認知相違について考える

皆さん明けましておめでとうございます。

新年早々に「非常事態宣言」の発出が話題となる激動の年の始まりです。

 

今年は不要不急の外出は控えるようにという要請もあって、年末年始は貯めていたビデオなどをひたすら鑑賞していましたが、これはこれで結構有意義な時間でした。

コンサルタントの商材は情報に尽きるわけですが、やはり何処かでチャージをしないとバーンアウト(燃え尽き症候群)に陥ってしまいます。

ですから日々気をつけてはいるつもりですが、どうしても仕事に直結する情報収集に偏りがちになってしまいます。そういう意味において今回のようなタイミングは雑学を含めて情報収集より情報接触を主眼としたチャージは非常に重要です。

そのようにして得た情報は今まで五里霧中に彷徨っていたことに対して意外な角度から解決の糸口をもたらしてくれたりもします。

 

「人」が抜け落ちる社会

ある宗教番組で、日本は古来神道を、後には神仏習合を心の拠り所として日本独自の精神性(大和魂)を育んできた。その日本が明治において初めて権力集中のためにそれを棄釈させた。

拠り所を失った日本人はその代わりに神仏の如く西洋から入ってきた科学技術を信奉することで心の平静を作り上げた。以来日本人は世界での稀有な技術偏重(分析的論思考偏重)の思想性を持った民族になった。

諸外国から見ても異常なほどに技術に拘り人間性を軽視する国民になったという紹介がありましたが、非常に感嘆する思いがありましたし、更に国家の体系として求められる富、力、価値(思想)の内、価値と力を敗戦によって連合軍から奪取された日本は残る富に体系を集中させる以外拠り所が無くなり、以来日本は経済に偏重した発展に猛進し、ここでも人間性を軽視して、経済と技術のみを評価基準とした歩みが、本来の日本の国力を減退させると同時に歪みを生み出しているといった紹介は、まさに最も深淵なアンコンシャス・バイアス(歪んだ思い込み)が生み出す経営や組織運営の隘路(あいろ)の根本原因を炙り出す示唆に思いました。

 

人は哺乳類の進化系として集団を持って生命を維持させる方法を身に着けた動物ですが、哺乳類が本来個性の違う存在の集合体である集団を維持するために編み出した技が「毛づくろい(グルーミング)」であり、その物理的数を超える集団形態の中で人が編み出したのが「アイ・コンタクト」、目によるグルーミングであるという学説も興味深い紹介でした。

脳科学的にも人は目と目が合った瞬間にオキシトシンが分泌されるとか、子供が最も安心するのは目と目を合わせる時であるといった話も、人間にとって最も大切なのは、無機質な経済的で技術的な生産性向上ではなく、人と人が安静的に絆を持っている状態を持っている時であり、むしろその時にこそ有機的な生産性が向上するといった組織の核心的な主題を改めて想起させてもらいました。

同時に集団における個は本来グルーミングを必要とする位相互に異質な存在であり、その関係作りは厄介でストレスフルな行動であること。だから人への関心や集団維持に対する行為は非常に面倒くさく、出来れば忌諱(きき)したい行為であること。

 

詰まるところ集団の中で権威を持つということは、人への気遣いをしなくて済むということであり、人は人を求めるくせに自分では人に力を使いたくなく、人に力を使わせようと行動する本質があるということなどが浮き彫りになってきます。

そういう視点で見ると、何らかの理由で人への傷や歪みがある人ほど、権威を持ちたがったり、人への配慮が無くなったりするといった現場のあるあるも合点がいくところです。

 

上に行けば行くほど、マネジメントサイドになればなるほど人を通しての生産性であり、人への関心や人への配慮が重要になるにもかかわらず、人に関心を持ちたくないから権威が欲しいでは矛盾も良いところです。しかしそういう人が多いのが実際です。だから組織は上手く動かないわけです。まさに認知相違の真骨頂です。

 

認知相違の行きつく先は?

今私は「コギャル」と銘打った「コグニティブ・ギャップ・レギュレーション・メソッド(認知相違調整手法)」という人の想念の在り方に端を発した人同士の仲違いやハラスメントといった悲劇、或いは内的に生じるストレスといった問題の解消を目指したアプローチのプログラムを開発して、順次具体的な手立てを組み立てて行っていますが、「認知相違」という事象は本当に人の数だけ存在しており、どこから手をつければより効果的なアプローチとなるか苦慮するところです。

 

例えば認知相違の端緒は一般には「思い込み」という事象が引き金になっているというのが象徴的ですが、思い込みとはどれくらいの深度を指すのか非常に曖昧です。ある人や集団社会では常識なことが別の人や集団社会では非常識な見方や考え方などは、片側から見ればアイデンティティであり、もう片側から見れば思い込みやバイアス(歪みや偏見)とされるといった具合で、まさに正解がない主観的な領域で最終的にはお互いがある種の妥協で握るしかないといった政治的解決の局面が多々あります。

 

昨今世をにぎわす自粛警察などは自分が正論とばかりに真剣に思い込んでいるのが実情で、「盗人にも五分の理」に近い思い込みが闊歩している有り様です。こういう人と白黒つけるのは困難です。まさに交通事故です。

 

内面においても他者から見れば他愛のないことが人によってはネガティブな思い込みとなって心を蝕むといった場合、当人は何が正解かも分からない中で、ただただ自分を責め苛むわけですから始末に追えません。これも自分の中で安息が得られるように自分の想念に妥協点を見出して自分と握ることで思い込みを緩和するしかありません。

 

また認知相違は思い込みだけでなく、無知に基づいた空想から生じる場合もあります。賢い人に見られるヘッドトリップがその最たる例です。

 

当たり前の話ですが人の思考は持っている情報の中でのみ組み立てられます。知らないことは要素にはなり得ません。しかし現実の世界は知り得ない情報の巣窟です。にも拘らず人と云うのはその足りない情報を知り得る情報で埋め合わせて恰(あたか)も完璧な正論の様に主張します。

 

皆さんもご存じの伝言ゲームなどはその最たるもので、初めの人の話と最後に伝わった人との話が全く背離していることすら多々あります。今のマスコミの喧伝などはその最たるもので、よくもまああれだけ根拠のない嘘を責任意識もなく垂れ流すな、と憤ること多数です。

本当に彼らには良心はないのでしょうか。しかしここにもヘッドトリップの悪魔が潜んでおり、彼らは自分たちの報道が真実だと思い込んでいる(思い込もうとしている)気配が濃厚にするのは最早狂気を感じる位です。

それ程自分を正当化したいか、それ程自分を優位に置きたいかと慨嘆(がいたん)する以外ありません。果たしてそういった報道をする側の「選択する権利は受け手にある」という詭弁を取るか、それでもマスコミの喧伝を鵜呑みにする浅慮な受け手を嘆くのか。どっちもどっち、これこそ認知相違の急所と云えます。

 

認知相違の終着点が自己責任に帰するのか否かは玉虫色の問題です。しかし玉虫色、つまり明確な遡及点が見出しにくいからこそおざなりにされる問題が最も大きな障害となって問題解決を阻害しているという事実から目を背けるというのは危険なことです。

それは本質からの逃避と云えます。それこそ上の立場で権威がある人が逃避を是としたならば組織運営は座礁します。

 

「人」が抜け落ちる会社

このヘッドトリップにおける最たる思い込みが「施策に人というインデックスが入っていない」と云うものです。

先般もある会社で上司が部下に「自分が管轄する実務に些少があるので人を一人その処理にあてがいなさい」と指示を出したという出来事がありました。一見すると問題はないように思えます。ところが実際の現場では実務全体に対する社員の数が足りておらず、オーバーワークになっています。

その中から一人抜けと云うのは例え数時間でも無理難題です。にも拘らず部下は現場の一人に「上からの指示だから兼務しろ」と指示を出したのです。

さて出された本人は「自分は今の仕事でも一杯一杯なのに、今までやったことのない仕事を更にやれと云われた」と意気消沈と憤りの状態です。周りでは今にも辞めようかと云った雰囲気が漂っています。

人は心を持った存在です。人工の様な頭数ではありません。この場合、指示を受けて上訴もせずに下に投げる中間の部下に人への関心がないのか、それともそもそも実際の現場を認知せずにヘッドトリップする上司の方に人への関心がないのか。この職場ではまた別の部門の上司から頭ごなしに指示が降りてきています。

中間の部下に調整能力がないとみるのか、そもそも会社に人というファクターに関心がないのか。このままでは現場は辞めていく一方で悪循環に陥ります。

 

何故現場の実態や現場の声に耳を貸せないのでしょうか。何故ヘッドトリップするのでしょうか。人への関心。この根本には最初に紹介した人間や日本人の良くない方の特質が露呈しているのかもしれません。

こういった話は中小や大企業を問わず、あらゆる職場で目にしたり耳にしたりする現象です。わが社の中でもあります。特にヘッドトリップによる認知相違は本人がそれに対してアンコンシャスなだけに罪深い事態と云えます。

認知相違は非常に深遠な問題です。根が深い。しかしだからといってそれを放置していれば何時までたっても堂々巡りを繰り返すだけです。寧ろ悪化の一途を辿ります。

 

まずは隗より始めよ。私としましては、まずは認知相違がどれだけの非生産的な状態を生み出すか、それを知って頂けるだけでも問題解決や向上の端緒に繋がると考えています。

今年も皆さんソモサンを御贔屓に願います。

 

さて、皆さんは「ソモサン」?