやチャリティーといった社会的な援け合い活動が一般的で、それらは明らかに利他的な活動に他なりません。

果たして今の日本にそういった活動がどれ位あるでしょうか。そこに真理があります。そう個人主義は成熟した大人の適応性に基づいた選択的行動であり、個々の社会で皆がそのありようを握っている世界観です。

しかし利己主義は違います。これは人間の幼児性を示します。社会に適応出来ていないということを示す指標ともいえるのです。

 

発達障害という世界があります。最近知的障害と同じくらいの社会的な対応問題としてクローズアップされるようになってきました。この発達障害、対人への情緒未発達による適応障害が中核になっていますが、その顕著な行動として疑似幼児性行動が挙げられます。

例えば人からして貰うことには関心があっても人にすることには関心が持てないという利己的行動です。自分しか考えられない。自分がどうして貰えるかが頭の全てで、他者にどうしてあげようかという発想が想起できないという利他に対する心の未成熟さが起こす障害です。

大人行動として普通の対人関係が取れない。発達障害と称される所以です。

人の気持ちが分からない。自分の感情の制御が出来ない。自分の世界しか興味が持てない。といったような按配でともかく他者とコミュニケーションが取れません。面白いのは、幼児性が強いということは一見ピュアに見えるので、時に結構母性の強い女性から関心を持たれるという特徴があります。

ところが次第にメッキは剥がれます。例えば自分に子供が出来てもその子供に親としての関心が持てません。一見関心があるような振る舞いも我が子というよりも愛玩物的な関心で接します。懐くから可愛いであって、無償の愛ではありません。

ですから例え母親が子供に手が掛かっている状況でも、本人は自分中心ですから「パートナーに構って貰いたいのに構って貰えない」しか発想が浮かびません。一緒に育てるという発想は浮かぶはずもないといった按配です。

ですからパートナーの忙しさなどお構いなし。自分の子供なのに子供以上に自分を構えという思考構造で、子供がライバルとさえ当たり前に思う心理はまともな社会心理とは云えません。

ところが現状の殆どの社会的認知は「障害」といった真因に無知なため、初期から対処を誤ってしまうケースが後を経ちません。障害は本人も自意識が無かったり、対処できず麻薬患者のように常習的反応を繰り返します。

ですから少しでも対処を間違えると、幼児性が爆発して感情的に反応したり、時には暴力的行為、そして時には依存先を他に求めて彷徨い行為を平然と行い始めます。まるで迷子の子供のように。

ユニークなのは、社会的には逸脱していても知的には問題ないですから、自己正当化は用意周到で、如何にも相手に問題があるかの如く抗弁したり、自己保身の抗弁には隙を見せようとはしません。一見大人の振る舞いのようですが、これこそ発達障害の人が見てくれは大人になった時、内在する対人的幼児性が引き起こす障害と云えます。

 

上記は男性の場合が主ですが、これが女性になると自分自体が幼児ですからネグレクトや子育て放棄が始まります。酷い場合は子殺しに発展します。

私もニューヨークでこの典型的な人と出会った経験を持っていますが(人間開発プログラムで深層がどんどん露わになって行きました)、意外と身の回りにこういった人、結構いませんでしょうか。

発達障害は病気ではありません。ですからこの瑕疵的問題そのものを全面的にマイナスに捉えるのは大問題です。何故ならば知的障害は十分な保障制度が出来てきましたが発達障害は未だ暗黙的世界に置き去りにされていることが非常に多いのが実際だからです。

利己主義とか幼児性が強いといった表層上の捉え方だけでなく、もっと社会問題として皆が関心を持つ必要があります。

 

ところで、最近こういったことによるのか不倫ものとか親の虐待事件が急増している感がありませんでしょうか。それには先天的障害よりも後天的弊害が台頭してきたことに着目する必要があります。

実際最近は戦後の経年による精神的教育の未発達者や親のネグレクトなどによる後天的発達不全者が激増して来ています。こういった人は先天的な障害というよりは後天的な弊害なわけです。意思力や感受性が未成熟な発達状態のままに放置された人といえます。

知的な領域では最近「ケーキが切れない非行少年たち」という名著が出ましたが、これは思考力が幼少期に教育されなかったため意思力も脆弱で、後天的に発達障害同様の状態となった若者による現代の非行の深刻さを描いていますが、上記のような幼児性などの場合はその感情版、対人関係力版と云えます。これを「愛着障害」と称している学者もいますが、言い得て妙です。

先天的発達障害と後天的愛着障害の見分けは難しく、一般には判断は困難です。ですから決めつけは危険です。しかし現象としては両者ともに同じような行動を取ります。一つヒント的には先天的な場合、片付けられないといった多動性による注意障害なども併せも追っているケースが多く見られるといったことでしょうか。

何れにしましても、私たち的にはそういったことが現代社会では日常的に起きており、それがそういったことに対する無知が故の無関心さから、対応が歪んでしまっていたり手が遅れたりして、本人だけでなく周りをも巻き込んだ形(例えばカサンドラ症候群など)で加重的に心の闇や不幸な状態を隘路的に作り出しているのだ、ということを知っているだけでも、こういった問題への事前準備が出来るようになると同時に、もし不幸に遭遇しても、早期の手当てが出来るということで、着目しておいて損はないというのが、今の段階での私の見解です。

 

さて皆さんは「ソモサン」?