感覚、感情、観念という心の働きと心理的バイアスについて考える

組織の中でのハラスメントで顕著なこととして「予言の自己成就」といわれるものがあります。

例えば権力を持つ上司が部下に第一印象として「あいつはいい加減だし、だらしが無い」というネガティブな評価をしたとしましょう。そうすると確証性バイアスによってその上司はその部下のネガティブな面にばかり目が向くことになります。

自分が肯定したことの情報ばかりが気になるようになるからです。

そしてそれを見つけては部下に厳しく当たることになります。部下としては次第に仕事にやる気がなくなり注意力が散漫になるのは仕方のないことです。ところが上司はやはり自分の見立て通りだと自己を正当化してさらに評価を下げ、ますます辛く当たるという循環に嵌っていきます。

これが重なると、権力のない部下としては耐えられなくなってウツになるか職場を去ることになります。一人の部下を潰してしまったわけです。上司はそれを機に自分を内観したりして自分の問題に気がついて、なんて話になれば良いのですが、実際にはその上司はむしろ「やはり自分の思った通りだった」と自分のバイアスをアイデンティティにして自分の見方を強化していってしまうという流れになります。

 

人は自分を中心に人にもそれを当て嵌めたがります。インチキをする人間は皆もそれをやるものだと確証性バイアスを持って人と対峙してきます。トランプ前大統領も自分が投票でインチキをする人間だからこそ負けた時に相手にそれを強く主張したと考えることはあながちおかしいことではないと思います。

クリントンさんはそれでやられた可能性も否定できません。誰もそこを指摘しないのは面白いところです。

 

私も時折思ってもみないことを相手から疑われて驚くことがありますが、良く考えると疑う相手自体がそういった疑わしい行為をちょくちょくしていることに気がついて何となく合点が行く時があります。これも確証性バイアスの一種といえます。

自分が思うことには意識が集中して気になってしまう。そして物事の因果関係は複数の要素から成り立っているにも関わらず、原因を勝手に自分がやりがち、つまり肯定とする一つに勝手に絞り込み、そこだけに終始して情報を収集して決めつけで相手を判断してしまう。そこから生まれる歪んだ発想も確証性バイアスの働きです。

すべてのはじまり:心理的バイアス

さて人はこのような脳活動からもたらされる生理的な思考方法の癖を持っているわけですが、生理的バイアスは真因たるバイアスを加速化したり強化したりする方法やパターン(枠組み)という存在です。

ですからどんなに生理的バイアスにドライブがかかっていたとしても、きっかけとなる概念や観念としてのバイアスがなければ動作自体が起きる余地がないということになります。この最も起爆となるバイアスのことを心理(観念)的バイアスと云います。

生理的とは機制、つまりメカニズムであり意識云々という領域よりも原始的な脳内活動です。一方心理とはいわゆる意識の領域での活動を云います。意識とは自分で現在認識として直接的に心の現象として経験し想起していることの総体を云います。

 

意識はより原始的的本能的レベルから「感覚」「感情」「観念」の三段階に分けられます。

通常は、感覚、感情、観念、記憶の多くは通常現在認識として自覚上に昇ることはありません。こういった自分で現在認識しておらず、努力しても思い出せない領域を無意識と云いますが、人には自分で現在認識してはいませんが、努力すれば思い出すことができる内容があります。これを前意識と云います。

このように人間の心理は意識・前意識・無意識の三つの領域で成り立っています。

 

意識とは脳の働きが活性化し、五感に対する刺激を感じ取ることが可能な状態ともいえます。「意識がある」とは、脳において刺激を認識することが可能であり、刺激に対し明確な反応を示す状態ということです。

これに対して、 無意識は五感に対する刺激が脳で感じ取られず、刺激を認識していない状態ということです。要するに意識とは、気づいている、または知っているといった自己認知の状態です。

例えばエアコンの稼動音、冷蔵庫が動く音、外を通過する車の音等々、周りでは何らかの音が常に鳴っていると思われますが、それらは言われてみて気づくのであって、それまでは特に考えていなかった事象です。それが自覚に上がる状態ということです。

 

心理的バイアスとはこのような人の意識に根ざした歪みや偏りのことを云います。認知相違(コグニティブ・ギャップ)は認知と認知のズレです。それは双方、自分はコモンであっても互いに相手はバイアスであるということです。しかしそれは時には双方ともにバイアスということも多々あるのが実際のところです。

何にしても生理的バイアスがそれぞれの認知に拍車をかけたとして、必ずその認知を想起させたきっかけがあるはずです。それが意識領域における心理的認知要因(コグニション・ファクター)です。ここでは様々な葛藤(コンフリクト)の要因として心理的バイアスと称することにします。

意識の構造:心理的バイアスを生み出す根源 

意識は感覚、感情、観念が織り混ざった存在として発動されますが、本能に近いレベルから強い影響を与えます。感覚が感情に、感情が観念にと言った具合にです。つまり感情は感覚に影響され、観念は感情に強く影響されて意識化されるということになります。

具体的には快感はポジティブな感情を誘発し、ポジティブな感情は良好的な想念を生み出し、反対に不快感はネガティブな感情を誘発し、ネガティブな感情は嫌悪的な想念を生み出すという連鎖になります。この連鎖関係が発芽期にどう構築されたかが大きな心理的バイアス設定のきっかけとなるわけです。

 

感覚は、生理学としては分類された知覚にあたりますが、単なる五感的としての受容的体感のみならず、もっと高次な認知の仕方(文化的・社会的な物事の感じ方)、更には不安や類推などといった心の動きもその範疇に含まれてきます。(「日本人の感覚では……」「新感覚」)。

なぜならば、生理的な感覚もその存在としては神経系統を経て知覚される客観として「無意識的に因果性を設定する知覚の機能によって生じたもの」ですが、全ての客観自体が認識の担い手である主観の認識作用に依存して成立しているという存在である(ショーペンハウアー)以上、他に存在する感覚と同じ範疇に属するからです。

 

高次における感覚の中で最も顕著な代表が欲求感覚です。欲求とは何かを欲しいと思う心で、それを満たすために何らかの行動・手段を取りたいと思わせ、それが満たされたときには快(感)を感じる感覚のことです。欲求感覚も生理的(本能的)なレベルのものから、社会的・愛他的な高次なものまでがあります。欲求は認知のような心の働きや行動を決定する際に重要な役割をもつ感覚です。

人の欲求には2つのパターンがあります。接近欲求と回避欲求です。双方ともに本能として自分に益となると判断した事象にはより近づこうとし、反対に自分に損になると判断した事象は遠ざけようとする感覚行動です。

前者はポジティブな感情や動機付けを誘引し、後者はネガティブな感情や動機付けを誘引する起爆になります。積極的に関わろうとする行動とか嫌々ながらにする行動といったことはこの欲求感覚に導かれた感情が引き起こします。

この欲求感覚を引き起こす初期設定となる要素こそが心理的バイアスの根本です。同じ事象でもそれを是として初期設定したのか、反対に非として初期設定したのかで、全く真逆の感覚やそれに伴う感情を誘引し、応じた認知を想起することになってしまいます。

 

私は昔ウニが嫌いで全く食べられませんでした。思い起こせば一番初めに食した時、瓶詰めの臭みが嗚咽を産んだのが擦り込みだったように思えます。25歳位の時にとある食品系の企業経営者にその話をしたら、美味しい寿司屋に連れていってもらうことになり、そこで食した生ウニに愕然とした経験があります。

以来ウニは大好物ですが、未だに瓶詰めは苦手です。これは経験による初期設定ですが、未経験でも人は刻印づけられることがあります。

私はもう一つシャコえびが苦手です。これは最初にシャコを見た時に、航空関係者だった父が「全日空の東京湾での事故の時に遺体に一杯シャコが付いていた」と云われたのをきっかけに全く食べられなくなりました。これは今でもダメです。この話は後日北海道の大韓航空機の際には遺体に一杯タラバガニが付いていたという話に繋がるのですが、私は元々カニはアレルギーなのでこれは私的にはスルーでした。

 

初期設定された自画像を変えることはできるのか?:根底に横たわるスキーマ

ともあれ人は元来前向きな性向を持った存在ですから、初期設定が認知されることはありません。初期設定の認知を是とした思考パターンが形成されます。当然人は殺しては行けませんが、初期設定で殺しても良いと擦り込まれると、人は平然と何の疑問もなく、人を殺せるのです。むしろ良いことをしたと判断する人もいるわけです。

これが刑法で云うところの確信犯です。人殺しとまではいいませんが、人に平気で暴力を振るう人にはこういった人が多数います。これを払拭するには洗脳レベルのアプローチが必要になります。

 

このように人は最初に何をどう擦り込まれたかで初期の欲求感覚が設定されます。ほんと白いキャンパスには何でも書くことができます。しかし一旦何らかの色を付けるとそれを脱色するのは至難の業です。全くの無垢にするのは不可能に近い所業になります。

初期設定はヒューリスティックのように経験則によるものや教え(それも信頼する人や愛する人など)による信念体系などが主な要因になりますが、前世の記憶というべきなのか、DNA的に組み込まれたようなものもあるようです。

何にしてもこれを書き換えたり、塗り替えたりするのは至難の業です。この擦り込みが原体験(物心がつく時期)に近ければ近いほど刻印は深く、拘りや執着は強いものになります。こういった想念をスキーマと云います。

 

さて次回は心理的バイアスにおける身近な問題について、をより具体的に深掘りしながら、相違が生み出す社会的な問題(特にハラスメント)を考えていきたいと思います。この一週間、皆さんも身近なケースを色々と考えてみてもらえますと幸いに存じます。

 

さて、皆さんは「ソモサン」?