品格を通じてマネジメントや社風のレベルアップを考える

組織に必要な「上品さ」

先週は「品格」という意性について論評させて頂きました。その中で「上品は下品に合わせることができるが、下品が上品に合わせることはできない」と述べさせて頂きました。このコメントは非常に重要な意味を持っています。それは組織活動や社会活動において日常の対人関係上致命傷ともいえる側面があるからです。

ご承知の通り、上品と下品の本質は知と情の違いというよりも利他と利己の違いにあります。利他の人は元々基点が他者にありますからどのような人が相手であっても対応は容易いものです。

一方利己の人が他者に対応できるのは利害一致する相手に限られてきます。それ以外は全て打算ということになります(利害一致も打算の一つですが)。

 

このことは組織という集団的協働行為において大きく影響を及ぼすことに繋がります。元より協働とは異なったパフォーマンスをする人々が有機的に機動することで、一人では捻出や達成が不可能な成果を可能にする活動です。そこで最も求められるのは相互信頼というリンキングピンになります。

無論信頼関係がなくても一定のパフォーマンスを見出すことは可能です。しかしシナジー(相乗作用)という効果を考える限り、相互信頼関係に勝るパフォーマンスの創出は望むものではありません。

このような組織や集団内にシナジー状態を生み出す、つまり信頼というポジティブ環境を生み出すことから成員のパフォーマンスを最大化させるのが「マネジメント」という仕事になります。

このことはマネジメントに最も求められる要件は小手先のスキルではなく、まず何よりも「利他」という心構えであるということを意味します。そしてそれはマネジメントは「上品」な人でないと為し得ないということに繋がってきます。

例え部下が上品であろうがなかろうが、上司たる人は上品でないと務まらないということです。

にも関わらず様々な企業を見渡すと本当に下品としか思えない人がマネジャーに就任しているのに驚嘆させられます。その結果がパワハラやモラハラ、セクハラです。なぜこのような情けないことが起きるのでしょうか。

営業が得意な人はマネジメントも得意?

ここに日本の様々な組織体のシステム偏重主義、技術偏重主義という歴史による対人能力軽視の登用や教育のツケが浮き彫りになってきます。その骨頂が「優秀な技術者、優秀な営業であればマネジャーは務まるはずだ」という浅慮さです。

ただ前者の場合はもはや言わずもがなの軽薄さと言えますが、後者の場合は多少厄介な歪みが加わってきます。「お客さんに好かれる営業、お客さんの懐に飛び込める営業は、それだけ対人能力に長けているはずだから、マネジメントも上手にこなすはずだ」というバイアスが潜んでいるからです。

 

一見するとその考えは是のように思われます。しかしこれこそが浅慮の骨頂なのです。きちんと整理して考えれば、営業としての対人力とマネジメントとしての対人力はスキルレベルでは見分けは付きませんが、意志のレベルでは全く別物であることが明確に判断することができます。

換言すれば「営業は下品でもできるが、マネジメントは下品では出来ない」ということに尽きます。

 

そもそも営業における対人関係とは、その前提として「相互に対等な利害関係」であり、同時に「立場的な劣位(相手からすれば優位)状態」があります。つまり双方ともにまずは利己による立ち位置が起点であるということを両者ともに認知しているわけです。

また殆どの場合、目的は交渉する相手ではなく、別の対象がある中で、交渉する相手はあくまでも手段であるという認知もあります。

ですから交渉する相手が上品であれば幸いだとは思いますが、例え交渉相手が下品であっても対象そのものに信頼があったり、立場が劣位になったり取引に瑕疵がない限り、関係は成立する、ということになります。

関係に対して積極的か消極的かという判断は出てきても、お客さんの方には一定の心理的な余裕があり、よほどのネガティブな心情にならない限り取引が壊れるということはありません。

営業が下品であっても、それは中心となるような大きなファクターではないわけです。皆さんも対人スキルは上手でも(例えば相手を持ち上げる間合いが上手いとか、言葉巧みとか)、言動や立ち居ふるまいに下品さを醸し出す営業を目にすることがあると思います。

 

しかしマネジメントは立脚点が全く異なります。上司と部下はもちろんのこととして、他部門との横断関係においても、相互の目的は組織という大きな共通目的を持った存在の中での協働であり、シナジー効果です。

つまりお互いの関係は対面ではなく同方向を向いた側面ということになります。無論そこにあるのは利害ではありません。共同(共生とも云えます)になります。そして両者の目的には別の対象など一切なく、ダイレクトに相互のパフォーマンスとその整合になります。

ですからそこには打算などといったネガティブ要素が入り込む余地は一切ありませんし、また入れてはならないのが前提になります。少しでもネガティブな心情が入り込めばすぐに関係は破綻することに繋がります。

 

まして上下関係において部下は劣位の立ち位置になります。仕事上での組織的な契約関係では支配被支配(服従ではありません)の関係であっても、それはあくまでも限定的な条件であって、契約外では対等の関係的存在になります。

当然劣位であるということは、それ自体が人間の欲求行動(集団帰属性や自我地位性)として非常に強いストレスを感じる状況下になります。当然心理的なゆとりは狭まったものとなります。

加えて人は誰しもが利己的欲求も持っています。自分の利己が他者の利己によって侵食されればやはり強い憤りを持つのは摂理といえます。そういったナーバスな人間同士の関係において利己が権力的に行使されればどういった状況になるか、それは火を見るより明らかです。

そう下品なものがマネジメントに携わるとどうなるか、推して知るべしといったところでしょうか。

 

しかし現状は下品な人間をスキルや経験だけで判断し、品性を軽視してマネジャー推挙し、職場をウツだらけにしたり、モラルダウンを引き起こす組織が後を立ちません。また学校でも企業でもハラスメントで人を潰す報道も後を立ちません。

因みに職場では立場における無責任さとか部下への権限のなすりつけという消極的なパワハラも存在しています。何もしないというハラスメントも考えざるを得ません。

ともあれ、営業における人間関係はあくまでも利己を前提とした人間関係である。それを両者ともに認知した上での快適性の存在であり、お客さんは営業に対して優位であるという前提が基本でもある。

だからそこには下心あるリップサービスや対人的な鈍感さをも吸収できる心理的余裕としての距離感が存在しており、下品さを伴っていても成り立つレベルでの対人的世界で、ということを認知しておく必要があります。

これは政治家の人間的アメニティも同様の流れがあるといえます。相手は始めから多くを期待はしていない、そういう薄い信頼関係が軸であるということです。

一方マネジメントは同胞的な利他を前提とした人間関係です。下は上にある種服従する面を持つこともあるという人間としての人権から考えると平等ではない関わりが含まれる距離感です。

当然信頼関係は厚くないと成り立ちません。上司に対して劣位が基本といった心理的余裕の中では、リップサービスのような下品なアプローチは見透かされます。上下関係で求める気持ちは中核的存在です。

対人が主目的でなく、組織サービスや商品といったあくまでも得たいものは別にある中で、その媒介的な促進として快適もあれば良いという好感性と、対人関係を主目的として協同する上で動機的に必須なものとして快適性や好感性を欲するのとは基軸も深度も全く異なります。

営業的に対人がスキルフルだからといってマネジメントができるわけではない。これはスキルではなくスタンスの問題なのです。マネジメントは下品な人には絶対務まりません。皆さんにもよーーく考えて見てもらいたいと切に願う次第です。

下品に組織的施策を打つと・・・・

さて、このような下品なマネジメントは現場だけではなく組織的なレベルでも起きています。いずれも浅慮ですが、これも組織的なレベルでの仕事の怠慢、下品さの表れです。その一つが組織的施策の在り方です。

 

一例として成果主義人事制度をあげてみましょう。これは制度は入れたが運用は現場任せ。制度自体が下品な作り(スタッフ)になっている。そんな制度なのにそれを運用する上級マネジャーも下品だったらどうなるか、というケースです。

これは組織自体が下品となっていて、誰もが自分が下品になっているという自覚がないという話です。

多くの会社にとって成果主義人事制度の問題は、評価すべき成果の基準の設定があいまいであることにあります。分かりやすい営業部門を例にとると、多くの企業では営業の総売り上げを個人別目標(予算)に振り分ける作業からして、非論理的かつ非科学的に行われています。

基本的には、前年実績をベースに様々な要因を加味して個人別目標を設定するわけですが、その根拠になるものがありません。顧客のポテンシャル(購買力)の測定という訳の分からない指標や、前年に大きく取引した顧客の実績をどう見るかなど、多くの企業では結局は部長クラスの忖度や声の大きさで決まってしまいます。

そうして決まった売上目標が個人に振り分けられたとき、全員からため息が漏れてきます。この成果主義は基準となる目標設定の段階から、やる気を削ぎ破綻しているわけです。更に幾つかの企業では、それを現場経験のないスタッフ部門が怪しげな数式や説明で、「決まったことだから」という大義名分のもとに、各人にハッパをかける状況をよく目にします。

これでは現場の士気が上がるはずがありません。これ自体がもはやハラスメントです。そう、制度のせいにして誰も責任を取らないという下品さ。もはや組織(役員や社風)が下品なわけです。

 

経営状態が悪化したりすると、経営トップから良く「これ以上人件費を増やすべからず」という非情な命令が出てきます。そうすると毎年の賃上げの原資がありません。結局スタッフとしては訳の分からない基準を設定して全体としてプラスマイナスゼロ、つまり全体の賃上げ原資はいらない、という計画を立てることになります。個人としては上品な人も組織が下品だとそこに染まった行動を取ることになります。

上品と高邁は違います。「衣食足りて礼節を知る」の典型です。こういった場合、昇進すると給与が上がる原資はどうするか。会社によっては55歳役職定年制度を活用する場合があります。55歳になると原則役職を外して、給与が2~3割下がるという制度です。

そこで、余ったものを昇進による昇給の原資として使ったりします。果たしてこれほど従業員に過酷で、経営者に優しい制度があるでしょうか。スタッフ的には悔いの残る残酷な力仕事になります。でも誰も組織に逆らえないのです。

本来成果主義の給与体系は、目標の基準設定はともかくとして、会社が発展し、売上が増え、それにともない、従業員の給与も増える、という素晴らしい制度のはずです。ところが一部の成長する大企業を除いて、その夢は実現されていないのが実際のところです。

現在の日本のサラリーマンに元気や夢がなくなっているのは、体系の形は様々あるとしても、給与が上がらなくなった成果主義の給与体系のせいだ、といっても過言ではないのではないでしょうか。

果たして皆さん、中高年層が家のローンや子供の進学費用に汲々とし、若手の優秀な人材はどんどん辞めているような会社が上品といえるでしょうか。

 

これなど組織的な下品さ。トップや役員が下品だとどうなるかの真骨頂です。高学歴で知的には優れているからとただ年功的に派閥的に経営者に上り詰める。しかし大事な品性が育てられていない。そういった会社が悪循環に嵌っていく恒例が上の様なケースです。

私は今こそ上品な社風の情勢を真摯に考えた組織開発や人材開発が急務だと信じているのですが、皆さんは如何お考えになりますでしょうか。

 

さて、皆さんは「ソモサン」?