• 認知相違を調整するときに見逃してはならない人間の人間たる反応を探究する

認知相違を調整するときに見逃してはならない人間の人間たる反応を探究する

認知相違における論理と感情

 人の「意志」を組み立てる

・知としての「思考」

・情としての「感情」

は、時に同期して意思の発露に対して相乗的な働きをする一方、時に反発して相克的な働きをすることもあるという非常に厄介な関係にあります。

知情の両者は、内面的にも対人的にも共にコミュニケーション形成の両翼を担っているのですが、生理的に感情の方が思考よりも直観的に発動し、かつダイレクトに伝わるため、コミュニケーションの良し悪しは感情に支配されるのが常といえます。

にも関わらず巷間でコミュニケーションの効果性を問う場面において、感情の持つ影響を取り上げることが非常に少ないのはどうしてでしょうか。

傾聴力実習とかアサーション(主張)実習とかオープンダイアローグとか様々な認知相違を是正するためのコミュニケーション力向上の手立てがコーチングやリーダーシップといったマネジメント開発の中で紹介されるのですが、感情を制御する手立てを紹介することは本当に稀有です。

 

傾聴するにもロジカルにコミュニケーションするにも、ディベートを有効にするにも、とにかくその前に求められるのは感情に揺さぶられることのない冷静沈着なファクト(事実)やエビデンス(証拠)ベースでの思考とそれを相手にも演出する伝達力です。

思考の論理性は話す内容や語彙力で決しますが、

感情は

・話し方

・言い回し

・抑揚

・顔つき

・表情

・態度

といった行動ベースの表現で伝わります。そしてそこから生み出される感情の波動は相手に対しても思考や論理ではなく、感情を直撃します。そして感情の持つエネルギーの熱量は摩擦熱のように双方に対して過熱化していきます。

このエネルギーがプラスのモノであれば問題ない、というよりも話の促進剤としてむしろ歓迎するところですが、マイナスのもの、特に怒りの感情となると非常に厄介で非生産的な状態を引き起こします。

時には感情が感情を引き起こし、暴走的になって自分でも手に負えなくなることがあります。振り挙げた拳を降ろせなくなるといった体がその好例です。

 

認知も意志の一つです。ですから認知も「思考という論理面」と「感情という情緒面」の二つの顔を持っています。認知自体は思考から生まれていますが、その体を感情という衣が纏って一体となって存在するということを見逃してはいけません。

ヘイトクライムも、その発端は論理面から発せられた認知相違ですが、それをマイナス的感情が後押しするような形で苛烈化し、抜き差しならない状態に陥ってしまった典型であるということが出来ます。

 

対象とする認知がより原体験に根差すような、或いは自己存在のあり方に根差すような深層な内容であればある程、その反応は生理的になります。より条件反射的、感情的な反応が発動するということです。

また認知が生み出した想念に対して思考的な対処が出来ない場合もその苛立ちによって感情が鎌首をもたげます。例えば、誰かから答えきれない問いを受けた時に、理由もなく八つ当たりをするなどはその一例です。

ですから認知相違を調整するにおいて、どんな認知においても一定の用心深さが大切になります。とにかく認知を扱うときは感情の取り扱いを抜きにしては始まらないということを頭に入れる必要があります。

 

さて、感情が思考を凌駕してしまったり、感情が新たなる思考を生み出してしまうということは皆さんにも経験がお有りのことと思いますが、認知相違において感情が先に立つのは具体的にどういう場合でしょうか。

 

認知相違において感情が問題化しやすい日本の事情

考えが違うということは日常茶飯事です。誰しも人生経験も学習領域も環境も千差万別ですから、むしろ相違していないことの方が異常といえます。ですから前提としてそれを受容していれば、そうそう感情に揺り動かされることなく対話できる筈です。

欧米の人たちは結構そういう発想も訓練も身につけているように思います。この能力は人種や民族で違いはないはずです。にも関わらず日本人は論議もさることながら、認知相違自体を非常に嫌がる、気にする民族です。

この背景には島国根性とも称される集団主義があります。個よりも集の存在を優先する。集を守るためには個を犠牲にしても厭わないという民族的な思想観です。

何故そうなのかという原因遡及に入ると紙面にキリがありませんので今回は割愛させていただきますが、ともあれこの思想観によって日本人は「和を持って尊しと為す」を旨として忖度や同調が基調の価値観を持ち合っています。

昔アメリカの民俗学者が「日本人の生活様式」を研究するために家庭訪問をしてその家の食事を見せて貰おうとしたそうです。すると海外では「どうぞどうぞ、我が家ではこういった特徴がある」と各家庭が自慢するのに、日本では一様に誰もが「いやあ、うちは特によそと違いはありませんから。一緒ですから見ても仕方がないですよ」と口にしたのだそうです。

実際に訪問すると、味噌汁一つにおいても各家庭で全く異なり、「本当におかしな反応をする民族だ」と驚嘆したという話を伺ったことがあります。

 

この幼少から刷り込まれた社会教育によって、日本人は人一倍同調意識が強い民族特性を持っています。ですから自分が少しでも人と違った認知をしていると意識することを殊更忌み嫌う自動思考をするところがあります。時には同調圧力によって違いを封じ込めようとするような暴挙に出ることさえあります。

これが村意識であり、未だ情報の流通が少ない田舎に行けば行くほどこの色彩は濃くなっていきます。

 

ただアメリカなども南部など田舎に行けば行くほど日本と同様の反応をするようで、人種差別もここに起因する面も強いようです。こういった集団思考が国レベルで起きるのが日本の特徴といったところでしょうか。

何れにしても日本人における認知相違やその調整を考える場合、この本質論をしっかりと押さえた上でことを語らないと、大きく肩透かしを喰らう羽目に陥るのは間違いのないことです。そこに日本人がどういった認知相違に対してすぐに感情的になるかも事前に判断できる材料が潜んでいます。

 

集団思考とは、長い歴史の中で情報的に閉ざされた意識を集団が共有化し始めることから始まります。それによってますます閉鎖性が高まる中で集団による自己弁護が異常に強く働くようになり、それを誰もが疑問に思わなくなった(或いは言えなくなった)慣れの中で、自分たちの集団に対する過大評価が加重化し始めます。

それに伴って集団外部に対する偏見を強く持つようになっていることが日常意識化した思考状態、それを集団思考といいます。

それによってその集団の構成員は、自分の意見が集団内の明白な合意から外れていないかを自ら検閲する行為や、決定が多数派の見解と一致するよう留意するといった意識を持ち始めます。

これによって個々としては論理的な人が集団に埋没する中で、思考低下、思考停滞し始めるというおかしな現象が起き出します。

 

そうして認知相違のきっかけとなる認知の歪みを起こし始めます。例えば、

  1. 決めつけをし始め、代替案を充分に精査しなくなる。
  2. 本来の目標よりも集団を維持させるための目標に執着し始める。手段が目標化する。
  3. 多様性がなくなり、採用しようとしている選択肢の危険性を検討しなくなる。
  4. いったん否定された代替案は二度と再検討しなくなる。
  5. 情報をよく探さなくなり、自分に都合の良い情報ばかり集め始める。
  6. そうして手元にある情報の取捨選択に偏向が強くなる。
  7. 非常事態に対応する計画を策定できなくなる。

といった按配で、いわゆる自己保身の状態が個人としても集団としても常態化しています。結果として、認知のあり方に対して無関心、無感覚になっていくのです。

 

こうして多くの人の思考力が低下するとともに、そうでない人は強い葛藤が沸き起こることになり、自然感情が優位に勃興し始めることから、「悪貨が良貨を駆逐する」如く、認知相違に対して感情的な反応が先に立つようになるのです。そう、日本人はこういった歴史的に培われた集団思考に起因して、認知相違に対して過敏で、かつ感情的に反応する傾向が強い民族といえます。

韓国人はこれがより強いのかも知れません。日本はこの感情論によって戦争に負けたことがテコになって戦前よりも理性的に成長したという見方もできると私は思っています。

 

感情問題を複雑化させる本質的な欲求とは

このように日本人は民族的に認知相違に対して特別感情的に反応しがちな特徴を持っているわけですが、この集団主義における階層社会の思考は、感情的反応を引き起こす人間の持つ本能的な領域、つまり欲求反応を煽る側面も持ち合わせています。

人は生存や安全といった生きるための衛生的な欲求、生きたいとか死にたくないとか、安全に暮らしたい、生活を保障されたいといった消極的な欲求を動物同様に無意識に持っていますが、同時に集団によってその欲求を満たすべく組織化した経緯の中で、よりその欲求を満たすべく、

・積極的に集団に受け入れられたいといった承認の欲求

・集団の中で認められたいといった権力の欲求

を生み出しました。

これが満たされて初めて人は自己実現、つまり自分は自由であるという欲求が満たされることになります。

こういった欲求への反応行動は動物的に深層的な反応ですから、その表出は非常に原始的、つまりは感情的なものとなりがちです。ですから自分が持つ認知が他者から見た場合、受け入れられないとか、認められない、時にバカにされているとか、舐められていると判断すると思考よりも感情の方が打ち勝ってしまう反応に陥ってしまうことになります。

これがまた別の認知として、他者がそこまで感情的に見ていなくても、欲求への劣等意識やそこからくる防衛機制が強い人は反射的に感情が湧き出てしまうことになるわけです。

一言でいえば「子供」。対人関係やコミュニケーション的な場に対する修練不足です。これは学校秀才のようなアビリティという保有能力ではなく、コンピテンスという影響能力の優劣が基盤になります。

今の日本の教育機関はアビリティ開発偏重でコンピテンス開発が幼稚な状態です。認知相違が論理的対話によって生産的になるにはこの点が足枷になっているのは情けない限りです。

更にこの集団主義による階層意識への過剰反応は、感情爆発という反応行動のみならず、異常な認知構造も生み出しています。例えば「社会的に成功している人は、立派な人物である」とか「男性の価値は、経済力である」というバイアスが強い人の特徴は日本特有の階層社会的集団主義からくる認知の歪みと云えます。

これが至極当たり前のように発想されるのが第一段階の問題とすれば、こういった階層に対する欲求反応によってその認知を保守しようとし、それに異議を唱えられると感情的に反応するのが第二段階の問題です。

 

特にこの集団主義に更に家族主義が加わった中で幼少期から刷り込まれたスキーマによる承認反応が無意識に発動すると感情的な反応は倍化します。スキーマとは幼少期に環境によって刻印された承認欲求や感情要求のパターンですが、特に早期不適応スキーマは集団生活の中で「自分はそうしないといけない」「自分はそれをしないと受け入れられない」と信念的に刻印した思考パターンで無自覚な条件反射的反応にまで深層化された意志です。

ですからスキーマが満たされない状態に陥ると認知相違以外のバイアスが発動し、猛烈な感情的抵抗が発動されます。

ここら辺は今弊社のYouTube(JoyBiz組織開発チャンネル – YouTube)で精神科医であり禅の僧侶である川野泰周氏と対談していますので、ご覧いただけますと幸いです。

 

閑話休題。加えて、集団主義がもたらす認知生成は、感情的反応のみならず、権力に対する政治的反応も引き起こすのでより厄介です。政治的反応とは、忖度や迎合がありますが、意図的立ち回りや操作的な反応があります。

認知相違を調整するにおいて合理な論理ではない別の論理が表に裏に横行する中での問題解決は複雑怪奇な様相を呈します。これは問題解決においては感情的な反応よりも面倒臭い領域と云えます。

この政治的、権力的反応は実際の認知相違の調整において一番多く障害となる事象というのが私の実経験です。人によっては認知相違を自己利益の手段として狡猾に利用する場合もあります。

 

ということで、この政治的、権力的反応にどうアプローチするかは感情的反応へのアプローチも含めて次回詳しくご紹介させて頂きたいと思います。

良薬口に苦し、目には眼を。謀略も戦略なり。アプローチは様々です。乞うご期待と願います。

さて、皆さんは「ソモサン」?