認知相違を低減して組織力を高める理念という力を考える

コギャルアプローチの2つの側面

これまで認知相違とはどういったことを言うのか、ということについてご紹介をして来ました。人それぞれに出自が異なるように、有する価値観は千差万別です。当然それぞれが抱く認知の有りようも異なります。

そして人間間に認知相違が生じる限り、コミュニケーションは阻害され、様々な誤解や感情的齟齬を頻発させ、それによって個々人の生産性、引いては集団の生産性が相当に低下することは明白なことと言えます。

それにしても認知相違が生み出す社会生活上の負の力は想像以上の弊害や破壊をもたらします。精神面のみならず物理的にもマイナスの影響を撒き散らします。戦争や殺人、差別やハラスメント、あげ始めるとキリがありません。

 

ではこういった認知相違が生み出す負の状況を少しでも低減する手立てはないのでしょうか。

ということで今回からそろそろ改善へのアプローチ、まさにコギャルAに話の駒を進めていくことにしようと思います。

認知相違調整に対するアプローチは、

まず

「認知相違が起きないようにする側面」と

「起きた場合、起きている場合にそれをどう改善するかの側面」

があります。

 

今回は両側面にも適応でき、また難易度的に最もアプローチし易い切り口から話を展開していくことにいたしましょう。認知の違いにおいて最も軽易な領域は知的面において生じる「無知」そして「思考のズレ」です。

要は「知らなかった、情報が足りていなかった」「方法的な考え方に違いはあるが結果に対する考えには違いはない」といったことから来る認知の相違です。

お互いが持っている情報になんらかのズレがある場合、持っている情報を共有するだけで認知を整合できることは多々あります。いわゆる勘違いや思い違いという錯覚的な認知相違です。

でも侮ってはなりません。ことによっては同じ情報でも、その人の背景や思考のあり方によって情報の見方や受け取り方に相違が生じることもありますから、単に情報を共有するだけではなく、情報の持つ意味や意味づけまでも同意となるように共有する努力の必要があります。

さてこの背景や思考のあり方ですが、やはりことによってはどうしても情報を共有するところまでしか至らない場合もあります。その時に重要になるのが一定の妥協と握りになります。

アプローチの柱は目標を共有し握ること:理念やビジョンの意味

思考のあり方は同意とまでは行かなくても握ることによって一定の力を方向性に集約することは可能です。その最も起点となるのが方向づけとしての目標の共有と握りです。ここでいう目標とは単なる数字や行動のみならず、理念のような思いや意志が中心になります。

認知相違のきっかけとして、「人は最初に自分なりの正解を描き、それに合うように物事を見る」というバイアスに関わる習性がありますが、その正解を想定する前提として、人はその人なりに求める欲求嗜好とそれに対する目標を内在しているということがあります。

当然価値観や欲求が異なれば目標も異なって来ます。それに従って行動にも違いが起こるわけで、それが様々な生産性、特に集団としての生産性が低減してしまう原因となっています。

ということはそれを省みて、個々人の目標をより包含した目標によって共有化することによって、個々人の価値観や欲求を一定程度擦り合わせ、お互いに目標を握らせることから行動の一元化を図り、それによって集団の足並みを揃えて生産性の向上を促すことも可能であるということも言える訳です。

そう、これが企業などが理念やビジョンを重視する所以です。そしてドラッカーが提言した「MBO(目標管理)」の意味するところでもあるのです。

 

さて、では思いや欲求、価値を統合する目標というのはどのような要件が有れば良いのでしょうか。

これが正解というものではありませんが、一般にはドラッカーの目標管理の考えからの流れを活用して大きく三つの要素を上げるケースが多いようです。

それは、

・未来へ向けての方向づけ

・周りに対しての存在意義や役割

・内部に向けての拘りや信条

です。それぞれビジョン、ミッション、バリューと呼称しますが、未来、現在、過去を示すものとも言えます。会社によっては理念とか社訓とか言い方は様々ですが、企業理念という目標概念でこれを一つの括りとして考えることが多いようです。

しかし、これはあくまでも模範回答です。大事なことはその企業によって何を重視するかが異なり、その順番や立ち位置はそれぞれなので、その優先順位や表し方はそれぞれで構わない、と言う事です。

企業によっては敢えて描かない場合もあります。三井や三菱のような組織はドラッカー以前からこういう概念を尊んでいましたから、家訓というような表現で理念を一元化しています。

時折順番といったことに拘る声を聞きますが、(特に受け売りのコンサルタントで主張する人がいますが、)ドラッカーがいうからその順番を重視するなどというので有れば、それはナンセンスな話です。それこそ権威の受け売りで、魂が入っていないことになり、有名無実なものになりかねません。理念は思いであり、主体は創案者にあります。

 

ところで理念形成にはそれ以上に重要な視点があります。それは理念の存在が関係者の認知相違の低減を目指す手立てである、という本意に従う限り、本当に重きを置くべきはその生成過程にあるということです。

例えば理念の生成過程の一つとして、よくプロジェクトによる作成というアプローチという方法を使います。ところがこの方法を誤って導入すると本末転倒の状態を引き起こしてしまうことになり兼ねません。

プロジェクト方式自体を否定すべきものではないのですが、多くのプロジェクトのあり様を見る限りこの本末転倒をよく目にします。悪く見ると、私的にはどうも本義への理解不足の企業がコンサルタントの金稼ぎの一つに引っかかっているという感も湧いてくる次第です。

見ていると、導入者や参加者どころか、酷い話コンサルタント自体がプロジェクト作成の本義が分かっていないままに運営がされていると判断できる場合があります。

くどいですが、現場の主体性喚起や認知相違を低減させる様な普及の仕掛けのために現場参画で作るのは方法論の一つではあります。しかし、それはあくまでも経営リーダーの演出であって、理念の骨子は経営リーダーの専権事項です。

理念とは本来経営者の意思表示であって、経営者の思いを広く伝播することによって関係者の思いや目標を自分の思いにたばねるのが目的だからです。プロジェクトはあくまでも認知相違を軽減するための手段ということです。

古い話ですが「ビジョナリーカンパニー」という書籍がヒットした時、それを読んだ大手書店の経営者からプロジェクト丸投げの依頼を受けた時にはびっくりしました。お断りしましたが本屋さんでそうなんだ、といった体でした。営業には非常に恨まれましたが。

 

経営者においては、自分が持つ哲学観を理念という形によって表面化した後、それを多くの人に共有させたり、主体物にさせるために演出としてプロジェクトとして肉付けさせたり、普及物を作らせるのは構いませんが、それを為すには、期初に経営者からしっかりとした哲学観をメッセージしたうえでプロセスに入らなければならないということだけは銘記しておかなくてはなりません。

理念は本来認知相違を調整するはずだが・・・・

残念ながら巷間を見る限り、先の書店経営者のように理念作成を自分の哲学観も示さずにプロジェクトに丸投げする経営者の姿や、経営者の本意も分からず、ただプログラム的にことを進めるコンサルタントが一杯います。

外資系コンサルタントでも多く見られますが、理念が持つ意味すらも分からずに海外からの権威主義的なメソッドによって形骸的な理念を構築するコンサルタントの姿勢や使命感とは一体どういうものなのでしょうか。

結果そうやって作られた理念は文言が美しいだけの有名無実なものとして披歴されるケースが後を絶たないのは悲しい限りです。

 

当然これは認知相違へのアプローチとしては最悪のケースとも云えます。理念形成を現場に委ねることのコーディネートは最も難しいコンサルティングの一つなのですが、発注者の思いのない、無理解な中でこういった趣旨の依頼が来る場合、本当に心細る思いだったのが、私が創業を志した一つの理由となっています。

安易に現場に会社の哲学を丸投げたり、思いのないコンサルタントがプログラム的に作るというプロセスは本当に恐ろしい行為です。

まず知識や思考力の乏しい人にいきなり高次の思考をさせることへのアプローチの難度もさることながら、人生観として自らに信念や目標のない人や或いは組織貢献への問題意識が低い人に対して、その人たちの意識レベルを開発しながらことを進めるには恐ろしく手間や暇が掛かります。一定期間でやっつけというわけには行きません。

 

前職などでも安易に相手のレベルも考慮せず、何日で作ります、と言った相手の状況や都合を無視した無知な営業などの無責任なお手盛りの提案を間に受けて、魂が入っていない型通りの文章作りを頼まれ、結局は予想通りの結果となって閉口したことが結構ありました。

理念形成に最も重要なのは思いの注入です。それは相手の状況やレベルで大きく異なってきます。型どおりで作れるようなものではありませんし、大体そういった発想で思想を組み立てようとすること自体暴挙と云えます。

 

成果物を出すことよりも成果物を創造する集団によるプロセスこそが、現場における認知相違の実際を相互に確認し、組織としての一定の妥協点を見つけながら握る心理的な作業として最も重要なポイントといえます。

理念形成は論理的プロセスではなく、心理的プロセスが急所な訳です。これが肝に銘ざれていないプロセスによる理念は形骸的になること必定です。

従ってこの作業には「人を見て法を説け」の能力が選定者にも実施者にも望まれます。知的にも意的にも、そして情的にもポテンシャルの高い人でないとプロセスには多大の時間を要することになります。

特に日本の場合、年功序列でのお手盛りな管理者が多くいます。管理者だからといって責任感があるとは限りません。形式的に人材を充てがったプロジェクトは難儀なものとなります。

コンサルタントも本当に求められる能力は知識ではなく、心情的なプロセス処理力になります。これは認知相違の低減策の全てで言えることです。

 

昨今成人を過ぎても自分のアイデンティティや目標が作れていない若者が増えています。そういう人に限って会社に染まりたくないとか、自分らしく生きたいなどと組織に依存しながらも利己的欲求を全面に出して来る未成熟な人が社会にどんどん排出されてきています。

そして自分の欲求や認知を全面に出して、時に会社を敵対視した行動を取るような無学な輩も増えてきています。社会行動の何たるかも、組織行動の何たるかも、はたまたブラック企業の何たるかも分からず、十把一絡げに物事を捉えて想像の中だけでの正義感をぶち上げる。

そうして自分の行動が誹謗中傷か否かも判断できずに確証性バイアスを撒き散らす。こういった認知相違を自ら低減する術を持たない無教養な若者が増殖しているのが実態と言えます。

そういった場合、企業側にも理念がないところはそういった未熟な動きに翻弄されます。そしてそういった組織は考え方がバラバラな中で力が結集せず、人間力の喪失による経営破綻が起きてきます。

古くは松下電器が破綻しかけた時、従業員が一致団結して会社を支えた話があります。日本電産でもマスコミがブラックと騒いだ時に従業員が「当事者でないものが余計な口出しをするな」と一蹴した歴史があります。真実は分かりませんが、ここには一定の理念浸透を感じます。企業を自分の持ち物と全員が捉えている力強さを見るところがあります。

 

さて皆さんの組織は如何でしょうか。従業員のパフォーマンスは技能の前にまず思いがあるか、そしてその思いが所属する集団に向いているか、です。私はそう考えてコンサルタントを行なっています。

 

さて、皆さんは「ソモサン」?