• 日常における認知相違を調整するのに効果的な方法と仲介役の機能を考える

日常における認知相違を調整するのに効果的な方法と仲介役の機能を考える

ソモサンは一応私的なブログとして綴っていますので、ある程度本音ベースで歯に衣着せずに表現しています。それこそ隠喩などは無学な人には認知相違を産む元凶になり兼ねません。無知や無学は現実にある話です。

 

先だって神奈川で大学生を車で追い回した挙句、脅しや器物損壊で逮捕された30代の若者が2人いましたが、今の社会で証拠が明示されるリスクも考えずに、瞬間の感情に打ち負かされて蛮行を起こす人をどう表現すればいいのでしょうか。

社会には本当に色んな方がいらっしゃいます。日々ハラスメントの話題に事欠きませんが、傍目で「常識だろう」と思っても、本当に非常識を常識的に認知している人は星の数の如くです。まあ常識という言葉自体が具体的ではありませんので、常識もカオスの中にあり、といったところでしょうか。

 

大騒ぎになった森元首相の失言(よく前後を聞くとそんなに酷くはないのですが、マスゴミさんが儲けのために発言を切り取って誇張した面もありますが)も彼自身の中では常識内の発言だったのだと思います。

私的にはこの場合の認知相違は女性の地位に対する認知相違以上に世代間で起きた認知相違の方が大きい気がしますが、何れにしても認知相違とはそういったとても感覚的なところで生じる非生産的な現象と言えます。

 

こういった社会的なレベルでの認知相違を導き出す認知の在り方を「アンコンシャスバイアス(無自覚での歪んだ想念)」と云います。認知相違がアンコンシャスバイアスレベルの場合、対人関係問題は大きな弊害を生み出します。

人種差別や民族差別におけるヘイトクライムなどはジェノサイトと呼ばれる大量殺戮までをも引き起こす大きな邪(よこしま)なうねりに繋がっていきます。

 

私たちの身近でも先の女性蔑視を始めとした性差別や障害者差別など様々な社会的な歪みが非生産的な状況を生み出しています。森元首相の失言などはその好例と云えます。

しかし認知相違はそういったアンコンシャスバイアス的な顕著な問題ばかりではありません。個々人における対人関係上での価値観のズレや勘違い、思い違いといったどちらに非があるということではない、日常的な食い違いによって引き起こされるレベルもあります。むしろそういったものの方が圧倒的です。

 

認知相違の2つのパターン ~論理ベースと観念(信念)ベース~

こういった認知相違には2つのパターンがあります。

・論理ベースでの認知相違

・観念や信念ベースでの認知相違

です。

論理ベースにおける認知相違は更に2分できます。

・情報収集段階における事実関係でのズレ

・持っている判断段階での持っている基準でのズレ

です。

 

前者の場合は凡そ「話し半分での認知、足りない情報や偏った情報での勘違いとか早とちり」によるものです。そして後者の場合は「聞きたいように聞き、見たいように見る」といった確証性バイアスのような感覚的な思い込みとか思慮不足による決めつけによるものです。

何れにしても論理的な齟齬が原因となっている認知相違は、両者が合理的な思考によって事実を精査したり、合目的的にお互いが歩み寄れば相違は比較的楽に改善されます。

しかし言うは易く行うは難しで、現場レベルで体験する限り、このレベルでのズレもなかなか解消は力が要ります。何故ならば市中の大多数の民衆で十分に論理的思考が出来る人は意外と少ないのが実際だからです。

最初で紹介した大学生を追い回した馬鹿垂れの様な人はそこら中にいます。コロナ禍でも酔って大声で騒ぎまくる輩や寄る年波で思考力が劣ってきた人など、浅慮な人は結構多いのが実状です。

 

また、こういった認知相違において最も取り扱い的に厄介なこととして感情の処理があります。認知相違自体は見解の相違、つまり論理的な齟齬なのに、そのズレに対して防衛機制や慢心、又はアンコンシャスバイアスによる思い込みに突き動かされた感情的な昂揚が絡んでくると、相互の噛み合わせは非常に難しくなってきます。

人間の本性として、感情は論理よりも原始的なコミュニケーション手段として進化的に身に着けていますから、人は感情が出てくると論理、つまり思考力が低下する習性を有しています。

その元々思考力に打ち勝つ感情という存在を日常的に制御する訓練がされていないのがいわゆるバカタレ人材ですから、こういった人と認知相違が起きた場合、認知相違自体は論理レベルであってもすぐに感情が噴出してきてますます思考低下を倍加させて来るのですから全く始末に負えません。

 

さて論理的齟齬における認知相違の何十倍も調整に難航するのが、観念や信念ベースでの認知相違です。しかも社会的に正解といえる握りがないズレを嚙合わせるのは至難の業です。

 

例えば昨今のコロナ禍において論じられる対策を経済優先に行うか生命医療優先に行うかといった認知相違はその典型です。この論議は双方ともに未来が読めない中で為されています。つまりどちらが賢策かは全く五里霧中です。こうなると主張の姿勢は真に言いたい放題です。

こういった場合顕著なのは、両者ともに本当に相手の話を聞かない人が多いということです。そして相手の立場にも立った、相手の論理をも取り込んだ意見が少ない。ともかく自己主張への拘泥のみが目に付き、目的と手段が混ざりこんで勝ち負けの様なやり取りが横行するといった状態になります。

私など両者の良い部分を調整して施策をするのが賢策のように思うのですが、とにかく相手を攻撃する発言ばかりで閉口します。マスコミは自説もなく発言責任もなく、両者を扇動するだけ。まさにポピュリズムの典型です。

 

ともあれこのレベルでの認知相違もやはり感情が思考を支配する図式です。しかしこの場合は思考低下というよりも、感情が信念を焚きつけて偏った思考を煽り立てるという点でこれまた始末に負えない状態となります。

ここにはアイデンティティ保守に対する防衛機制(受け入れがたい状況、または潜在的な危険な状況に晒された時に、それによる不安を軽減しようとする無意識的な心理的メカニズム)が関わっていますので事態はより複雑深遠です。

防衛機制とは感情すらも凌駕して起動する本能的なメカニズムです。意識的な制御は困難です。ある種条件反射の様な領域です。一旦発動すると手に負えません。防衛機制に対する施策は事前に発動しないように誘導する以外に手はありません。

 

当事者同士での解決が不可能なくらいコトがゆがむこともある ~必殺「仲介」人の仕事:感情問題と権力問題をディールする~

こういった心理的なメカニズムが対人関係として両者に発動するとどちらか一方というわけにも行かず、状況は絡み合って本人たちでは紐解くことが出来なくなります。

論理的齟齬の様に目的に向けて両者で妥協するとか握るといった思考的なアプローチでは太刀打ちが出来ません。こういう場合に重要になるのがファシリテーターとか行司(ぎょうじ)役と呼ばれる中立的な仲介行動の存在です。

 

仲介機能は

・まず感情の抑制と低減

・そして論理的齟齬の原因となる認知相違の論理的整合の促進

・更には権力構造のバランス取り(均等化)

です。

この感情や権力(政治力学)は認知相違においてズレの行方を左右する隠れた焦点です。認知相違自体は大きなズレや齟齬でもないのに、この外野的な存在がことを肥大化させたり、アプローチによっては是正促進させる原動力にもなり得る大きなエネルギー源となります。

認知相違を上手に調整していくにはこのエネルギー源をどのように扱うかが肝にもなります。このエネルギー源に関してはまた改めて紹介しますので頭の何処かに留めて置いて頂けますと幸いです。

 

さて認知相違調整のアプローチとして、第三者的な仲介を効果的に活用するという方法を意外な位に軽視して、当事者同士で事に当たり、物事を更に歪めてしまう状況を目にすることが余りに多いのは驚きに値します。

日本人の場合、集団主義の弊害で集団思考という心理作用が元凶となって、閉鎖主義が横行し、何でも当事者間で解決しようとするのは悪癖の一つだと云えます。

その一つにカウンセラーの活用も上げられます。認知相違は個々人の内的心理の中での葛藤なども挙げられます。この葛藤が酷くなるのが鬱です。更に病的になると解離性心的障害に陥ります。

内面の問題ですから自助努力で解消するのはほぼ不可能です。そこで調整に仲介介入するのがカウンセラーです。にも拘らず、精神病は忌むものといった古来日本の集団主義思考の弊害でカウンセラーを遠ざけようとし、手遅れ状態を生み出すのは非常に残念なことと云えます。

 

世の中には様々な仲介役がいます。コンサルタントもその一つです。コンサルタントの本来の仕事は指南役ではありません。組織内の調整役なのです。

経済学者や医療学者は元より、経済評論家なども医療評論家なども実務者や一般市民が無知や情報不足によって認知相違を起こさないように仲介するのが本来の仕事のはずです。

特に昨今の思考しない大勢の市民。そして思考不足に基づいた認知相違(最早アンコンシャスバイアス)、そして歪んだ認知に率いられての確証バイアスや正常性バイアスでの正義中毒と感情抑制が出来ない低能的なバッシングや誹謗中傷の嵐。

こういった社会を荒廃させる状態が認知相違の中で累乗化され続けています。それを低減する行司役が学者や評論家の仕事のはずです。中にはあえて自分が悪者になることを覚悟して自説を主張している人もいるのは確かです。しかし大勢が無責任に自説を唱える中で、誰が正義で誰が悪人かが根準する状態になってしまっています。

本当にどうなってしまっているのでしょうか。これは無知蒙昧な市民の性(さが)でもありますが、やはり情報という権力を有しているマスメディアの無責任さがもたらす罪が大きいように私は思う次第です。

 

そして賢明な人たちから学者や評論家は元より我々の様な仲介役の仕事まで無用の存在、嫌悪の存在とみられるのは残念な限りです。

認知相違を調整する促進剤としての第三者の活用、皆さんにも仲介役の機能に見識を持って見ていただけますと非常にうれしい限りです。この改善手法が良い意味でコモディティー化した時、初めて仲介的な区割りや仕事が虚業ではなく、実業として認知されるものと固く信じているのが私の信念と使命感です。

はて皆さんとこれにおける認知相違は如何なものでしょうか。

 

さて、皆さんは「ソモサン」?