心理的バイアスを加重させる集団本能的欲求を考える

前々回からの続きです。心理的バイアスは人間の本能の反射に応じて無意識としての感覚、前意識としての感情、そして覚醒意識としての観念という順に知覚されていきますが、三位は一体化した世界です。

ですからいきなり快・不快という感覚から感情や観念が呼び起こされる場合もありますが、観念がまず刷り込まれてそれに繋がって感情、そして感覚が呼び起こされることもあります。先々週ご紹介した私のウニに対するバイアスは前者、そしてシャコは後者と言うことになります。

 

意識の構造;無意識・前意識・覚醒意識

多くの場合感覚から作られたバイアスは

 

・経験則からのヒューリスティックパターン

・観念から作られたバイアスは教えによるビリーフパターン

 

によるものです。

 

何にしても両者は共に価値観として心に刻み込まれ、意識的にも前意識的にもそして無意識的にもその人の評価基準や判断基準となって、快・不快や好き嫌い、そして良い悪い、善悪への反応に反映されます。

心理的バイアス自体は観念領域の存在です。しかしこのバイアスは感覚、感情、観念といった意識全体に投網を掛けて機動する存在になります。特にその立ち位置のほぼ全てが無意識や前意識にある感覚と感情はほぼ表裏一体の関係にあり、どちらも意識的な制御が非常に難しい領域です。

 

また感覚や感情はその位置エネルギーがかなり強く、動的化した場合の勢いは強烈です。そのエネルギーが生み出す力は相当に俊敏で激しいと云えます。従って一旦発動した場合、観念のような静的なエネルギーで制御するのはほぼ不可能に近いのが実情と云えます。

一旦エネルギーを発露させる以外にアプローチすら叶わないのが実際のところです。ですから怒りや義憤、悲しみや憤りといった感情レベルの反応を直接的に刺激するような心理的バイアスの取り扱いは要注意です。

また感情発によって刺激される感覚は感情を更に加重化させ、それによって冷静さを欠いた中で噴出する激情に従って湧き出る観念としての思考は、再び感情にフィードバックされることによって感覚、感情、観念を三位一体的にうねらせ、それによって苛烈化していくことになります。そうなると自己制御はほぼ不可能な状態に陥ります。観念で感情を管理するなど理想論で至難の業です。

昨今のマスク警察やSNSバッシングなどはこの典型といえますが、あれを見ればその道理は一目瞭然です。

 

内在する心理的バイアスが感情的な領域で発露するか観念的な領域で発露するかは人次第です。また有する心理的バイアス毎でも領域は異なります。まさに千差万別です。すぐに感情的になる人、あるいは感情的になる内容は定型ではありません。

さて生理的なバイアスはあくまでもこのプロセスを加速させ、より偏向させる役割に過ぎません。本当に厄介なのは心理的バイアスです。そして無意識的前意識に制御が難しい瞬間的に発露する感情的な反応行動と云えます。

 

他者との関係の中で発動する欲求感覚:承認欲求と権力欲求

ところで心理的バイアスを助長させコミュニケーションを阻害する要因として生理的バイアスや感情的反応が大きな存在であることは確かなのですが、実際の社会において意識的領域であっても、むしろ意識的だからこそ厄介な要素が存在しています。

これまでの阻害要因はおおよそ自己に内在する要素ですので、自らを律すれば相当の認知相違の改善は可能です。一方次の要素は相互関係の中に存在するものなので、いくら個人が内観したところで埒があかないことがほとんどです。

相違していると自覚していても相手が絡む内容だけに解決の手立てが見出しにくい要素といえます。

 

ではその要素とは一体どういったものなのでしょうか。

人は生存本能として、集団に帰属しようという欲求と自分の立ち位置を他者よりも優位にしようという欲求を持っています。それは集団や対人の中で自己を保存しようという感覚的かつ感情的反応です。

 

・帰属に基づく感覚が承認欲求

・優位に基づく感覚が権力欲求

 

と称されています。人はこの二つの欲求感覚によって他者と関係づくりしているのです。

 

承認欲求と権力欲求の取り扱いはかなり面倒です。両者は太古の記憶とされるDNA 的に継承されている欲求感覚である上に、幼少期のヒューリスティク(経験則)的にスキーマとして深層心理に刻み込まれた感覚だからです。

 

承認欲求は他者に自分を認めてほしい、受け入れて欲しいという感覚です。この欲求感覚は誰しもが持っているのですが、その充足度によって対人間に様々な問題を生じさせます。

幼少期にこの欲求が十分に満たされていないと、友愛精神や信頼というポジティブな気持ちが解せなくなり、人や物事に対する見方が後ろ向きでネガティブを基調とする様になってしまいます。

 

また愛情を代表とする情操が未発達なために感情の制御が熟しておらず、すぐに情動的、感情的になるのも特徴的です。加えて承認欲求が強い人は、それを満たす手段として権力欲求に感覚を委ねる傾向が強く、人一倍権力的な志向性を持つのでハラスメント問題を引き起こしやすいのも大きな特徴と云えます。

 

 

このように承認欲求は様々な心理的なバイアスを引きおこすことで人間間に様々な認知相違を生み出しますが、権力欲求は承認欲求の比ではありません。更に人間間に葛藤や障害をもたらすべく魑魅魍魎の如く蠢きます。

 

では権力欲求とは一体どういった存在なのでしょうか。 力とは「物事が変化する原因となるもの、またはその象徴」という定義がありますが、心理学的には「人が他者に対して意識や認知、そして行動に変化をもたらすように影響する原因となるもの、エネルギーのようなもの」と云えます。

一般に影響に対してする側もされる側も進んで(接近動機)関わろうとする要因を「権威」、逆に嫌だから影響されたくない(回避動機)ので、自らされない様にする側に関わろうとする要因を「権力」と云います。人は権威には鷹揚ですが権力には神経質です。

現在力には七つの源泉があると云われていますが、

 

1)専門性

2)情報性

3)人間性

 

などは権威的な勢力ですが、

 

4)公権性

5)関係性

6)報酬性

7)強制性

 

という順番に権力的な勢力に位置づけられていきます。

 

哲学者のニーチェの考えによれば、力への意志とは、達成心や野心など「人間を動かす根源的な動機」であり、「生きている間にできるかぎり最も良い所へ昇りつめようとする努力である。そして「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」である、としています。

ですから力への意志自体は人間の成長欲求にとって重要かつ必要な前向き要素だと云えます。

 

ハラスメントの本質とは

このように人は誰しも権力への欲求を持っているわけですが、この相互における権力欲求への執着や拘りが心理的バイアスを生み出すことになるのは難儀なものです。権力欲求は相互の強弱やズレを加えた上で、他の心理的バイアスと交差しながら大きな認知相違を引き起こします。

それらは社会的問題にまで発展するものが多々あります。その代表として認知されるのがハラスメントです。

 

ハラスメントは、他者に対し、不愉快な気持ちにさせたり、実質的な損害を与える嫌がらせのことですが、昨今では虐めを指す言葉です。現代はハラスメントの百貨店状態の様相ですが、どうしてこうなってしまっているのでしょうか。

 

権力欲求には思い通りにさせたい、といった意図的な支配欲求から馬鹿にされたくない、舐められたくない、といった自己防衛的な欲求まで幅広い範疇があります。応じて他者への態度も明らかな威圧から予期しない反発への戸惑いまで様々です。

権力欲求は被害者意識を助長しますから、やり手と受け手の認知相違が思いも寄らない悲劇を生み出すことが良くあります。やり手にとっては他愛のない悪戯でも、受け手はやり手の何倍、否何十倍もの恨みつらみといったネガティブ感情を抱きます。

 

セクハラから始まってパワハラやマタハラ、最近ではロジハラなるものまで出現してきました。

何れも性に対しての心理的バイアスや立場に対しての心理的バイアスといった観念的バイアスに交差して権力欲求による感覚的バイアスが影響に加重を与えています。

セクハラなどは、前提として男尊女卑観などによる思い違いが基軸になっている場合が多いのですが(それ自体は改めて論じたいと思います)、そこにやり手の権力的コンプレックスが潜んでいると心理は歪みの度を深めます。

コンプレックスは殆どの場合無意識的な反応として発露しますから、自分の発言や行動に無自覚な場合が多く、そこに思い込みが加わるのですから歪みの根は深く、そこへの気づき自体が難しい中で、それを修正するなど大海に豆を拾うが如しといったところです。

ハラスメント問題の多くはこういった権力欲求への執着やコンプレックスによる感情抵抗が潜んでおり、ナラティブのように話せば分かると云ったロジカルなものではありません。

多くの場合ハラスメントには必ず権力欲求に根ざしたパワハラ的側面が交差的に潜んでいるといっても過言ではありません。パワー問題は論理では解決できない別の力学が働いているということを見逃してはなりません。

 

またハラスメントには受け手が問題な場合もあります。ロジハラなどはその好例です。ロジハラとはやり手が無機な論理構成で受け手を虐め追い詰めるというハラスメントですが、確かに意図的な場合や機械人間か発達障害絡みの人間音痴による歪みもありますが、そもそも受け手の努力回避による怠惰や無知、無力が状況を醸し出している場合も多く、これを許容していれば、弱者の横暴を蔓延らせて衰退を引き起こしかねないというのも確かなところです。

認知相違はバランス問題です。まさに人間とは人の間と書く所以です。

次回以降は徐々に各論に突入していきますので、引き続きご支援よろしくお願い申し上げます。

 

さて、皆さんは「ソモサン」?