• 対人への話し方に現れる人の感情の在り方と認知相違で生じる損失を考える

対人への話し方に現れる人の感情の在り方と認知相違で生じる損失を考える

予告させて頂いていましたが、今回は「対人関係の関所」において「外見」同様に大きな影響を与える「話し方」について紹介をさせて頂きます。

対人関係の関所には「外見」「態度」「話し方」と段階があるわけですが、今回「話し方」に焦点を当てるのは、必ずしも「態度」を軽視しているわけではありません。

誰しもが多かれ少なかれ持っている「対人優位」という本能的な欲求において「態度」も大きな影響を及ぼすのですが、「認知相違」を生み出すのは「話し方」の方が影響が強いということと、態度と話し方は日常的にはセットになって醸し出されることが多いので、今回は特に話し方に力点を置いて説明をしようと考えたところです。

人は論理の前に感情を感知する ~話し方は感情伝播に直結している~

態度も話し方も共に人の「感情」に働きかけるのがポイントになります。普段はあまり意識しないことですが、人は論理の前に感情に反応するのが性になっています。

「あの人が云っていることは理解できるけれども、あの云い方は面白くない」とか「あの人は確かに良いことを云っていると思うが、あの人とだけは一緒にやりたくない」といった不平の声はよく耳にすることです。

にもかかわらず感情の持つ影響力を、日頃においてどうしてこうもコミュニケーション上で軽視するのでしょうか。

 

「知情意」という心を構成する3つの要素については古くはプラトンや近代哲学の祖と云われるカントなどによって語られるところですが、「感情」と「論理」はその中で両極に捉えられる概念と云えます。

心理学的には人間の心の生成過程において、集団社会で生き延びるための意思疎通の手段としての発達レベルとして捉えられています。

もっとも原始的な手段としての体動、行動から感情表出を経て思考の形成に応じて言語と云う様に成長進化するわけですが、これは論理的なコミュニケーションの方が感情的なコミュニケーションよりも高度な手段であるということを意味していることになります。

だからでしょうか、人は感情を話題に乗せると稚拙と捉えられると思うのか、感情的な側面を避けたやり取りをしたがります。

しかし現実のリアルステージでは、先にご紹介したように、その対立やすれ違いの殆どは、論理の前段階での感情的な摩擦が起因したやり取りであるという矛盾が起きているのが実態なのです。

論理の方が感情よりも発達段階としてより高度なコミュニケーションレベルであるのは確かなことですが、見逃してならないのは、それは詰まるところ感情の方が生理的な反応としてより瞬発的に発動されるということを意味しています。

人はポジにせよネガにせよ論理よりも感情の方がダイレクトで反射的に疎通する存在であるわけです。ですから時には想起する論理構成自体が喚起された感情の流れに左右されるという真理を絶対に看過してはいけません。

そしてそういった感情の起伏やポジネガが最も顕著に現れるのが伝えるときの声のトーンや抑揚とか、話し方、云い方、言い回しといった物言いの在り方なのです。

対話において形成される「認知の在り方」の過半数を支配するのは、話の内容ではなく話の伝え方といえます。人は内容に入る前段階でその話を前向きに受け止めるか反発するかシャットアウトするかを物言いの在り方で決してしまいます。

それ位大きな存在である物言いを対決状態になった話題の解決から除外するのはあまりに愚かな行為です。それを知的と認ずるならば大きな間違いです。昨今の人は教育弊害によって静的な知性での人間評価に偏重するあまり、人の持つより本能的で情性となる動的領域に対して無知蒙昧になってしまった感があります。

 

事実、JoyBizでは「認知相違」という人が持つバイアスによって生み出される様々な損失や弊害、特に対人関係やチームづくり上での障害を調整したり是正したりすることを支援の核としています。

そしてそれを通して個々人や集団に内在するエネルギーをポジティブ化したりパワーアップすることを仕掛けていますが、本当にやればやるほど「認知相違」の中にある「認知の在り方」から引き起こされるコンフリクトという「思考レベル」での問題以上に、反射的に発せられる「感情発露」の在り方や漏れ出してくる「言葉遣い」の在り方、つまり物言いによって生じた「気持ちレベル」での反感や嫌悪、怒りといった心理的乖離での問題が、対話以前で対立構造を生み出してしまう情けない状況を幾度となく見てきています。

もう少し上手く云えば良いのにとか、もうちょっと相手の立場に立てば良いのにとか、場の状況を読めば拗れないのにといった、本当にこの人たちは賢いのだろうか、どこに頭を使っているのだろうかといった状況が至る所で起きています。

「自分は頭がよい」と自負する見苦しいエリートたち

良く「自分は頑固だから」とか「結構自分は自らを正しい」と思いがちであるという様なことを一見自重気味に発言する人がいますが、全くもって愚の骨頂です。これは、私は本当は鈍くて使えない人間です、と吹聴している様なものです。

私の経験ではこういう人は結構高学歴の人に多い様に思います。それでも社会的に問題が起きないのであれば良いのですが、こういう人は総じて人望に欠けたり、リーダーシップが空回りしているという特徴がある様です。問題が起きないと言ったのは、前回でも登場願った学者さんのように論文を書いたり、研究するといった個人芸が主業の人のように人と関わることがそう重要でないのであれば、と言った様な意味合いです。

一方ビジネスマンや集団社会で影響をすることが問題解決の重点となる様な領域を主業とする人にとってはそうは行きません。人と合していけなければ無用の長物と化すだけだからです。

大体において先の言のような愚かなことを自慢する輩は、学生根性が抜けない人、学校秀才としての栄光から脱却出来ない人です。こういった人の思考の根底は「論理的な勝ち負け」を中心とする議論する力が才能だと思い込んでいるからです。まさに社会的な「認知相違」です。

社会で求められるのはまず「柔軟性」です。何故ならば社会で重要な力は「他者に影響する」ことであり、「他者を動かす」ことだからです。それも相手が好んでポジティブに積極的に動いてくれる関係づくりが出来る力こそが第一義だからです。

私はエリートと言われる人や自分は頭が良いと調子づいている人はこの道理が全く腹落ちしていない様に思います。面白いのはエリートと言われる人は若い時には持て囃されてあまりこういったことに対して指摘も受けませんし、実際の現場で痛みも受けません。

学歴の御威光がそこそこまでは効くからです。でも社会で第一線的になってくるとそういった状況は一変し始めます。40代ともなると御威光は学閥やエリート間でのネットワークくらいに限定されてきますし、またその中でも今のネットワーク力がないと篩(ふる)い落とされていくことになります。そうなって気がついても後の祭りです。

私の友人の中でも高学歴出身で、自説に拘ったり、人の助言を軽視したり、プライドのためか聞く耳をもたなかったり、なんでも論理で狭い情報系の中で分かった様な気になり、全く行動が現場の影響力に反映せず、リーダーシップも発揮できない人がいましたが、上になっていくに従って、引っ張ってくれる人もいなくなり、下からも支えられず、孤軍奮闘状態に陥った人が幾人かいます。若い時は嘱望されたのに残念な話です。

正直学者でも状況は同じだと思います。人は人にポジティブに認知され、受容認容されてナンボです。頭が良いと幾ら自我礼賛したところで虚しい話です。人は有能であっても無用では何ともなりません。無能でも有用な人の方が重宝されるのです。

何れにしても、テレビなどを見ていても、頭が良さそうな人が自説に拘って言い争いをしているのは時に滑稽なものを感じますが、その殆どが口の利き方が分かっていない人が多いのが尚一層滑稽さを助長させるところです。

大柄な物言い、決めつけ、ネガティブな批判、時にバカにしたような言い方、慇懃な態度、投げ捨てるような言い回し、冷たい目線、よりレベルの低いところでは、感情に流された罵倒やひたすら喋るだけで人の声が耳に入らないといった按配で、そこには知性のカケラもありません。

本来議論や対話とはお互いの知性を掛け合わせてより高度行で的確な問題解決を導き出していく過程です。今のテレビ、顕著なのは政治家ですが、その片鱗すらありません。皆が内容よりも物言いに反応し感情的にプライドの気張り合いをしているだけの見苦しさ。

これが社内の他部門との関係や上司部下の関係であったならば、もはやその組織の未来は諦めざるを得ません。

知性とはクールさではありません。穏やかさと謙虚さです。そして他者に率先して耳を傾け、知性を取り込み更に自分を高めることから様々な問題解決の精度をあげていく所作の中にあります。

対人感受性と対状況感受性を磨くことが認知相違調整の第一歩

認知相違を是正する第一歩は、まず自らの感情を常にコントロールできる様に対人的にも対状況的にも感受性を磨き、克己心を強めることです。

対人感受とは文字通り「一対一の人間間における感情や認知の在り方を感じ取り、相手と良好な関係を作り出す心の働きです」。人は誰しも自分に対してポジティブであり、かつポジティブでありたい存在です。

当然自分をポジティブにしてくれる人や状況に対してはポジティブに返してきます。しかしだからといってそれは相手に睥睨する訳ではありません。知性においては相手の知識をさることながら、自分の問題を解決するために相手と関係を作るのですから、自分の知識も呑んでもらって知識を掛け合わせて融合しなければ意味がありません。

時には知識が衝突することもあるでしょう。しかし異なった角度からの知識の融合こそが新たなる知識を創造するのが常です。それには衝突を避けるわけには行きません。ここでポイントとなるのは、本来知識にポジネガはないという事実です。

ポジとかネガとかはあくまでも感情レベルでの存在だということです。重要なのはせっかくの知識が前段階でポジとかネガの感情情報に包まれて相手に伝わってしまうということです。それを是正するにはどうすれば良いでしょうか。

簡単なことです。ポジティブな態度、ポジティブな反応、ポジティブな言い回しと付帯する感情情報をポジティブにして相手と接したり、伝えることです。内容までをもポジティブに相手に合わせると人によっては図に乗る低脳も時にはいますが(かつて私の部下にもそういうのがいました)、内容はあくまでも論理的に自説をエビデンスベースで提供しながら、物言いはポジティブに拘るのです。歩み寄る対人能力をもっともっと磨くことによって。

 

さて状況感受は、対人感受とは少し趣を異らせます。時には対人感受と相反する時もあるので取り扱いには注意が必要です。状況感受とは、場の空気を読むということです。私は人と接する時に二人っきりの場合と集団の中での場合の時には態度を変える時があります。それはその時に求められる影響力をうまくコントロールして場自体が持つ問題を上手く解決に導くためです。状況感受の場合は時に敢えてネガティブを演出する時もあります。場を締めるに求められる必要悪ということも現場ではよくあることです。

ですから、二人っきりの時にはフレンドリーであったり対等ですが、他者がいるときは統制的にする時もあります。これは逆の場合もあります。敢えて従属的に振る舞う時もあります。相手を場の中で持ち上げたり、エンパワー(力付ける)必要がある時にはそう振舞います。

これは演出の論理で動いているのですから、特に屈辱といった話でもありません。しかし時にそれを勘違いしてしまうそれこそ状況感受のない人間が相手の時は閉口する時もあります。

まあ人を見て法を解いていますのでそうそうあることではないのですが、どうしても場がそれを要求する場合は渋々やる時もあります。このように状況感受は演出ですから周りとの阿吽の呼吸が重要になります。特に掛け合う相手方との信頼は必須と言えます。

この状況感受に対して鈍いのがエリートとか頭が良いと自認している(本当は大きな勘違いをしている)人に多いのが難儀な問題です。周りからチヤホヤされ、対人での訓練や修羅場を知らないので場や状況を読むという広範囲な視野情報に基づく知能が育っていません。

モノやコトといった静態には強いがヒトという動態が分からない知能です。専門用語ではアビリティに対するコンピテンスと称しています。個人に内在する力(例えば計算力など)に対して人との間で発揮される力(のる、合わせるなど)といったところです。こういった人は場が読めません。私的には漫才が出来ないと言いますが、これはリーダーシップのような影響力を要する時には最悪な状況を生み出します。

 

先般も新しく任命されたリーダーが本当に不安そうな態度、顔色で「どうなるか私も不安です」と挨拶する場面に出会しました。自分として率直さの論理で言ったのだと思います。こういう人は上からの統制的な行動が持つ意味も方便もわかっていません。

これまでも下と同等意識で下から目線だけで組織を見てきたのでしょう。自分が上の立場になって不安なのはその人個人の問題です。しかし部下からすればそんな人がリーダーになったとしたら溜まったものではありません。それこそ下の不安はマックスになります。

こういった人が状況感受がない人の典型です。ここは演出の論理で「任せておけ」と嘯く必要があります。本音は同僚の前で溢せば良いことです。対人が率直さだからといって集団の状況では演出を発動しなければならない局面などザラにあるのです。

こういうことは学校でも教えませんし、テストでも出ません。学校秀才が社会的に優秀かは軸が異なります。また自分が頭が良いと思っている人は、どの軸で言っているのか、早めに気付くことが肝要です。

ですから、私は「自分は頭が悪いから」ということを自虐ではなく謙虚に自認している人を最も尊いと見ています。そういう人は未来や自己成長に対して謙虚で、良い意味で貪欲だからです。

私も奢ることのないように常に内観して自分を警戒し続けていこうと自戒する日々です。人間幾つになっても修業だと思う今日この頃です。

さて皆さんは「ソモサン」?