• 対人関係の関所というセオリーから認知バイアスと自己改革を考える

対人関係の関所というセオリーから認知バイアスと自己改革を考える

新入社員研修で必ず教える内容に「対人関係の関所」というのものがあります。これは「外見」「態度」「話し方」「内容」という順番で人は相手のフィルターを掛けて判断するので、人と接する時は注意しようといった趣旨ですが、意外な位にこれを得心出来ていない浅慮な人が多いものです。

特に最近ではそういう人が増えてきたようにも思えます。ここには大きく2つの主題が隠れています。一つは人の本性に眠る基本欲求の中の「自我地位」がもたらす影響。そしてもう一つが「認知相違」がもたらす影響です。

 

自我地位へのこだわりと認知相違の影響

自我地位とは集団の中で生き残るために他者よりも優位に立ちたいという欲求です。人は誰しも相手よりも優位であるという等位感覚を持っています。対人関係の関所はこの感覚を大いに刺激します。

まず人は相手を見て「自分は相手よりも上位であるかどうか」また「自分は上位に扱われているかどうか」を判断します。しかしそれ以上に「相手は自分と同じ土俵で対応できる存在かどうか」を強く認識します。

もっと高度になると「相手は自分と同じ土俵であると外に発信しても良いか」「外に発信した時により多くの人に受容され、応じて自分の価値も高まるか」まで考えます。その時の順番が「外見」「態度」「話し方」「内容」なのです。

 

この道理を舐めて損したり失敗する人を多く見ます。ビジネス界では対人関係的でなければ生業が成り立ちませんので、こういったことは一定の常識となっています。

それでも先に述べたように社会人基礎力の教育不足や現場訓練の不足によって特に若い人を中心に無知無教養による損失が起き始めていますが、学者のような内包的な世界に生きる人はこういうことに無頓着で本当に勿体ないことになっている人をよく目にします。

ここに認知相違によるバイアスが加わると話は更に込み入ってきます。認知相違は以前も紹介しましたが、本質として良し悪しが問えない場合が多々あります。しかし損得でいえば明白なこともあります。それはマジョリティの持つ多勢に無勢といった力です。

集団的な自我地位によるバイアス(偏見)ともいえるかも知れません。こういった意識が働くなかでは正論は簡単に排除されることになります。

 

例えば男女差別です。その中で最たるものはやはり外見でしょう。男性で外見を問われるケースはそう多くはありません。一方女性はどうでしょう。表向きは男女差別反対と云いながら、行動では美醜で動いているケースは幾多とあります。世の中は常に社会的倫理と経済的論理で相克しますが、動物的性(さが)、「人は衣食足りて礼節を知る」として人の多くは目先の経済的価値に靡くのが普通です。そして大勢を制するものが道理となる、「勝てば官軍」というのが現実といえます。

実際中身は無いのにただ美的というだけで業界的に登用されたり、マスコミに持て囃される人は多くいます。私の業界でもとある外資系のメーカーで人事系にいて、ご自身で開発できる力があるわけでも無いのに、その見栄えで学者たちから重宝がられ、どこにでも顔を出して広告塔的に登壇する方がいます。

反対に本当に研究して開発しているにも関わらず、見栄えで損している方もいます。これは男性でもありますが、女性の場合は圧倒的です。その時、正論を吐いて通るのであれば通したいところです。でも現実はそう容易い世界ではありません。

実際海外ではそういった容姿が部下に影響するとして、暗黙裡に肥満などを管理職への登用条件としてみている組織もあります。

韓国などはそれが非常にリアルで整形などが平然として行われる文化になっています。まあ整形は別として自己管理できる領域はその人の真剣さや真摯さもあるので一概に正論を吐いてもなかなか通用しないのも確かなことです。

こういったことで主に男性サイドで強く取り沙汰されるのが「学歴」でしょうか。その人の人生の価値が20代前半で決めつけられます。また日本の場合専門性ではありません。学部ではなく学校です。

この集団認知によるバイアスによって苦労を重ねる人はかなりの数に上ります。私はこれを心の外見と称しています。外見には見える外見と見えない外見があるというのが私の社会の捉え方、それこそ認知バイアスです。

京セラの稲盛氏などはそれによって若き日に実際に実害にあったことを赤裸々に認めていらっしゃいますが、そういった書籍がベストセラーになっても一向に着目されたり是正される兆しはありません。

それ位認知相違やバイアスというものは根深いし、価値観ベースでの擦り込みというのは「まるで呼吸の如し」レベルに突き刺さった存在です。まして認知が人のアイデンティティとして存在する限り、全く無くすことは不可能な話といえます。

ダイバーシティ&インクルージョンを語るときにこの真理を吹っ飛ばして幾ら正論を振りかざしても決して問題解決には繋がらない、というのは確かな命題なのです。まずは「ある」という認知から進める以外に手立てはないといえます。

 

対人関係の関所に流されるのではなく利用する

さて今回は対人関係の関所でした。とにかく人は最初に外見で判断し、そこで拒絶すれば話は後には進まないということです。

そして更に人の心理にはそこに「第一印象」という判断基準があるということが重なってきます。

第一印象に関して以前に取り上げましたが、端的にいえば「人は外見で第一印象を持ち、そこに基底としての認知バイアスを構築する。そして以後はそれを基軸にあらゆることを論理ではなく感覚的に捉え、論理は殆どが後付け的に組み立てて思考される存在である」ということです。

ここに「大勢が好ましく反応する認知に対しては、思考力が弱い人ほど鵜呑みにしがちで、それが人生的に初期設定された認知バイアスに則ったものであれば、むしろ積極的に受け入れようと反応する」という性質が加わるとバイアス思考が完成します。

外見を端緒とする対人関係の関所とはそれ位強く深く人の行動や人間関係に影響を及ぼす存在ということです。

 

はてさて、ではどうすればこういったことから生じる損失を低減することができるのでしょうか。厳然と存在する認知バイアスや自我地位欲求といった世界は払拭できません。ならば自分を調節して、少なくとも損失を最低限に抑える努力は行ったほうが得策である、といったことに帰結することになります。

しかしここで気をつけたいのは、苦肉の策としても全面的に大勢の流れにおもねらざるを得ない、といったことではないということです。巷には大勢の力やうねりを前提にした自分を流れに任せるような姿勢の人が、如何にもしたり顔で「対人関係の重要さ」を語る場合があります。

それこそが正論の如く立居振る舞う人です。そこにはその人のアイデンティティは微塵もありません。そして間違いないことは、それはあくまでも対処療法、身を屈めて嵐が過ぎ去るのを待つとか大勢に流されることで一時を凌ぐといった一過性の所作であって、そこには全く論理がなく、抜本的な問題解決には繋がらないということです。

「流される」のと「泳ぐ」のとでは全く話が異なります。こういった「流れるまま」「流される」ように対人関係に拘る人は、邪論であろうが愚策であろうがその場を取り繕う思考に支配されて、とにかく葛藤を回避しますから問題がある場合、それは先延ばしどころか経過の中で更に悪化する状態を引き起こすことが多々です。

全くもって保身以外の何者でもないのですが、寧ろそれが自分をさらなる窮地に追い込むことになっていきます。それすらが認知できないのは愚の骨頂といえます。非常に下品な行為です。当然品格の高い人ならば、そんな愚かな人と進んで交わろうとするはずもありません。

ともあれその場の気分の良し悪しや保身が先立つ目先の人たちに逆境や乗り越えるための壁に取り組む胆力や体力があるはずもなく、目的意識を持つ人も稀有なところでしょう。

ですから「類は友を呼ぶ」かの如く、思考力も弱く胆力もない集団は、ただただ安楽さのみを追求するわけですから、それはそれでつるみやすく容易に一種のマジョリティとなって社会を疲弊させていくのが社会の悲しいところですが、それに乗っかって自分をどんどんと腐らせていくのはもっと悲しい人生だといえます。

そうしてますます自我地位に関する劣等感を募らせ、防衛意識の拘泥する人の見苦しさは息が詰まるところです。避けられないからといって負の先頭に立つことで自分の優位を満足させるのはあまりに情けない生き様といえましょう。

そう、流されるとはそういう行為です。泳ぐとは体力が入ります。目的意識が要ります。社会のうねりや負のバイアスでのマジョリティという流れでは胆力が体力に当たります。

孤高の狼として遠吠えするのも自由です。正論を吐いて事態が変わらないのを嘆くのも人生です。

しかし実態として何らかの動きを起こすには、問題解決に着手するには自ら泥に塗れる覚悟が必須です。そしてマジョリティの川に飛び込んで、流されるのではなく、泳ぎ切ってマジョリティの中で一定の認知を形成するのも賢作といえます。その中で自分を中心とした流れを作り出せばそれは凄いことです。私は稲盛氏はその一人だと尊敬しています。

私もこれまで様々な意見を弄してきました。でも知名度をはじめとして社会のバイアスが立ちはだかり、心の外見によって内容までたどり着けないことが多々です。同じことを話していても大学の先生というだけで認知が最初から異なります。

でもそれが社会のマジョリティならば、それを打ち崩すべく努力するだけです。知恵を働かせるだけです。その時一番思うのは「まずは隗より始めよ」ということです。出来ることはやる。出来ることから始める。出来ることから目を背けない。

言い訳したり論点をすり替えない。認められると分かっていることにはキチンと対峙する。出来ることや理解され易いことを面倒だとか苦手だとかいって、出来もしない、出来る可能性の難しいことに論点をすり替えて、結局は出来ないことへの言い訳をする人が一杯います。

そのような根性や姿勢の人の声を聞く人が何処にいるでしょうか。多少の愚痴は構いません。姿勢さえ伺えれば寛容に見てくれる人はそこら中にいます。しかし歪んだ姿勢のひとを応援してくれるような暇も余裕も社会人で持ち合わせている人はそうはいません。重要なのは人に甘えない姿勢です。

不思議なもので、そういった姿勢や考え方が真っ先に出てくるのが外見であることも確かなことです。対人関係の関所、なかなか侮れないセオリーです。新入社員用の話ではありません。初心忘れるべからずですね。

 

さて、次回は二番目の「態度」もさることながら、「話し方」についての認知相違についてコメントしてみたいと思います。

最近報道などをみていると、対立する2つの見方において「内容」への認知相違もさることながら、「話し方」が感情的なバイアスを生み出して、端から「内容」にバイアスを持ち込んで、そこにある嫌悪や怒りをベースに論を展開するにも関わらず、誰も「そもそも物言いが良くないから、こじれの原因となった」という視点をふっ飛ばして論戦しているケースを至るところで目にします。

それにも関わらず誰もそこには触れないのです。何故でしょうか。それ故か「言い方」や「口の利き方」で得をしている人や結論が大きくずれた取り扱いになっているケースが横行している憤りも感じる場合があります。

そういった「話し方」といった感情的な関所について取り上げてみたいと思います。何卒よろしくお願い申し上げます。

 

さて皆さんは「ソモサン