• 戦後の日本人の思想観がもたらした若者の思想力を通して認知相違や国際競争力の今後を考える

戦後の日本人の思想観がもたらした若者の思想力を通して認知相違や国際競争力の今後を考える

認知相違のカギは自分を変えること

ここ2回で「対人関係の関所」という概念からみた「認知相違」について論じてきました。「認知相違」とは自分で認ずる観念と他者が認ずるが異なった時の生じるお互いのわだかまりや感情的な嫌悪、時には憎悪に至る負の心理的反応を云います。

例えば対人が苦手でつい塩対応してしまう人がいます。こういう人は悪循環によってどんどん対人への苦手意識が加速することになります。人間はその根っこに「好かれたい」という基本欲求がありますから、それが満たされないと自己重要感や自己好感が下がり、発想や態度がどんどんネガティブになり、それがまた自己肯定感を下げ、そういう自分に対して自己防衛心が働き始めて、誰に対しても警戒的になったり攻撃的になったりしていきます。

時には無関心を装う人も出てきます。また多くの場合、こういった劣等感は負の感情を増大させ、すぐに感情的になったりもしますから、大変扱いにくい厄介な人としてそこから醸し出される外見や態度を好意的に感じるはずもなく、普通の人ならば当たり前に敬遠することになります。

こうした状況はますます負の連鎖を招くことになり、一層悪循環が加速していく訳です。

 

もしこの悪循環から抜け出したいのであれば、まずは自分の認知の歪みに気付き、最初は例え演出でも他者からの認知を変えてもらう様な外見や態度を構築すれば良いのですが、劣等感の強い人はそれ故に自己正当化という防衛心が先に立ち、否定的な感情が思考を支配して隘路から容易に抜け出せないのですから始末に負えません。

時には劣等意識をカバーしようと自分として正当とする優等意識の領域でそれをカバーしようとする人がいます。例えば人から好かれないことや人の輪に入れないことの寂しさを勉強の成績によって有能的に認めさせようとするとか、社会的地位によって力で捩じ伏せようといった行動をする人がいます。

しかしこれは自分の本来の劣等領域を埋め合わせるものではありませんから、幾らやっても徒労に終わるのみです。決して満足は得られません。人に好かれたいのであれば好かれる行動、つまり外見や態度をするべき努力に傾注すべきなのです。それ以外に自己肯定感を高める方策はありません。歪みを歪みで補うことはあり得ないわけです。

 

ともあれ外見で損をしている問題をそれ以外でカバーしようとしても、そこに認知相違がある以上それは虚しい行為であるということに早晩気付くことが大事です。それが真のポジティブ発想といえます。流石に正せないものや治せないものは無理しても仕方がないので一定の妥協は必要です。

しかし本当は努力で正したり治せることを自分自身の怠惰やズボラさで取り組もうとしないのは言語道断、同情の余地もありません。でも世の中では、意外なくらいにこういったことで劣等感や自己否定感を持って認知を歪めている人は大勢いるのが現実です。本当に勿体ない話です。

この様に対人間における認知相違が生み出すマイナスや損失は、対人間だけの問題ではなく、自分との対話においても人の心を疲弊させ、闇に引き摺り込んでしまう看過できない問題ですが、今の日本ではある意味人生の過程の中で病んだ人の問題以上に、社会教育の歪みが無教養としての無知を生み出し、そういった人が大量生産されることから起き出している問題の方が大きくなってきている様です。

戦後日本に施された思想「排除」教育

元より日本は、集団主義の中で謙遜や和の心を重んじて自分を必要以上に下げてしまったり、他人に同調し過ぎてしまったり、空気を読み過ぎてしまう傾向があると思うのですが、あくまでもそれは限度の問題です。

あるレベルまでの和の心による相互の配慮は、国際的にも日本のパフォーマンスを優位に立たせてくれた原動力であったことも確かな事実といえます。

日本は海外のような重篤なヘイト問題を起こすような激しい感情意識ではなく、比較的穏やかな精神文化で推移してきた歴史がありますが、これは日本が単一民族に近い少数民族であったからというだけでなく、やはり和の心や謙遜によって相手を立てることを基調とした思想が、相互が持つ認知への関心を高め、相違が起き難くする配慮の文化を醸成してきたことも大きな要因ではなかったかと思います。

 

アメリカや中国の様な人種の坩堝のような文化の中ではこの思想は真逆で、他人がどう思っているかなんて、そんなことどうでも良いという考えが基本といえます。ですから米中においては「いかに自分をハデに見せられるか」「どうやったらもっと目立てるか」が最大関心事と言っても過言ではありません。

何故なら、莫大な人口を抱える複合国家に生きる人々は圧倒的に弱肉強食な世界であり、特に競争が激しい都会では、自己主張ができない人はすぐに他人に蹴落とされ、社会に淘汰されてしまうのが前提になっているからです。

それ故ヘイト意識は生きる性として染み付いている面があります。弱者救済などといっていられない逼迫さを皆が抱えて生きているのです。ですから自分からグイグイ行くのは、日本では「他人に迷惑をかけてしまうのでは?嫌われるのでは?」と思われがちですが、それがないと生きていけないアメリカや中国では、「拒まれてもいい、万が一良い方向に行く可能性があるのなら、黙るのは損をしているのと同様だ」と考える傾向が強いのかもしれません。

ところでこの思想は、戦後日本が米国に思想教育されたときに無抵抗なままに人知れず侵食されていった認知観念でもあるのです。進駐軍は終戦直後特に宗教と教育において西洋思想を浸透させるべく画策したのは事実です。国体の破壊など日本の精神意識の改造を特に念入りに行いました。それほど日本人の精神性を脅威に感じたのでしょう。

以後日本人は経年を通して謙遜や和の心といった精神教育、道徳教育が忌諱される流れとなり、日本人はどんどん西洋文化に傾倒した思考性に靡いていくことになります。これが高度経済成長による合理主義の台頭から拍車が掛かっていく事になります。

昭和40年代に日本は「エコノミックアニマル」と諸外国から蔑まれる位まで精神性を失っていきました。学校では成績第一主義、偏差値主義が前提となって人間性は度外視される事になります。

そしてそういった競争の中で勝ち残ったエリートが政財界を牛耳る様になって、ますます精神的な欠陥者が権力を持つ様な構造が出来上がり、誰もが代を重ねるにつれてそれを問題視もしなくなっていきました。その骨頂が一部のIT領域での成り上がり経営者たちです。今や若い人の誰しもがそういった若手経営者に憧れを持ち、利己主義、拝金主義が第一義とされ、人への感謝やお互い様意識が欠落した人材が群雄し始める有様です。

ここにDINKSの勃興により一人っ子の続出が拍車を掛けます。こうなると家庭教育もなくなり、歪みを加速させていく一方になります。とことんまで甘やかされ、幼少期に対人で鍛えられていないので、人への配慮や気持ちの大事さは米中のように邪魔な意識と認知される様になり、集団力の要である認知相違への関心などどこ吹く風といった状態になってしまいました。

まず持って人への関心や人の持つ感情の力に目が向かない、意識下に入らない世代がマジョリティ化し始めたのが現代なのです。もはや多勢に無勢。私など「何言っているのオジサン」といったところです。

組織行動と個人行動 ~個人主義と利己主義をはき違えるな~

しかし、一方で組織という存在が軽視される状態に陥ってしまいました。集団の凝集性、集団のシナジーといった人間独特の能力やパフォーマンスがダダ落ち始めているのが今の日本です。

米中における個人主義は年季も入って組織行動と一定のバランスを持てる力量がある思想にまで成熟しています。例えば米軍など、普段はガムをくちゃくちゃしていて、一見統率が取れていない様に見えても、いざとなった時の上位下達や統制は絶大です。

彼らの個人主義や主張は、組織集団での行動ときちんと整合できる大人な思想感なわけです。一方日本は俄仕込みの主義主張です。日本の若者は個人主義と利己主義の見分けもつきません。

討議集団と執行集団との区分もできないお子様での思想観で、もう好き放題の状態です。この結果は両者がぶつかった時に露呈する事になるでしょう。

 

ところで戦後の進駐軍に植え付けられた中途半端な西洋教育での思想による日本のお子様的な主義主張は、キリスト教的な独自の信念に裏付けられた哲学観もない思想ですから、軸がなく、それが科学といった本来は未だ究明までいっていないような領域でも一見論理的と認知すると無防備な様相を示す愚かさにも反映されています。

例えば、日本人はどうも機械を過信する傾向が恐ろしく強い習性があります。ですから人間の言ったことは信じられなくても、相手がコンピュータだとすぐに信じてしまうといったことが多々あります。

そのコンピュータを作ったのは他ならぬ人間であり、コンピュータだって人間同様間違いを犯すのは明白なのですが、人はそれを置き忘れてしまい、盲目的に機械を信じてしまうのだから情けないものです。

もっと身近な例は、テレビのニュースです。原稿を書いているのは人間なのに、テレビという機械を一度通ってしまうとそれをすべて信じてしまいます。でも実際隣のチャンネルのニュースを見てみると、同じ事件でもまったく違う捉え方をしている場合もあるわけです。

これは、新聞、雑誌などの活字媒体でも同じことです。 何らかの媒体を通すと途端に科学や論理として丸呑みするわけです。こういった論理信仰は学校による正解探し、他者が考えた論理を紐解くだけの力が賢いという稚拙なレッテル貼りに疑問も持たずに拘泥してしまう真の頭の悪さに起因しています。

本当の賢さが何かが分かっていないのです。だから個人主義と利己主義の区別もできないのです。想像力や信念もないのに学歴で自我地位を満たす歪んだ社会思想にどっぷりと嵌った人が社会を牛耳る様になっている結果です。そういう輩が上だから誰も疑念に感じないわけです。

 

加えて進駐軍の教育による確固たる思想観の喪失は人は言い切られることに弱いという事にも繋がってきます。例えば、映画の「2001年宇宙の旅」に出てくるコンピュータHALのように「ミスを犯すのは人間です。9000型は完全無欠です」なんて言い切られてしまうと、日本人は「そうかもなあ」なんて納得してしまう人があまりに多いのが実際です。

そうしてマスコミのブラフや先入観だらけの思い込みの記事を鵜呑みして、調子こいてSNS攻撃したりするわけです。 それこそエビデンスもないのにあやふやな権力や権威を盲信して脱兎の如く走り出すのです。

もしもここから思想的な教訓を得るとすると、今の日本人を説得したいのであれば、機械を通した資料をできるだけたくさん用意して、自分の信念を言い切る。反対の受け手側としては、機械を妄信しない、一部からだけの見方には偏らない、言い切られても安易に信用しないということになるのでしょうね。

認知相違の世界はとてもとても深いのです。

 

さて皆さんは「ソモサン」?