浅慮という知性の問題がもたらす認知相違の問題を考える

遂に首都圏では緊急事態宣言が発出される状況になりました。と言っても飲食店が制限を受けるのが中心で、他は殆ど平常時と同じような様相です。

何となく政府は経済と医療の板挟みの中、行動抑止に対して公での責任を取りたくない為に、暗に日本人特有の同調圧力や正義警察による監視に期待をかけてそれを煽るような、まるで歴史的に日本人の心理に根付いたかつての五人組制度や隣組制度に由来する相互監視社会とか私刑行為(嫌がらせや集団虐め)を奨励するようなやり方を仕掛けているように見え、私的には嫌らしさを感じる気がしています。

非協力的な店に対する名称の公表などはその最たる施策と言えます。

 

それにしてもそういう嫌らしい仕掛けにいともに簡単に乗っかる人々がどうしてこうも多いのでしょうか。冷静に論理的に考えれば何か辻褄合わない、前後や他の状況と繋がらないといった事案に対しても視野狭窄で短絡に思い込みや決めつけを持って他人を攻撃する心理が私にはどうにも理解ができません。

しかし現実にはそういう事案が一杯あって、聞く耳を持たない人たちに翻弄されることが良くあります。

 

認知のゆがみを生み出す「浅慮」

そこでこの主題を探究していくと、その原因となる一つに浅慮に基づいた認知相違があるということが浮き彫りになってきました。

これは幼少期からの思考力の鍛え方に大きく起因しますが、物事を分析的に探究したり、幅広く多角的に想像したりする能力の高低さがもたらす社会的問題です。

論理的思考力の分野ではこれをWhy So(何故)&So What(それで)という表現でその加重力が問題解決能力に格差を生みだしていると紹介しています。良くいう「頭が良い」とか「学がある」という表現もこれを指しています。

深慮遠謀とは詰まるところ事実や情報の繋がりや因果関係を紐解く力が秀でているということで、この力に長けた人は漠然と提供された情報や瑕疵が潜んだ情報の真偽がしっかり見極められます。

 

深く考えない。というよりも考える力がない。これまでの人生の中で様々な人と出会いを経験してきましたが、この力の低さがもたらす色んな意味での生産性の障害には何度となく煮湯を飲まされる思いをしてきました。この力の弱い人は総じて直感的です。

因みに直感と直観は全く別というよりも正反対の存在です。思考力が研ぎ澄まされた上で手にされた直観は思考のスピードがあまりに早く、一見直感的にも見える現象です。単純な直感は感覚だけで反応するという現象です。見たまま聞いたままの情報に対して考えもなしに一般論や目先や短絡による狭い了見で判断をする反応を云います。

 

例えば、最近社会的に重視されるようになったコンプライアンスという社会的行為があります。一般的にコンプライアンスは法令遵守と訳されています。法令遵守とは公に決められた掟、つまり法律を守ると言うことですが、コンプライアンスはただ単に法律を守れば良いわけではありません。

コンプライアンスに求められるのは倫理や社会的規範、良識を守って活動することであり、法律で裁かれないからといって、道義的に許されないことを行うのは避けなくてはなりません。

つまり社会的に「おかしい」と見なされ、信用を損なうような行為を全面的に排除する、というのがコンプライアンスの本質的な定義です。こういったことは元々コンプライアンスがなぜちまたで言われるようになったのか、規制緩和に基づいた自己責任の強化や情報公開の拡張といった背景を深慮すれば容易に想像はつく話です。

 

ところが浅慮な人は、コンプライアンスは単に「法令遵守」として法的に銘記されたことを逸脱さえしなければ何をやっても良いと反応します。そして道義にも劣る行為を平然と行います。

本来「法とは最低の倫理」であるというのが立法の精神ですが、そんなことも知らない人が成人としてちまたを闊歩しているのが現実です。多くの人は大卒でもあります。中には高学歴の人の中にも見受けられます。一体大学とは日本の学校教育制度とはどういう存在なのでしょうか。不思議でなりません。

 

確かに浅慮を生み出す思考力は論理展開力という側面のみならず、持っている情報量(無知度合い)にも影響されます(思考は持っている情報の組み合わせ以上のものではない)から、最近はあまりに物知らずな人も多くいる中で、一定においては分からないわけではありませんが、ここでいう浅慮はあくまでも論理展開力を指していますので高学歴の人ほど論外ということになります。

 

いずれにしても浅慮の人たちは、その浅慮さによって自らが浅慮ということにすら気が付きませんから全ては先に進みません。まさに暖簾に腕押しです。

 

浅慮を生み出す「自己肯定感の低さ」と「ゆがんだ正義感」

こういう人たちが平然とSNSなどで誹謗中傷を行ったり、自分の行動が正義とばかりに私設警察のようにふるまうわけです。しかもそういった自分の行為に疑問すら持ちませんから始末に追えません。

 

彼らは何か意にそぐわない事象を見つけると『こいつを懲らしめよう』『社会的制裁を加えてやろう』と短絡に思考します。これが浅慮の骨頂です。特にネットでは『許せない』という気持ちが、ダイレクトに言葉として流通されます。

浅慮な人たちは自分の義のエビデンスを考える力がありませんから、それを権威に求めます。その代表が国や政府であったりマスコミという公権への妄信です。

 

観察する限りこう言った浅慮に起因する問題行動には二つの世界があるようです。

 

一つは自分のストレス管理ができない人。つまり自分の内面に対して浅慮な人です。人を誹謗中傷する人の中には「自分の方が辛い」「自分の方が劣位な状態にある」と認知している人が多くいます。

こういう人はおおよそ自己肯定感が低いという特徴があります。自己肯定感が低いならば、まずはその肯定感を上げるしか苦しみからは脱却できません。ところが安直に「人を責めることが快楽になってしまっている」「人を苦しめることで溜飲(りゅういん)を下げる」といった状態に陥っているのです。浅慮が故に内観ができず、浅慮が故に認知がずれてしまっているわけです。

 

また、人をつるし上げることに使命感を持っている歪んだ人もいます。『法が制裁できないなら、俺がやってやる』といった正義感の何たるかも深慮しない、出来ないが故に歪んだ正義感?を宿す状態になっている人です。

匿名という安全圏に隠れて正義漢ぶる。非常に卑怯です。本来弱い立場の人を守るのが正義ですから「何を持って正義を定義しているのか」が全くない悪漢です。特にモラルを外したと喧伝された人を責めるそのモラルのなさ。全く浅慮は認知を大きく歪める原動力にさえなっています。

 

こうやって外出自粛により普段の日常生活が送れず、ストレスを溜めた人たちが、浅慮が故に「ネット私刑」に走り、公権を勝手に後ろ盾にして更に正義を振りかざす「自粛警察」として暗躍するといったところです。

更にこういった浅慮人たちは、感情や欲求を抑止できないが故にネットで個人情報だけでなく親族や勤務先の情報がデマを交えて拡散していきます。これが生み出す影響よりも「人を叩くことで『いいね』がもらえる事による承認欲求の魅力の方が先に立つ」という最早情動に負けた人非人(にんぴにん)と化した状態に陥ってしまっているのです。

それが思慮の方では「自分は正しいことをやっていて、賛同してくれる人がいる」と認知して思い込みを作り、本気で「自分は社会の役に立っている」というような感覚に陥っているのですから正に悲喜劇です。

 

自分がやっていることは善意だと思い込んでいるこの浅慮さ。しかしやっていることはゲーム感覚の「人潰し」時には「人殺し」です。「対象相手は悪いことしたのだからやっていいだろう』と善悪のジャッジも全部自分でやっているわけです。

残念ながら公権は冒頭にも述べたように責任を回避すべく、返って民衆の浅慮を利用しようとする狡猾さを持っています。面倒なことはできる限り避けたいわけです。大志を持って公権機関に入る人は少数なのが現実と思います。

 

結果、警察に相談しても『もう少し様子を見ましょう』とか『実害はあるんですか』と言った反応が主体です。浅慮の波は彼らのような領域も侵食している面があります。法律もなかなか変わりません。刑事の壁が高いのは勿論、民事も同様です。

その為現状は被害者の負担が非常に大きい状態です。発信者を特定するために最低2回は裁判を起こさなければいけない。特定するのに必要なログも3カ月~半年ほどで消えてしまう。 また裁判費用も膨大に掛かります。

これではやられ損で被害者側は永遠に泣き寝入りです。これはもう人権侵害の領域にまで来ているのですが。

 

わたしもあなたも浅慮かもしれない 浅慮は感情に引っ張られマイナスのうねりとなる

本当に1億総浅慮化にだけはなって欲しくないのですが、この浅慮問題で難しいのは誰もが自分は浅慮だと思っていないことです。

まず浅慮状態を比較するのが非常に難しい。ですから主観的世界に陥ってしまいます。主観的世界はベンチマーク(標準や基準)が曖昧です。そうなると人はどうしても自分中心に物事を組み立てて基準を自分に置きます。当然認知のあり方も自分が正しいが軸になります。

 

ですから認知相違の調整は非常に困難です。「もっと深慮しろ」と言っても本人的には「自分は深慮している」と認知しそれを信じているわけですから。特に感情においては皆対等に思っていますから、まず人の話を簡単には受け入れません。まして悪感情に陥る話など耳を貸すはずもありません。浅慮な人ほどそれが加重します。そうなると権威も役立ちません。

今の所よほどの権力(政治力など)で押さえ込むしか方法はありません。しかしそれは本人的には深層ではマイナス感情で抑圧的ですから早晩反発を生じて破綻をすることになります。

 

ともあれ浅慮がもたらす問題は厄介です。深慮の人が「もっと考えてほしい」といくら願っても、知識チャージの教育や情報供給をしても咀嚼力が欠けているのですからどうしようもありません。

そしてその浅慮がマスになった時、特に怒りのような感情が集合体になった時に、集団は感情のうねりによって凶暴化します。これは感情の相乗化(ハレーション)現象ですが、ここでも浅慮がマイナス作用を助長します。

知力が弱い人たちはその力を抑えることができないからです。知力とは動物的な情動を思考力によって抑止する力のことです。浅慮がその代表です。浅慮は感情に引っ張られ、むしろ感情を正当化するように働き、そしてそれが集団圧力となってネット上で暴徒化するということになるわけです。

 

パワハラの構造も誹謗中傷とよく似ています。今回はネットでの誹謗中傷を題材に認知相違を生み出す浅慮という知性の領域を中心に話を進めました。次回はパワハラを題材に今度は認知相違をバイアスという意性の領域を中心に話を進めていきたいと考えております。

 

自分が賢いからといって人もそういうレベルで思考するとは限らない。そういう力があるとは限らないということ。また自分自身も浅慮かもしれないということを常に内観して調整しておくこと。大事なことです。

 

さて、皆さんは「ソモサン」?