品格という意性と認知について考える

品格という言葉があります。品格とは節操や見識、態度と云った総合的な観点で道徳として優れていると判断される人柄、人間性を云います。見たり接したりした人が自然と尊敬したくなる気高さ、厳かさということも出来ます。どちらにしても単に知的レベルが高ければ同時に身に付くような世界観ではないようです。

この品格こそが知と意が異なる存在であるということの証とも云えます。頭の回転が速くても下品な人は大勢いますし、呑気なようでも上品な人も一杯います。

中国に「上品に寒門なく、下品に勢族なし」という故事があります。これは「上品には勢族が集い、下品には寒門が集う」という意味で、「類は友を呼ぶ」ということですが、そもそもは上品な人の多くは有力者となり、かつそういった人たちの集まりには勢いがあるが、下品な人は貧しい家門になる人が多く、そういう人たちは総じて寒門に晒されることになる、ということを示唆しています。

果たして昨今では有力者にも下品な人は結構多いように思うのですが、確かに自分と人とを比較する必要がない程に自分の地位や心を高め満たしている人とか人生で何らかの達成感を得ている人は、あまり他人を批判する事に興味がなくて、総じて穏やかで品の良い方が多いというよりも品が良くなるように体感しています。

 

では具体的に品格とはどういった要素を云うのでしょうか。

以前恩師から「上品とは知性とデリカシーの融合であり、下品とは情念とバイタリティの融合である」と教わりましたが、その教え的に考えると上品は冷静沈着で物事に対して論理ベースであり、一方下品は感情ベース、それもすぐに湧き上がるような情動が前面に出て自身でコントロールが出来ない状態がまず有態にあって、その上で上品はクールだからと云ってただ冷たいのではなく、人に対してデリカシー(細やかさ)があり、一方下品は自分中心ながらにも感情エネルギーに溢れているために非常にバイタリティ(活力、生気)を伴っているというのが鍵であるように思います。

この着眼点は結構重要に思われます。上品とはいわゆる思慮深いわけですが、デリカシーを伴うということは、その思慮深さが他人に対しての細やかな配慮や思いやりによるものであるということです。

半面上品であるということは今一つ活力的に乏しさがあるように映るということもいえるところです。

一方下品は浅慮で利己的ではあるが、エネルギッシュで力強くはあるということになります。

包括的にみると日常的な社会生活上で人が幸せに生きていくにはお互いにとって上品さが基点であるのが重要であるが、変革とか何らかのスタートをするといったパワーが求められる時や緊急事態の時にはエネルギッシュさが求められ、多少下品でも止む無しといった必要悪のような面も大事ではあるといった案配でしょうか。まさに禅でいうところの「欲は少なく足るを知る」といった境地がベストということになります。

 

確かに成熟した大人の振る舞いや姿勢として集団を維持発展させていくには基調として上品さは欠かせません。しかしただ上品なだけでは、「優男(やさおとこ)」と揶揄されるように今一つ動的なエネルギーのポテンシャルに物足りなさが生じて、物事の進展が失速しかねなくなるというのでは困ったものです。

物事をうまく導くためには、主菜(例えば刺身)としての上品さに、薬味(例えば山葵)位の下品さが調味される状態が最良なのかもしれません。

 

さてこの品格は認知相違(コグニッション・ギャップ)の調整においても重要な役割を果たします。認知に相違が起きた場合、お互いが為すべきことは、何よりもまず相手の立場に立って相手の声や考えに寄り添ってみるという姿勢が前提になってきます。

その際に品格の善し悪しが大きく影響を及ぼすことになってきます。上品な人はまず相手を大切にしますから、相手に敬意や配慮をもって相手の声に耳を傾けますし、何よりポジティブに構えます。

そして相手を素直に受け入れようとしますからアンコンシャス・バイアス自体が起きにくい状態にあります。

一方下品な人は自分中心でしかも感情優位ですから、状況に配慮できないだけではなく、非常に態度も見苦しい面が出てきます。発言など対応もネガティブ基調になりますから、相手も警戒して胸襟を開かず、寧ろ敵対的な状態に陥りやすくなってギャップはますます拡がり、バイアスもその歪みの度合いを高めてしまうことの方が多くなります。

 

人の認知の在り方やその生成過程、そして自身の認知操作にも品格は大きく影響します。平たくいうと上品な人は総じて思考が柔軟でかつ常に相手目線ですから認知的に前提からしてコンフリクトが起き難くなります。

と同時に起きても相手中心で思考しますからギャップの調整が早い、そして懐も広いので応用幅が大きく、こういう人間や周りでは認知相違の状態が起き難くなります。そう、つまり品格のあり方と認知の持ち方には大きな相関関係があるということです。

 

人生の目的がない子供たちとそれを教えられない親 ~知性と意性の違い~

さてこの品格ですが、この性質こそ知性と意性の違いを理解するのには最も好都合な存在であるということが出来ます。知性的であれば品格は高いと云えるのかという問題です。少し事例的に進めましょう。

例えばこの品格に関する問題の一つとして、昨今真摯に考えなければならない大きな主題があります。それは「我々は今後どうやって品格を作り上げていくべきなのか」についての主題です。

 

ある大学の医学部で起きた、学生の母が放った一言に絶句した教授という話です。題して「実は息子は…」。

この教授は淡々と述懐します。「親が子供の教育について間違った意識と知識を持ちすぎている。その間違った意識と知識をベースによく分からない自称教育機関に丸投げしたら、結果は目に見えている」。

では、何が間違った意識や知識なのでしょうか。「医学部に合格するということは、当然、医者になるということが目的である。言うまでもなく、医者の仕事は人の命に関わる仕事である。知識があるだけ、国家試験を通っただけでは足りない面がある。

技術ももちろんだが、向学の精神や真摯な態度、平等の思想、人に尽くす気持ち、患者を愛する気持ち、チーム医療における適切なリーダーシップなど、医者が磨くべきスキル、精神修行は多方面に渡る。それらは、たとえ優秀な大学や大学院に通ったとしても、それだけで育まれるものではない。

家庭でもっと幼い時から学ばせることが本当は大切なのである。それは勉強か。違う。向学の精神、さらには人生の目的であり、正しい職業意識である。そうでなければ、そもそも勉強に向かう際の姿勢が出て来ない。

勉強というのはどういうものなのか、何のために勉強しなくてはいけないのかが分からなくては勉強は意味をなさない」。

「最近の学生を見ると、多くの学生にその部分が圧倒的に欠けているのを感じる。それどころか、目的意識自体が全くない。医者になろうというのに、生きていくうえでのビジョンがないのである。それは、医者の家に育った子供であっても変わりはない。

医者というものの職業意識も倫理観すらも持ち合わせていない。そんな学生たちがあまりに多過ぎる状態になっている。親の背中から何も学んでいないのである。それは親が放任主義か過保護で、大事なことを何も教えていない証拠でもある」。

「これは、医者の子供だけに限らない。医者に限らず、働くということの意義、意味が分からなければ、憧れや興味も湧かず、誰もわざわざ働きたいなどとは思わない。それでも人は働かざるを得ないが現実である。

何故働くかと言えば、それは生きるため、食うため、お金のためである。しかし、医者の場合単にお金を稼ぐために働く、生活のため働く、さらには医者は儲かるので贅沢が出来る。そうしたいから働く。そんな目的のために医者になられては困るのである」。「ところが昨今親が子供に勉強の尊さ、楽しさを教えていない。父親は『忙しい』『疲れた』と言うだけで、家庭にそうしたムード自体がない。

それで受験の話になると、急に『勉強しろ!』『こんな問題もできないのか!』と怒鳴る。一方でそれまで欲しいものはすべて買い与え、甘えるだけ甘えさせて育てる。片側では『勉強しろ!』と言いながら、片側では成績の結果ばかり求め、過保護は続ける。それでは子供があまりにかわいそうである」。

「大学で学生を見ていると、本当にいろいろな親がいる。ある時一本の電話がかかってきた。それは学生の親だった。電話越しにその親は『実は頼みがあるのです』と切りだしてきた。

話を詳しく聞くと、『実は私の息子は18年間怒られたことがないのです。怒ったらきっとショックで反抗するでしょうから、うちの子は絶対に怒らないでください』と真剣に訴えるのである。

親が子供を怒ったことがない。それだけでも呆れると言うべきか、驚きである。しかもその心理を今度は子供の擁護に回す感覚は全く理解不能である。怒りたくて怒る先生などいないし、怒ったからといって、それで学生の成績が伸びるというわけでもない。

しかし教育には怒ることが必要なことも当然ある。始終ニコニコしていて使命が果たせる教育者など、本来あるはずもないと私は思っている」。

「学生が授業をさぼる。そうすると『何故出席させないんだ?』と怒鳴り込んでくる親もいれば、学生同士の諍(いさか)いに首を突っ込んで、『あの子供の親を訴えてやる!』と怒鳴り込んでくる親もいる。本当に笑い事では済まない話も少なくないのである」。

「確かに親が医者、特に開業医であれば、自分の医院を子供に継いでほしいと思うのは人情だろう。それはよく分かる。しかし実際子供のころから医者とは何ぞや、医者はいかに大変な職業だが、いかにやりがいのある仕事であるか、ということを学んでいる人間の方が良い医者になれる近道にいるのは間違いのないところである」。

「ところが、現実はそうした好循環が実際にはあまり築かれていないのである。むしろ、長い間放任か過保護に育てた後に、ただいきなり『お前は医者になれ。医者は一生続けられるし、お金も人並み以上だから』と親のほうから言いだす。

そして子供のほうも、特に何になりたいわけでもないし、自然と親のあとを継ぐのかな、と思って大学に入ってくる。まるで医者の子供は自動的に医者になれると思い込んでいるかのようである。しかしそうした子供たちは、医者になることが至上命題であると思いつつも、本当に医者になりたいわけではないのである。だから真剣に努力をしたいとも思わない。

そこが後の教育を託されたこちら側のつらいところになる。つまり原点から始めなくてはいけなくなるのである。自分の意志を持ち、目標を持つ。そこに向かって努力をする。そこで必要になってくる、それこそ〝学ぶ姿勢〞や〝生活習慣〞を一から叩き込まなくてはいけないのである」。

「生活習慣は性格にも起因する。人間教育に力を入れなければならない理由はここにある。これはどんな職業につくにも大切なことだが、特に医者になるのであれば必要なことである。人間力を磨きながら、同時に本当の意味で学ぶという姿勢も身につけてもらうように努力しなければならない」。

「医者の子供が優秀なわけではない。むしろ過保護で贅沢に暮らしてきた子はどこか破綻している。ベンツを乗り回して、たばこを吸って、『お金を払っているから、何でも許される』と思っている子供もいる。

恋愛をしに来ているのかと思いたくなるような女生徒も少なくない。我々は必死になって矯正もしている。彼らをそんな若者にしてしまったのは、多くの場合両親である」。

 

他者からの借り物ではなく自分の仮説での勝負

如何でしょうか。私立のおかしな医学部の大学も見受けられますが、それでも医学部は医学部。そこに行くということは知性は一定以上あるのではないでしょうか(裏口もあるかもしれませんが)。

にもかかわらず上記の教授の述懐。品格に関する話題もありましたが、これは知性とは別のところの性質と云わざるを得ません。これこそ意性です。知はあっても意はない。意の教育は不在になってしまった末路と云えます。

 

東京の超有名大学の幾つかでも女性を襲ったり、ハラスメントを起こしたりと三面記事を欠かさない事件が勃発している昨今です。その本質が出ているのではないでしょうか。

誰かから教え込まれた理。つまり借り物の知識によって作り出す答えが学校秀才とか受験秀才と云われる人たちの能力です。それによって超一流校に進学していきます。そして日本はそういった人を持て囃す社会です。

しかしそういった人で未来を生み出したり、正解のない問題に道筋を見出していける人は皆無と云えます。今日話題に上るSDGsの17のテーマなどその真骨頂と云えます。そういった問題に答えを見出せるのは、自分の中にある理。自らが経験と感覚とで産み出した思考力によるアプローチになります。

そしてそういった力を身に着けるには悩むという堂々巡りを辛抱強く経て、自分を深めて意味を発見していく以外にありません。本来苦しみとは意味を作り出す過程ですし、考えるとは外と繋がって、そこから情報を取り込み想像を深めていく活動と云えます。

苦しみのない「考える」はあり得ません。そしてそういった活動を辛抱強くかつ前向きに楽しく出来る自分になるには、高邁な志や品格が必須になります。

 

何故ならば、他者からの借り物の知恵に依拠する限り、他者の存在は外せない。そうすると常に他者と劣位的に比較する状態になります。そんなネガティブな状態に、自尊感が低い状態に心のゆとりなどは出来ません。

ゆとりがないと細かさも出て来ません。つまりデリカシーが産み出されません。品格とはそういった世界観にある概念です。品格と志は一心同体の世界にあるからです。

また自分が上品であれば上品な人と接する機会が増えます。そういった状況で得られる他者の知恵は相互啓発される優位な知恵です。借り物とは程遠い創造的な知恵です。借り物とは他所で既に確立されたものです。

ここでの知恵は新たなる組み合わせによって産み出される途上の生成過程にある知恵です。そこから得られる創造的な知恵は自身の自尊感の向上や想像を促進させます。自分を高めたいのであれば、会社を発展させたいのであれば付き合うのは上品であるのが必須です。

 

私は仕事上様々な業界に接しますが、業界的に上品な業界もあれば下品な業界もあります。それぞれの業界に長くいると無自覚に染まっていきます。そういった人が別の業界に移ったときに悲劇が起こります。

どんな業界に属していても、個人は元より会社の文化だけは上品を保つことは重要です。上品は下品に合わせられますが、下品は上品に合わせられません。そこで既に格の違いが出てきます。

自分や自社の品格を上げましょう。品格は様々なところから滲み出てきます。その端的な例が挨拶です。品格は挨拶から始まります。まずは「隗より始めよ」。たかが挨拶、されど挨拶です。

「上品に寒門なく、下品に勢族なし」です。会社の品格を高めるのもマネジメントの最重要課題です。それにはまずマネジャーが上品でなければ始まりません。

ともあれ下品な人と対峙すると疲れるのだけは確かです、本当に。エネルギーを抜かれます。

 

さて、皆さんは「ソモサン」?