• 認知相違を苛烈化して調整を困難ならしめる権力や政治といった第三の世界を考える

認知相違を苛烈化して調整を困難ならしめる権力や政治といった第三の世界を考える

認知相違とは本来無意識な中で生じることが過半数ですが、時に意図的な思念によって連鎖的に噴出するということがあります。

認知相違に影響を与える組織内政治と権力

その顕著な例が権力思考、政治的意図に基づいた認知の想起です。私の周りには権力や政治というと何故かネガティブなイメージを抱く人が多いのですが、本来権力や政治は本能的でありかつ人間社会の中で必要なものといえます。

権力とは「他人を強制し、服従させる力」と説明されている辞書もありますが(ここに編纂者の意図やバイアスが入る)、それは国やその機関などのような政治を旨とする世界における力の行使であって、私たちに身近な世界としては「組織全体を自分の意志通りに動かすことのできる力」をいいます。

また政治もその本質は統治活動であり、所属する組織の人々が公平に居心地が良い状態を作るため、生活の向上や治安の保持を目的とした施策を取ることです。

 

世の中には科学として正解のない物事や解明し切れない物事が一杯あります。またどちらにも利もあり害もあるような、双方一歩も引けないような認知相違に対して一定の線引きをしなければならない場合もあります。

そのような条件の中で杓子定規に正解探しに時間を費やして意思決定を遅らせたり、問題解決の機会を逸してしまっては元も子もありません。そういった場合には多少強引でも双方に妥協を見出し、目的の成就に向けて方向づけをしたり分別したりすることが必要不可欠になってきます。政治とは本来そういう活動をいいます。

 

政治が忌み嫌われるか否かは、その活動が利他的な行為であるか、利己的な行為であるかにあると思います。

政治そのものや権力の行使自体は有益なものであるにも関わらず、それが利己的に塗(まみ)れている場合の政治行為は確かに見苦しいものがあります。私的には利他的な人を政治家と呼び、利己的な人を政治屋と蔑称していますが、前者による力の行使こそがリーダーシップの本質であると認識しています。

 

しかし権力への欲求や政治的行使が実際に利他に基づいたものなのか利己に基づいたものなのかは、内面的には非常に判断が難しい面があります。

以前にも記述しましたが、人は誰しもその本質に「欲求本能」を持っています。欲求には衛生維持要因と称される「生きるための本能」や「安全を求める本能」のような保守回避を主とする自己完結的な本能と哺乳類が生き残る主因となった「集団に帰属しようとする本能」「集団で一定の立場を確保しようとする本能」のような積極接近を主とする他者関係的な本能があります。

それが満たされた時に初めて人は「前向きに自分を認知できる状態」となり、「自分の意のままに内的に満足できることをしようとする欲求」のような満足解放を主とする自他包含的な本能が勃興してきます。

 

この中で集団社会的に組織における人間関係において作動し相互影響をするのが集団に帰属しようとする本能欲求と一定の地位を得ようとする本能欲求で、前者が承認欲求として後者が権力欲求として体現されてきます。

人はその欲求が強ければ強いほど欲求充足への願望に囚われます。集団で受け入れられていないと認知すればするほど承認欲求は強く発露されますし、集団における立ち位置が不安定で自信が持てないほど権力欲求は増してきます。

 

これらの欲求は、スキーマとして原体験の影響も強く受けます。家族関係がネガティブで不安定であればあるほどこれらの欲求は無自覚に強くなります。自己不信や渇望がそうさせるのです。その状態によってどちらの欲求が強く体現されるかは人それぞれですが、概ねどちらの欲求も絡んで出てくるのが常です。

当然欲求が強ければ強いほど状況に対する反応も苛烈になりますし、より感情的に表出されることになります。中には歪んだ過程の中で自分の存在を承認して貰おうと非合理な概念であってもそれを受け入れ(親の言いなりとか親の振り見て我が振りを組み立て上げるといった状況)、そのままそれが自己概念や自己認知の根底となって規定されてしまうといったこともあります。

 

例えば、親が暴力的で支配的な場合、本当は内面的にはそれを回避したいと思っていたにも関わらず、自分も同様な行動を人に取ってしまうといった状態です。こういった場合面倒なのは、意識的にはそうならないように思ったり、そういったことを拒否する発言をするにも関わらず、自分は無自覚に人を支配したり、人に自分を強制するといった行動をするといった思考と行動が矛盾することが多いということです。

本人は無自覚ですから難儀です。こういう人は自分がやるのはOKだが、他人がやると許せないといった似非正義感、似非ヒーローになりたがるということです。昨今のSNSでの●●警察とか正義感ぶった誹謗中傷野郎どもも、裏にはこのような劣等感的な歪みが潜んでいるのかも知れません。

 

このような屈折は家庭環境だけではなく、最近では学校のような集団社会の中でも起きる時があります。先の例とは逆に親が甘くて、父権のような力強さを見せないどころか友達のような態度で社会的な動きを勘違いした子供が容赦のない人間関係が蠢く学校などで、やる側もやられる側も限度や節度を知らないイジメを横行させ、これまた耐性のない綺麗事のままに大人子供に育った教師や自分もいじめにあった中で歪んだ自己認知を持った教師がそれを苛烈化させるといった構造が広がっているように思います。

そしてここにきてこういった問題が企業社会の中でも噴出し始めている感があります。企業内でいじめ(よくいうパワハラ)とは情けない話ですが、階層がある中では目も当てられない事態です。大人子供が跳梁跋扈する危険は時代になっているように危惧するのは考え過ぎなのでしょうか。

 

さて、このような時代における組織の中での権力欲求や政治的行使は、認知相違という観点から非常に複雑な思念を抱かざるを得ません。先にも述べましたが、本人は利他的に思っていても、その根には無自覚な利己が潜んでいることが多々あるからです。

 

利他を叫ぶ利己 ~企業内政治のリアル~ 

こういう話があります。

ある企業が同族の企業を事業継承した時の話です。その同属企業は家族関係が非常にネガティブで親子や兄弟において相剋だらけの状態だったそうです。初めは理念ある創業者の元で一定の成長を遂げたのですが、徐々にその考えが時代に合わなくなり業績も沈滞し始めたそうです。

そのような中で次代に引き継ぐべく創業者は子供に期待したのですが、子供は親の考えや態度に反発して意にそおうとしません。ならば離れれば良いのですが、力がなく親の金は魅力のようです。甘えの骨頂です。

このような状態で手詰まる中、とうとう創業者である親は病に倒れ亡くなってしまった為、子供が引き継ぐことになります。しかし元々会社に忠義心もなく、理念など皆無な子供ですからすぐに行き詰まります。無論従業員に思いもありません。

 

過去に培った保有技術は優れているため、その企業を継承することになった方の企業は思いもよらぬ再生の要請が生じました。そこで継承した企業ではこのようなガバナンス下でも企業が維持できていた要因を探りました。

するとプロパーである幹部の中に何人か会社の行く末を憂いて、陰で従業員を導いている人たちがいたのです。継承企業では安堵と共に新しい体制を作ろうと動きました。

 

その時に新たなる問題が発生したのです。その幹部たちは口頭では「部下たちのため」という利他を唱え、そして本当にそれを自身たちは信念にしているのですが、無自覚には同族経営に対する不信感、支配に対する依存反依存が働いていることが浮き彫りになってきたのです(依存反依存:人の心理の一つで、自信がないために権力へ依存しようとする欲求とともにその権力に逆らうことで自分を主張したいという権力欲求における特有の反応)。

そして自分たちの権益が承継企業によって奪われるのではないか、自分たちが作り上げた座を奪われるのではないかと恐れ、暗躍を始めたのです。こうなると完全に利己です。それが彼らには認知できないわけです。

 

厄介なのはその中でリーダー格の人材は、どうやら幼少期に先に事例として挙げた崩壊家族での育成体験の過去があり、自らが忌み嫌う父親と同じような支配的な行動をとる習癖があり、それが自分の家族内での関係にも影響しているにも関わらず、それが自覚できないといった認知拘泥の権化のような人みたいなのです。

そういった人がアンコンシャスバイアスを駆使して暗躍し、謀略する組織をどう運営していくか、かなり頭の痛い話です。これこそが認知相違が政治的行為を生み出し、権力構造を生み出す一例であり、そしてそういった行為や欲求がまた新たな認知相違を生み出していく起爆にもなっているという悪循環の典型といえます。

認知相違自体も大きな課題ですが、それを過剰化する感情や政治的な要素の影響も非常に大きな課題といえます。

 

組織開発を考えるときに理屈ばかりを取り上げる人が多いのが実際です。主に学者然とした現場経験の不足者に多いように思います。世の中は「頭がいい奴がいがみ合っている」ばかりではありません。

まして意見の相違といった知的レベルでの相剋は稀有です。殆どが感情的軋轢、政治的葛藤です。理屈の組織開発など役に立ちません。話せば分かるレベルの研究でお茶を濁してはなりません。実務家にとっては「切れば血が出るような実戦。時には誰かを犠牲にするような介入」しか意味をなさないのです。

 

今回は認知相違を修正し、関係を良好にして生産性を高めていく上で避けて通れない感情的抵抗と政治的な立ち回り。その一端をご紹介させていただきました。

 

因みに感情には感情、政治には政治、権力には権力でしか対抗できません。これまで知情意という概念を度々ご紹介させて頂いてきましたが、政治も権力も知と意の間には存在しない概念です。つまり「理」では解決しないということです。

政治や権力、そして感情(情動ではありません)は全て意と情の間に存在する概念です。ここに位置するのは「気」です。

 

「気持ち」「気構え」「気力」そして「勇気」「根気」「気配り」。「気」には「理」同様に様々な要素があります。「気」とは「エネルギー」のような存在です。「理」が「方向づけ」とすれば、「気」は「波動」です。どんなに方向づけが良くても波動が弱ければ影響力は持ち得ませんし、どんなに波動が強くても方向づけが歪んでいたり、ズレていれば、これまた影響は出てきません。両者はセットの存在なのです。

実践としての人間関係における問題解決は理と同様に気の扱いが大きく関係してきます。組織開発などはまさにその中核的なテーマです。

次回は「気」について考察してみたいと思います。

 

感情抵抗による暗礁乗り上げ、政治的な立ち回りによる行き詰まり。皆さんはこういったご経験はありませんか。皆さんも少し自組織やご家庭、自身を内観して見て頂けるとまた新たなる視点が生まれるかもしれませんね。

夫婦でも権力問題はあるのです。いやそれが起因した喧嘩の方が多いかもしれませんね。

 

さて、皆さんは「ソモサン」?