• ネガティブ・アプローチからポジティブ・アプローチへの認知転換が組織開発の入り口となった時代

ネガティブ・アプローチからポジティブ・アプローチへの認知転換が組織開発の入り口となった時代

先週は「組織道」のエントリーということで結構な長文となりましたので今回はコンパクトに。

先週の終わりにおいて、ポジティブな組織を作り出すには、まず所属する個々人がしっかりと自己管理をして、自らの内面に「平常心」と「自己肯定観」を生み出さなければならないということと、その為に有効なセルフ・ポジティブアップの技法を紹介させていただきました。

ポジティブとネガティブをバランスさせる

何故そこをエントリーにしたのかというと、巷ではよく組織を一つの塊として語りますが、本来組織の要素はあくまでも個々人が最小単位であるということが前提となるからです。

確かに組織の構成要素には、物理的な個々人が単に集合しただけの存在としてではなく、そこには間という空気のような場が存在していて、それが個々に相互作用する側面もあることは確かです。

しかしやはり組織はあくまでも個人という要素が醸し出す力の結合に他なりません。ですから実存である個人の心的な変化なくして組織という抽象の変化は絵空事に帰するのは間違いのないところです。

例えばネガティブな空気というのはやはりネガティブな個々人が集まって醸し出されるのであり、幾らネガティブな人たちが集まってポジティブな空気を作ろうとしてもそれは無理というものです。

 

ですから組織の在り方に何らかの変容を期待するならば、まずは力学的に所属する個々人毎にそしてその過半数の意識を変容させることが必須となります。今回の場合ではポジティブ意識ということになります。

しかしこのネガティブの空気をポジティブにするという課題は今日かなりハードルが高いテーマになっています。それは組織を取り巻く社会的な風潮の方がかなりのネガティブ基調になっているからです。

 

ポジティブとネガティブの関係はプラスとマイナスの関係とはやや異なります。時間の不可逆的な流れという絶対法則の上で、両者の関係は対峙する関係ではありません。ポジティブとはアクセル的な存在、一方ネガティブはブレーキ的な存在といえます。その上で両者は二つ揃って効果を生み出す存在です。

一般にポジティブでさえあれば全ては好転すると錯覚している人がいます。しかし実際はポジティブだけだと慢心したり調子に乗ったりが始まって、暴走の歯止めがきかず返って破綻する危険を孕んでいます。

過ぎたるは及ばざるが如し、という奴です。適度なネガティブが作用してこそバランスが取れて安定するというものです。ネガティブも一定の有用な役割を担っているわけです。

 

その典型が論理的思考という概念です。論理的思考は「クリティカル・シンク」と称しますが、クリティカルは「批判」とか「批評」という意味です。その意図するところは「疑う」ということで、これはネガティブな感情です。

だからか一般に「論理的」とか「頭が良い」という人はどうもネガティブな情性を持った人が多いように思うのは私だけでしょうか。古来「文武両道」とか「文武不岐」という戒めがあるのも、知的一辺倒に染まると発想がネガティブになりがちになることを、ポジティブが基調である運動を通して人間としてバランスある姿勢を構築するように自己鍛錬するように示唆する言葉だったのではないでしょうか。

いずれにしても社会的に安定した状態とは、ポジティブを基調としながらも一定のネガティブがポジティブをバランスよく制御するように作用しているのが最も好ましい状態であるといえます。

ただここで注意すべきは、バランスとは固定された存在ではなく、状況に応じて可変する存在であるということです。例えば飛行機の場合左右のバランスを保っていないと真っすぐには飛べませんが、旋回するには一度バランスを崩さないといけません。

しかしそのままだときりもみ状態に陥ってしてしまいますから、旋回したらまた新たなバランスに改めて保つ必要があります。このようにバランスとは周りの変化に合わせて可変的に調和することです。

 

さてこういった定理を社会的な変化に当てはめると、かつて高度成長期と称された昭和時代はかなりのポジティブ空気が支配していた時代であったといえます。むしろ皆が調子に乗って浮かれ気味だった時代ともいえます。

こういう時代には人も組織も無意識に暴走しないように引き締めが必要なりますがそれがネガティブさを許容した背景があった様にも思えます。また未来に向けてのレールも見える中、皆が目的を持ち、その過程として多少のネガティブさも吸収できる風潮があった時代だったともいえます。

先行きイケイケの中で、多少艱難辛苦をしたとしても未来は開けており、心にも我慢に対するゆとりがあったのではないでしょうか。だから多少叩いても復元できる心理状況がインフラとしてあったわけです。

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このインフラという考えは重要です。良く変化を口にする人がいて、何でも変化が良しとしますが、軸がない中で変化をさせると返って瓦解してしまいます。変化をするには軸が必須です。大きな変化こそ大きな軸です。これがインフラです。

インフラがあって当たり前の時代の人はインフラの重要性に無頓着です。今は間違いなくインフラが失われた時代です。

昭和の時代に自己を確立した人(50代以上の人々)はインフラがあるということやネガティブでこそ人は伸びるといった偏った意識が前提で自分や人に関わってきた人です。だから「人は叩かなければ伸びない」とか、「ネガティブでも逆境を超えた時に人は伸びる」といったバイアスに染まっています。

確かに心理学上一定の合理があるから厄介です。しかしそれはあくまでも限度付きです。この限度が昭和と今とでは全く異なるのです。これこそ時代間ギャップの最たるところです。

 

さあ、では現代はどうでしょうか。バブルが弾けた頃から日本は低成長に突入しました。先行きは全く不透明です。昭和では前例踏襲が未来を保障しましたが、平成になると前例踏襲は破綻の引き金に為りかねません。そのような前提の中、社会の心情が太平楽であるわけありません。いまの時代は不安や懐疑によるネガティブ意識が基準であり、不信が貴重なのが世の風潮になっています。

そのような心構えの中でこれからの永い未来を見据える若者の心中は如何ばかりでしょうか。社会や組織の未来に不安や不信感が先に立つ中、関わる上司や先輩からネガティブが前提のアプローチをされて、到底我慢など出来るはずもありません。もはや昭和の当たり前は前提自体が違う社会情勢なのです。マジョリティ・シフトが起こっているのです。これが分かっていない年長者が実に多い。

更にその年長者自身が変わりゆく時代への対応が覚束なくなり、自己肯定観が急落して、そこから生まれるネガティブ心情をあからさまにぶつけているケースも多く見られます。

 

しかし一方で世の中にはある程度ネガティブと分かっていても受容しなければならないこともあります。それは秩序のための規律です。前回紹介しましたが、価値観の異なる人々が個人力を超えた成果を果たすための組織を維持させ成長させるには、皆が多少の譲り合いをして我慢をしなければなりません。

これも心理的にはネガティブな状況です。でもこれは感情問題ではありません。論理問題です。

ところが、味噌も糞も同じにしてしまい、こういった論理問題に対してまで耐性がない若者が増えているも問題となっています。彼らはネガティブが基調ですから、すぐに感情的に条件反射してしまうといった我慢耐性の底が浅い人たちです。

残念ながら、社会風潮としてそういった知的偏重の評価がマスコミなども侵食していますから、組織自体を否定したり、意味もなくバイアス的に組織行動を嫌う喧伝をすることによって一層組織におけるネガティブさを混濁させた解釈を持って引っ掻き回すという事態も起きています。

軽薄な人はそれにのせられてバイアスを高めてネガティブを加速化させているというケースも多々あります。

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またこういう人達の中には一人っ子政策のように子供の時から過剰に甘やかされて、怒られたこともなく、ネガティブという感情への耐性そのものが醸成されていない人たちも増えてきています。

そして更に、後述もしますが、そもそも幼少期から関心を持たれなくてネグレクトのように育った人や学歴主義的に知性偏重で情操が育てられていない人たちもどんどん勃興し始めています。こういう人たちは耐性以前に意志力が十分に醸成されていないので、人の感情が理解できません。

でも感情は内在していますから、一定の限界を超えると思考停止的に本能的感情的な爆発反応をしてしまいます。彼らはそもそもの感情の制御自体が情操的に鍛えられていませんから一旦爆発すると以上行動に出る人もいます。はてさてそのような人たちを前に私達はどう対応すれば良いのでしょうか。

 

それにはまずはとにかく理屈抜きに導入としてポジティブ・アプローチを徹底させる、ということです。これは相手に譲歩するといった話ではありません。ここまでネガティブ風潮になると、ちょっとでもネガティブなアプローチは感情的フィルターによって入口段階でカットされることは間違いのないところです。

彼らのような自らポジティブにセルフ・モチベーションする術や意欲すら見いだせないところまで来てしまった人には、最早リハビリ的なアプローチしか望めないということです。そうしてそこで一定の信頼関係を構築してこそ、初めて次のステップがあるということをしっかりと認識しなければなりません。

 

ところで最近ではもっとややこしい状態が生まれてきました。先にも述べた他人に関心が持てない、人の感情といったアイデンティティに関心が持てない人材が頻出し始めたという現実です。

重層的に続いたネガティブな風潮や人間関係、知的評価偏重の教育姿勢が、もはや感情という人間の実存を否定したというよりも感知できなくなった無機質人材を輩出し始めているのです。

全てを論理という視点でしか発想できず、かといって感情が理解できないが故に自分の感情行動が抑えきれず、いきなり衝動的情動的に反応するといった若者の出現です。新人類というかニュータイプといった存在です。

こういう人は人間同士や組織内での関係を「私とあなた」といった人格でとらえることが出来ません。全てが「私とそれ」の関係としか受け取れない状態です。哲学者のマルティン・ブーバーによれば「私とそれ」におけるそれは、相手が感情を持った人間でありながら、その相手を自分の「道具」のように捉える関係性のことを意味します。

確かに組織における関係性は、仕事の生産性を軸に、私情は抜きにして、立場や役割に応じて道具的な効率関係を求める必要悪があります。それがスムースな運営の要でもあります。しかしそれはあくまでも契約の範疇です。現実には相手は代わりが効かない固有の存在であるのも確かなことです。

このバランスが取れない人が様々な組織内での波紋を生みだすのですが、昨今こういう人が急増すると同時に、端からこういった関係の在り方自体に関心がないまるでロボットのような人材が増えてきているのです。ある種欠陥人材です。

それが組織によっては事務処理能力が高いという偏った人事管理で、学歴主義的にそういう人がエリート人材などと取り上げられ、組織全体が無機質化し始めているのです。そもそもの組織創立の原点(お金といった手段を目的化するのではなく、社会の人に貢献するという目的を前提とする)がどっかに飛んで行った組織運営が横行し始めているのは薄ら寒い心情を感じます。

 

本来こういった傾向が生来的な人を発達障害と称して知的障害者とは異なった視点でケアをするのが社会的な福祉責任ですが、現実は結構野放しで、それが方々で問題を生み出しているという現実もありますが、この社会的な無関心さも相まって、今組織内でポジティブでもネガティブでもないマインドレス人材が後天的な家庭教育を始めとした社会的教育の無関心や弊害(大人の発達障害)によって多くの組織に揺らぎが起き始めているのです。

 

こういった事態をどう乗り越えるか、組織運営において、今新たなる問題が浮上し始めています。

 

さて皆さんは「ソモサン」?