気の持ちようをマネジメントする

経営の中で実践に結びつかない「メンテナンスプロセス」の管理

コロナ禍による自宅中心の活動も1年を超える様相となって来ました。世の中には慣れも含めてルールを守らずに状況の好転に足枷を嵌める人々も多くいらっしゃいますが、それでも大勢は真面目に家に篭って暮らす方々が相当のストレスを持ちながら日々を送っていらっしゃいます。

こういった状況で問題になるのがストレスによる生産性低下、引いては心の病の発生です。これは企業にとって非常に大きな痛手となります。にも関わらず多くの企業では未だに人が持つ生産力においての「気の持ちよう」に関して軽視する浅慮というか、勉強不足がこの問題を加速させる一方に働きかけている現実があります。

 

「気の持ちよう」は行動科学という心理学の世界においては「メンテナンスプロセス管理」ということになります。メンテナンスとはメンタルの維持とか整備という意味です。つまり心の流れや状態(プロセス)を健康かつ前向きに維持する所作ということです。

企業がこのメンテナンスやプロセスという存在に対して「いかに無頓着で無関心であるか」という実情は人材開発や組織開発への取り扱いや取り組みを見ると顕著に現れてきます。

 

コンサルタントの大きな役割の一つに「プロセスマネジメント」とか「ファシリテーション」と称される関わりがあります。これは「チームマネジメント」を経験した人ならば誰しもがぶつかる課題ですが、問題解決に向けて価値観や考え方の違う人々の議事進行をスムースにしていくための重要なアプローチ方法です。

チームマネジメントに関しては、様々な書物において学者さんや理屈屋的コンサルタントが自助努力や理屈領域を軸にした内製的方法を紹介していますが、実際には多くのチームが書籍に載っていない事態によって暗礁に乗り上げています。

プロセスには先にあげた「メンテナンス」と同時に「タスク」と称されるプロセスがあります。これは目的としての論理的な仕事の進め方のことです。文字化も出来る形式知的な流れ(経緯)のことで、問題解決に対する論点が噛み合わないとか、思考する理論のベースが異なっているために、意見が衝突するといった領域です。

果たして問題解決における論理的な葛藤は、それこそ論理的思考の基本として帰納法的、或いは演繹法的にデータから論拠、主張という因果への思考状態を相互に共有して、データや論拠を擦り合わせながら整理し、相互理解していけば離礁(りしょう)することは可能です。

学者の皆様や理屈屋コンサルタントは、頭は良いが未経験で現場で生じる実態が感覚出来ていませんのでかなりバイアス的にアプローチしているのですが、現場の実務者でもこういった紹介を安易に信じて丸め込まれてしまう人が結構いるのが残念なところです。

実際のところ、我々が職場やチームで遭遇する座礁は、こういった論理的な「タスクプロセス」以前の、或いは水面下での「メンテナンス」におけるプロセスという暗礁に起因するものが殆どです。このプロセスは当事者が故に対応出来ない相克が軸になります。

頭では分かっていても体が動かない、反応が出せない、まさに状況が凍りついて時間だけが過ぎ去っていくといった問題へのアプローチが求められる状況にどう対処するかというプロセスの領域になります。

メンテナンスプロセスを無視した企業の悲喜劇 ~本末転倒に気づかない~

例えば、私が毎年依頼されていたチームマネジメントとして、「事業開発を創案して起業するというテーマを持って幹部の能力開発を行う」というものがありました。

確かに事業経営にとって重要なのは、今あるものを維持することではなく、新しい価値を生み出すことから企業の永続的成長を演出し、しかも守りを軸にした旧体制に対してその思いをぶつけてうねりを創出するリーダーシップの醸成です。これは古い体質の会社にとっては必須の課題です。

そういった経営陣の願いによって始まったプログラムでしたが、古い体質が故の問題が噴出して来ました。それは参加メンバーが保守的でかつ懐疑的だということでした。

古いが故にこの会社では新しい試みは常にバッシングされ、ネガティブ評価され、挙句潰されます。だからこそ既存の研究開発部隊も冒険をしないという悪循環に塗れていたのです。このプログラムはそういった空気を変えていきたいという一心から始まったプログラムのはずでした。

 

チームは会社の多部署から選出されたお互いに未知に近い関係で、階層もバラバラです。そこには対人関係を苦手とする工場の人や暗黙裡の階層がある関連会社の人も含まれています。

しかも最初は各部署でも何を持ってメンバーが職場を離れているかも知らされない状態で、それがほぼ1年間も続きます。これでメンバーがネガティブで懐疑的にならない方がおかしな話です。

当然チームは表層的で慇懃(いんぎん)な状態から始まります。中身も形骸的にうわっ面で怪我のないような状態で進行していきます。

そうやって作られ、提案された内容は発表で完膚なきまで叩かれるといった案配です。そんな中でもこれを早期に軌道にのせなければ、チーム学習の意味を成しません。参加メンバーを安心させ、人間関係における開襟(かいきん)の間合いを教授し、メンバー間の対話をポジティブにして、タスクプロセスを充実させて、コンテントの方向性や質を高めるのがメンテナンスプロセスに課せられた仕事です。

 

この会社の場合、その壁に直面してその処理のために依頼が来たのがきっかけでした。しかし当初はこの会社でも議事進行に対する有効な知恵がないのでそれを教授して貰うことを目的としていました。その為か2年もすると担当が変わり、新しい担当が「内製する」という理由で関係解消になったのです。

ところがそれからまた2年。再び担当が変わると「やはり上手く運用できない」と復活の運びとなりました。今度の担当は深謀熟慮する方で、私の話に耳を傾け、内製するには内部にプロセスが読めるファシリテーターが必要とばかりに5年ほどお付き合いすることになりました。

当初は担当役員の支援もあり、プログラムの質は格段に向上していきました。プロセスマネジメントの難しさは毎回毎回参加者の状態も個性も違うのでアプローチをカスタマイズしなければなりません。参加者はその私のアプローチを体感的に学習することになります。

そういった経緯を経て、真摯な担当者がそろそろ内製でも出来そうな技能を身に付けたかな、と思った瞬間、別の部署に異動となったのです。しかもこの会社では異動したらもはや介入はご法度という文化。相変わらず旧態とした組織は簡単には変わりません。

そして新しい担当はプロセスの知識も技能も何もなく、これまた現場を知らない上司から「プログラムも以前よりも良くなったから内製化で出来るだろう」という指示を受け、関係解消の運びとなったのです。まさに元の木阿弥です。全く笑い話です。これがメンテナンスプロセスという領域の実態です。まあ当面こういった組織が変革を成し遂げるのは難しいだろうと感慨に耽るところです。

 

人の欲求は自己保存と集団帰属のはざまに

さてこのように日本の企業の多くは人に内在するメンテナンスプロセスという領域に対して余りに無教養で無頓着なわけですが、それが昨今「メンタル問題」「ストレスマネジメント」というより抜本的な組織運営上の問題を引き起こし始めています。

人は集団的生存本能に基づいた関係的な存在です。同時に自己保存本能に基づいた利己的な存在でもあります。ですから人は他人からの干渉は受けたくはないが、他人と絡んでいないと精神的に病んでしまうという厄介な性質を持っています。

そう人は孤独が好きな性格の人はいますが、孤立は共通して回避するという我が儘な存在といえます。孤独とは本当の意味で一人ぼっちとは異なります。自分にとって合う人とだけ関係を持ちたいというある種のエゴです。

人が求める関係とは本質として感情的な関係ですが、孤独を好む人は総じてこの感情的な共振を苦手とする意志の現れと云えます。自分の前向きな感情に共振してくれて自分を大切にしてくれる相手に対して敵対心を持つ人はいません。それが幼少期からの原体験から来ているのか(いわゆるスキーマ)、どうかで警戒の深度が異なってくるだけです。

 

そういう人という存在は、従って物理的阻害や隔離に対しては敏感です。昨今の緊急事態宣言軽視、時には無視といった蛮行は、その明確な表れです。

学者のような学識未経験者は論理だけでリモートを薦めますが、リモートの致命傷は感情の交流や体感的な物理接触の断絶です。これがもたらす心理的病巣に対してはあまりに無配慮です。

そして企業においても先の事例の如く論理的繋がりにしか頭が行かない幹部がいると内部において同様な事態が生じます。実際個々人は企業外で代わりとなる感情交流や体感接触をすることで身を守っていますが、指向性が組織を向いていないということは、企業的に生産性が低下していることに繋がっているということを見逃しているとすれば、あまりに愚かです。

また真摯な企業隷属者は孤独な日々に対してどんどん病んでいっているという実態があります。

 

学校におけるいじめは深刻な問題ですが、学校に行けないという自宅待機状態がこれほどまでに子供の精神を病むとは誰が予測したでしょうか。出るも地獄出ないも地獄といったあり様です。

学生も経済的意味もありますが、精神的意味において中退が続出する状態です。このように不安定な人間関係しか構築出来てこなかった若い世代ほど精神的な鍛錬も弱く、その脆さ故に心の病みが蔓延して行っています。

では何故そうなるのでしょうか。元々人の心が不安定になる原因は「過去への後悔」と「未来への不安」という手が届かないネガティブ思考にあります。これが悪循環を始めると「マインドワンダリング」という状態に陥ります。心の蟻地獄のようなものです。そこから抜け出すには何処かで何とか発想転換してポジティブ思考に切り換えなければなりません。

自分と向き合う方法論考察

その方法として最も単純で手堅いのが、手が届かない未来や過去、そして外に目を向けるのではなく、内なる世界と今に集中するマインドセッティングです。これは古より禅が伝承してきた方法でもあります。

禅では呼吸法と瞑想法を使ってまず心をニュートラルにしてから、ポジティブに心を切り換えることを提唱してきました。確かに腹式呼吸は副交感神経を刺激して気を沈める効果があるということは医学でも証明されおり、また凛とした音色が有効であることも証明されています。

そうして今に集中することで闇から抜け出すのですが、実はこれには限界があります。それは人はスキーマやバイアス(アンコンシャスバイアス)を持っており、そこからもたらされるネガティブ思考や感情は気付かないところで発動するということです。

気の持ちようの前に、気が付かなければどうしようもありません。自分がネガかポジかも分かっていない心理状態で切り替えは困難です。

 

ここに大きな落とし穴があり、同時に大きな着眼点があります。それは「人の見方や捉え方の源泉は人との関係や比較の中にある」ということです。人は自分のことを他人がどう思っているのかは分かりません。それがまず不安を生み出します。そしてその不安が過去の行動の後悔を導きます。

こうして人はネガティブのスパイラルに陥るのです。簡単に気にするな、とかいうのは却ってマイナスを助長する結果となります。分からないという不安がネガティブの端緒です。気にしないようにするには気にならないような保証が必要です。

ではどうすれば良いのでしょうか。自分がどう見られているかにマイナスが働く人は、それだけ人との繋がりを求めているということです。そういう人に必要なのはまずポジティブな関係の場作りと対話の機会作りです。

自分がどう見られているかを気にしなくするには、ポジティブに見られているということを伝えることです。それを認知してもらうところからがスタートです。

 

しかし人はそもそも利己的でもありますから、自分の正当性を受け入れられるところからバイアスは強制されることになります。不安が強い人、孤独に弱い人、ネガティブな人はその端緒が否定になっています。

それは始めからその人が持っているパーソナリティではなく、そういう前提が他人から擦り込まれたことから始まっています。そして思考が攻撃としての習性になってしまっています。

ですからそういう人に対して単に言動だけで、論理だけで関わっても元より受け入れられる筈がありません。論が立つ奴は何でも頭で処理する悪癖があるので、そういった面での感受性が極めて鍛えられていません。

人のコミュニケーションの生成は、原始から行動、感情、思考です。思考は感情に支配され、感情は行動(体感)に支配されるのです。ポジティブというならば、ポジティブな言動よりもポジティブな感情表出(抑揚)、それ以上にポジティブな行動(笑顔や振る舞い)が相手に強いインパクトを与えるのです。

 

皆さんの中にはクレームが起きた時、手紙よりも電話、電話よりも実際訪問での対面の方が効果が大きいといった経験をお持ちの人も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

人はそれが経験や本能の中で欲求的に分かっているからこそ、精神安定に向けて対面や体感を求めるのだと思います。今はそれが奪われた状態です。心が病むのは当然なのです。心が弱いとか甘いといったのは論外、こういう人こそ心が根っこから病んでいます。

皆さん、気の持ちようをマネジメントするには、禅のような自助努力も確かに有効です。しかしそれはある程度自立した高品格(上品)な人たちです。

一般人に有効なのはお互いがポジティブな意識を持って対話や人との関わりを作ることからポジティブな感情をシナジーさせていくことです。その上でネガティブなバイアスで自分を縛っている思考のあり方(インテンション)を他力を借りて切り換えていくことです。

まずは似非ではなく真にポジティブな関わりができる人と、積極的に、せめて週一には接触しましょう。真にポジティブな関係とは多少耳には痛くても本音で関わってくれる人です。そういう人は言葉尻でなく、感情や振る舞いを見ていれば一目瞭然です。真実とは思考、感情、行動が一貫しているものです。

取り敢えず分かってはいるが、気持ち的に苦手という人は、対話でのあり方を「まずは全面的に一旦相手を受容してから、違った言い回しや違った観点からの考えを伝えてみる」という工夫をしてみてください。

人は鏡の関係を持っています(最近ではミラーニューロンという脳科学上の発見もあります)。ですから感情には感情が反応します。思考よりも感情でしたね。反論は思考的対抗ではなく、感情的攻撃、敵愾心と受け取られてしまうことの方が多いのです。

ですから人は受け入れられると自分も受け入れようとします。それがポジティブ化の第一歩なのです(時には慢心で自分の正当化を増長させるバカもおりますが、実際自分の部下にもいましたが、余程対人での苦労も経験も乏しい学歴バカでもない限りは、社会人的にはレアケースだと思います)。

これはオープンダイアローグという方法で現在精神医学的に療法的にもエビデンスがあるアプローチ方法です。

 

さて、皆さんは「ソモサン」