• 対人障害による非生産的な状況を有効に変化させるアプローチを考える

対人障害による非生産的な状況を有効に変化させるアプローチを考える

不安・緊張や対人関係の問題、うつ、依存症などなど、近年これらの悩みを抱える人はますます増えています。企業も能力不足よりもこういったことによる生産性の低下が喫緊の悩みになって来ています。ケアへのコストも含めてこのような心の病がもたらす労働生産性の低下は非常に大きなものです。

さてこのような心の病ですが、今後どのように対処して行けば良いのでしょうか。それにはまずは本質を認識する必要があります。

あなたのまわりにはメンタルの問題を抱える人や人間音痴に見える人はいますか?

心の問題には先天的な原因と後天的な原因があります。当然先天的であればその治癒や調整は非常に困難なものがあります。生理的な部分に瑕疵がある場合、「無い物ねだり」はお互いに悲しい結果を生み出します。

例えば「人の気持ちが分からない」といった場合、元々感受性というアンテナがないわけですから「もっと人の気持ちを考えろ」といっても仕方がない話なわけです。心の仕組みが分かっていない人はその判断基準を自分の既知に頼ります。そうするとどうしても問題解決を知能レベルに置いて「どうして分からないのだろう。どうして考えられないのだろう」と自分に都合が良い解釈で裁こうとします。

しかし本質は思考力ではありません。思考とはもっている情報を組み立てたり企画したりする能力ですが、そもそもの材料たる原情報がないわけですから組み立てるも考えるもないわけです。それ以前の話です。

これこそが日本の知性偏重教育の弊害です。思考力だけを評価対象にした結果です。こういう背景が知的障害には敏感だが情的障害には無関心という社会風潮を生み出しているわけです。そして情的に障害があっても知的に優秀であれば人の上に立っても大丈夫という偏見(アンコンシャス・バイアス)を助長させ、結果高学歴者でさえあればリーダーシップを任せられるといった安易な役職手配によって、思惑とは反対に組織全体の生産性がどんどんマイナス状態に陥る羽目になっていくという悲喜劇の企業が続出する構造を生み出しているのが実態です。まさに無知の産む悲劇です。

 

悲しいのはそれを見越した親が子供の情的障害をカバーしようと高学歴を目指させ、ハイソサエティの組織に入れようとする図式とそれが現実に容認される状態すらが世情では起きているということです。親は必死ですから責められるものではありません。しかし本人にその後どのような艱難辛苦(かんなんしんく)が現場で待ち受けているかを考えると笑い話ではすまされません。現状はそういった流れを称賛するレベルの低いマスコミが無学にそれを煽るのが風潮であるというのが社会の認識レベルといったところです。

 

ということで、先天的な場合は「無いものに投資すればするほどまさに“のれんに腕押し”になってこちらの資産が減る一方の羽目に陥ってしまいますよ」ということです。この場合は相手に望むのではなく、相手の持っている力の範囲で活動して貰えるようにこちらで配慮するしか手立てはありません。

 

一方後天的な場合は事情が全く異なってきます。後天的な場合は更に3つの前提によって原因や対応が変わってきます。

一つは後天的であっても原体験的な原因によるもの、物心ついた時に決定づけられたものです。二つ目は置かれている環境によって抑圧されたことが原因になって疲弊してしまっているものです。そして三つ目は大きな出来事によって心にダメージを受けたことに起因するものです。

三つに共通するのは「有る」ということです。元々のセンスは存在しているのですが、何らかの事情によって機能不全となっているということです。ですから何らかの手立てを打てば機能し出すわけです。

アンテナに例えると、アンテナ自体に対する認識がなくて使い方が分からない。アンテナが使えないままにさび付いている。アンテナが折れてしまったので修復がいる。といった按配(あんばい)でしょうか。何にせよアンテナ自体はあるわけです。

 

アンテナを修復するには一旦アンテナの機能を停止しなければなりません。その上で今の状態を点検する必要があります。慣性的・惰性的に動き続けている機能を一旦停止するにはそれなりのアプローチが求められます。その時に有効なのが「マインドフルネス」です。

動き続ける生理機能を体動的・体感的に停止させて感情をニュートラルな状態に持っていくアプローチです。またマインドフルネスは軽度の心の歪みであれば「修復」と同時に「枯渇したエネルギーの充填」の機能も持っています。ただマインドフルネスは本格的にアンテナのサビを落としたり折れたアンテナを修復させたりするアプローチではありません。それには別のアプローチが必要になります。

しかし一部の拝金主義者や狭量な盲信者が無知蒙昧(むちもうまい)にマインドフルネス万能説のような喧伝をし、それを信じ込んだ無学な人たちが思い込みで浸り込み、結果短期的な癒しにしかならず、その反動で今度は一過性のブームに落胆しはなれていくのは悲しい限りです。

かじっては辞め、かじっては辞め、を繰り返しているだけでは問題解決はしません。これに関しては軽薄に取り入れる企業の姿勢も問われるところです。心の問題には真摯な責任感が必要です。

 

愛着障害 ~後天的な心の問題を扱う~

マインドフルネスの限界は、特に原体験からもたらされる情的障害の場合に顕著です。原体験的な情的障害の最右翼に「愛着障害」があります。この用語は心理学者の岡田 尊司氏が造った言葉です。私も事象にあった用語を造ろうと苦心するのですが、今回の事象には岡田氏の言葉がピッタリするので私も引用させて頂くことにします。

 

愛着とは幼少期において対人との関係(特に親、中でも母親)から生み出される情緒です。現在の研究では幼少期における情緒に起因する障害の殆どは愛着によるという認識が主流になっています。

今回は後天的情的障害の多くを占める「愛着障害」の修復や調整に視点を当てて心の問題解決について紹介して行きたいと思います。

 

愛着障害におけるアプローチの起点は「その原点である関係性」という源流への介入です。原体験としての対人的な学習不足や自己防衛的な歪みの心構えが問題を起こしているという深層心理の改善に解決を見出します。

そもそも愛着とは「一対一から始まる関係」の起点です。人は安定した愛着が確立されて初めて、三角関係のような三者関係にも耐えられるようになります。つまり愛着が不安定な人は、一対一の二者関係の段階ですでにつまずいているということになります。

 

人は三者関係になるとそれだけで疎外感や不安を覚えやすくなります。例えば顔色ばかり見て本音が言えないといったことが起こってきます。愛着の安定化を図るということはきわめて難易度が高いセッティングなわけです。 不安定な愛着は、「対人関係の困難」、「ストレス耐性の低下」、「周囲のサポートの得にくさ」という三重苦を生じさせます。その結果、孤立、トラブル、心身の病気にいたっていきます。

そしてその自己防衛から人への無関心、感情の抑圧という行動が生まれてきます。情的障害としての反応はそもそも愛着未熟からの自己防衛から発せられているわけです。従って不安定な愛着を改善することが一連の悪循環を好循環に変えることができるということになるわけで、要するに情的障害改善の起点となるということに繋がるわけです。そしてそれはしばしば劇的な改善をもたらす所以ともなります。

 

障害の場合、症状ばかりを問題視してそこにばかり注意を向けてしまいがちですが、確かに不安定な愛着の人はそれが親であれ、配偶者であれ、誰であれ本人の良い点よりも問題点にばかり目を向け、そこばかりを責めてしまう傾向があります。自分の期待通りにできない子どもや配偶者、相手を問題視し、許せないとさえ感じてしまうわけです。しかしそれでは、症状を改善する治療に取り組むにしろ、障害として受容し、改善をあきらめるにしろ、本当はできたかもしれない本来の可能性の開花からは遠ざかってしまうことに繋がります。

そもそも症状は、助けを求めるためのサインなわけです。にも関わらず症状だけを改善する治療に励むアプローチは、せっかくのサインを消してしまっているようなもの、なわけです。症状にとらわれすぎることは、かえって問題の本質をわかりにくくします。論理は時には問題解決の本質を覆い隠してしまうこともあるのです。

 

このようなケースがあります。ある時Aさんという人が「うつがひどくて仕事を休んでいる」と母親とカウンセラーのところに相談に来ました。父親はエリートで兄も一流大学を出てエリートの道を歩んでいる家庭のようです。本人も決して成績は悪くありませんでしたが、家では超優秀な兄に比べると平凡な子と見られているようでした。

実際にはとても思いやりがあり人の気持ちがわかる人だったのですが、成績や学歴を偏重するその一家にあってはやや影が薄く見られていました。そのような中、母親は最近までまったくAさんのうつに気づいていませんでした。母親はAさんから異常を打ち明けられて戸惑うとともに、Aさんが仕事にも行けないという状態にいら立ちました。長く休んでいるとその不手際を夫に責め立てられる。その焦りから、Aさんを責め立てたり、嘆いたりするばかりでした。

 

Aさんに話を聞くと、母親にはずっと以前から、本音で話すことや相談することはなく、いいことだけを伝えるようになっていたということです。「どうしてなのか」その理由を問うと、本当のことを伝えれば母親は過剰反応し、責めたり干渉したりしてきて、大変なことになるのがわかっていたからだと言います。

ところが当の母親は「Aさんは何でも話してくれていた」と言い、「自分はとてもいい母親だ」と今でも思っているようでした。それなのに、何故こんなことになってしまったのか。不可解でたまらないようでした。そして「一体Aさんの病気は何なのか」と詰め寄らんばかりの剣幕の状態でした。

Aさんの気持ちが滅入ったきっかけは、些細な失敗を他の同僚に笑われたことから人目を気にするようになり、異様に緊張するようになったことが関係しているようでした。Aさんはそれによって自信も居場所もなくしてしまい、その傷ついた気持ちから次第に自己喪失感に囚われるようになっていったようです。

 

これは医学的には「うつ病」「社会不安障害」といった診断名がつくことになります。ウツの落ち込みに加えて、過度な緊張や不安のために人前に出るのを避けるようになる状態を「社会不安障害(社交不安障害)」と言いますが、Aさんにはその症状もあるようでした。

そこでカウンセラーは「仕事を休んでいることについては一切何も言わず、放っておいてください」と母親に伝え、その代わり本人が求めてきたら優しく関わることなどをお願いしました。同時にAさんだけでなく母親にもカウンセリングに通ってきてもらうことを依頼しました。

ところが母親はそれが面白くないようでした。Aさんの障害なのに、これでは自分にも非があると思われているのではないかということで、それが不服のようでした。そして「どうして自分がカウンセリングに来なければならないのか」としばらく抵抗していました。もう一人の子供はエリートで、「自分は立派な母親だ」という自負があるらしく、Aさんへの関わり方をとやかく言われること自体、プライドが許さないようでした。

 

しかし不満をぶつける一方、やはりAさんを心配する気持ちも強く、半信半疑ながらこちらの助言に従ってカウンセリングに通ってAさんへの関わりを変えて行きました。するとAさんの状態はみるみる落ち着き、明るくなって行きました。状態が良くなるのを見て、母親もようやく現実を受け入れるようになりました。その後のカウンセリングを通して、頑固だった母親もようやく「自分がAさんをいつの間にかに顔色一つで支配し、知らず知らずに自分の価値観を押し付け、Aさんを否定的に評価をしてきた」ことに気づくようになりました。

 

モグラたたきの愚~症状は結果にすぎない~

症状だけに囚われると感情的な反応になりやすい。そして「早く何とかしよう」と目先の症状に治療目標を置いてしまいやすい。 ところが症状にターゲットを絞った瞬間、本当の回復から大きく遠ざかってしまうことが多々あります。なぜならば多くの場合症状は問題の本質ではなく、そこから二次的三次的に生じたものであり、いちばん川下に生じている、連鎖の最終段階に過ぎないからです。

ですから、川下の問題を一時的に改善したとしても、川上の問題が変わっていなければ、またすぐ悪化することになるわけです。むしろ次第に泥沼化し、治療も行き詰まってしまうことに繋がります。心の問題の多くは川上にある問題を改善しない限り本当の回復は見えてこないケースばかりです。ではここでの川上にある問題は何だったのでしょうか。言うまでもなく不安定な愛着の問題です。

 

Aさんの母親は、「理屈っぽく知的な面では優れているが、共感能力には乏しいところがある人」でした。母親には何も本当のことが話せなかったということにも示されているように、母親はAさんの心の安全基地(港)としてはまったく機能していませんでした。ですからいつも母親の顔色を見て、合わせていたのはAさんの方だったのです。

こうしたタイプの母親は母親自体が愛着障害か発達障害の場合が多く見られます。そして育児もすべて自分の決められたルール通り(論理)に行おうとすることが多いと言えます。根っこで人の気持ちに関心が持てないため自分のルールに従って物事が進むことが「良い」ことであり、ルールから外れることは認められないわけです。

そのような背景の元、Aさんは相互的な関わり合いの中で生まれる共感性の熟成よりも、母親のルールを一方的に押し付けられ支配されて育つという心が未熟に偏る環境で育ちました。いわば「母親がルール」、価値判断の基準だったわけです。そうした場合子どもは、まず持って母親の顔色を見てそれに合わせるようになるか、それに徹底的に反抗して「悪い子」になるかの何かになります。

後者にはなれなかったAさんは、母親に認められようと本人なりに頑張ってきました。しかし母親のお眼鏡にかなった兄ほどにはその成果を認めてもらうことが出来なかったわけです。そうして常に母親の評価や顔色を気にし、否定的なニュアンスを感じては、つねに心の中で傷ついていたのです。

対人的な軸足は人の顔色に敏感で、相手に受け入れられているかに不安を持つという価値基準。それは無条件に愛してもらえず、いつ否定的な評価や拒否が返ってくるかわからない中で、身につけてしまったものと言えます。このスタイルの人は、周りが自分をどう評価するかということに自分の存在価値を左右されやすいと言えます。具体的には人目や体形を気にしやすく、身体的なコンプレックスにとらわれることも多く、社会不安障害や摂食障害にもなりやすいと言えます。

そして人に受け入れられるために常に完璧でありたいという願望も強く、その一つが崩れると、例え一面であっても本人的には何もかもがダメになったように思いがちです。そのため、うつにもなりやすいわけです。

 

Aさんの心のどこかには、自分が母親からあまり評価されていないという思いがずっとあったに違いありません。実際母親から愛されているという実感がありませんでした。就職が決まったときも、母親の反応は「喜ぶ」というよりも「厄介者が片付いた」という冷ややかさがあったということだそうです。実際Aさんは、「就職先をここに決めていいのだろうか」と迷っていた時に、母親が早く決めてほしそうにするのでそこにしたのが実際だったそうです。

 

Aさんが再び立ち上がって前に進むために必要なのは、臨時の安全基地を提供するとともに、本来安全基地となってくれる母親の機能を取り戻すことが本質だったというわけです。そのためこのカウンセラー(岡田氏)は、本人だけでなく母親への働きかけに力を注いだわけなのです。

 

事実母親が安全基地としての役割を果たせるようになると、Aさんの中に愛着が安定し、それとともに他の症状も消えていったのです。母親に気持ちを汲み取るのが苦手なところがあり、それゆえ自分の考えに囚われてしまい、最初は自分自身の問題を振り返ることができなかったのですが、そこが変わっていくことによって、Aさんとの関係もまったく違うものに変化し、そのことがAさんの成熟と自立を支え、愛着障害からの卒業に寄与することになったのです。

症状は、精神的な自立を前にしたAさんの不安からきている面もありました。自立がスムーズにいくためには突き放すよりも本音で相談したり頼ったりすることのできる安全基地の存在が必要なのです。自立は大きな試練です。そこをうまく乗り切るためには安全基地の存在が重要になります。

 

社会の可能性をつぶしてはいけない!

心に対する知識や有効なアプローチ方法を知っているか否かは、現代では死活の問題になってきています。生きる屍を量産してはいけません。

今回のケースの場合、症状は問題の本質というよりも、本当の問題を抱える母親の方が役割として機能しないことから始まる負の連鎖が行きつくところまで行き、とうとう耐え切れずに、子供の方の堤防が決壊してしまったようなもので、問題の最終結果として起きたことでした。

それ故そこだけを修復しようとしても、川上から次々と押し寄せてくる問題の源が改善されていないので事態の収拾はうまくいく筈もないし、またやっと治ったと思っても、また同じことが起きてしまうということに繋がっていたわけです。

 

この母親の立場は職場ではチームの集団規範ということもあります。誰がという個ではなく、集団的な力学や偏見が症状として個人に発せられる場合が多々あります。またチームリーダーが母親と同じ元凶になる場合も多々あります。職場で問題が起きた時に当事者だけに目を向けるのは「木を見て森を見ず」という表現そのもので、まさに愚の骨頂です。そういった無学によって組織問題を起こしている、解決の糸口を失っている組織が如何に多いことか。

 

ちなみにこれは夫婦問題も同様です。夫婦だけが当事者ではありません。母親の問題を伴侶にすり替えるのは何の問題解決にもなりません。問題解決はまず問題を直視し、原因をきちんと究明し、そして自身が当事者として問題関わるところからスタートします。そうまずはスタートさせることが肝要なのです。

 

尚、先天的な場合は症状からの対応策が重要です。先天的の場合は周りがどう足掻いても、あるいは周りの良し悪しに関わらず問題は発生します。その時は「変える」ではなく、「状況の中で有効に動く」です。心の問題に携わる場合、まずは見極めが大切です。

 

さて、皆さんは「ソモサン」