• 人は理屈的な信条よりも感情的な欲求に従って行動しようとする本性を持った存在です

人は理屈的な信条よりも感情的な欲求に従って行動しようとする本性を持った存在です

埋めがたい「現実」と「理論」の間の溝

先週NHK特集で「香港の自治権闘争」を報道していました。私は10代後半に兵庫の田舎から(その前は宮崎のど田舎)東京のど真ん中に転校することとなり、都会の喧騒の中でこれまでの個人の中の学究的な世界からいきなり様々な実社会に関わる情報に触れる日々となり、社会の現実世界に目が開かれる状態となりました。

毎日の登校で芸能人と一緒になる(極めは山口百恵さん)といった浮かれた事象だけでなく、好意を寄せていた女性から唐突に「結婚する」という現実的な一言で別れを突き付けられたり、ひょんな人との出会いから真の自治と自由、平等という自己意志を訴える学生運動に出会い、そこに傾倒したりとか激動の生活に一変しました。

 

とても短期間でしたが、この学生運動での経験は大きく私の人生観に影響を与えました。それまでは「宇宙物理という学問世界で何らかの発見をしたい」ということを理想として将来を志していたのですが、体感的な現実の幅が広がるにつれ、「自分はこの社会で現実としてどう役に立つのか」といった基本概念が根底で揺さぶられることになり、それが大学生活のあり方を激変させることになったわけです。

それは理系から文系への転向という意趣返しに繋がるだけでなく、その経緯の中で自分の生業にまで影響が及ぶことになりました。その時には思いもしませんでしたが、学生運動の中で大したことではありませんが(と本人は今でも思っています)警察の厄介になることがあり、その経歴が就職にも影響したようで当時としてはベンチャー的な企業に潜り込むことになりました。それがコンサルタントという生業との出会いになるとは不思議なものです。

 

さて短期間の学生運動と云いましたが、何故短期間だったのでしょうか。警察(のような閉鎖社会で養成された組織人)の思い込みによる決めつけといった経験などへの憤慨も体感しましたが、それでも過激派に行くこともなく、あっさりと私は運動から手を引きました。私はここに私の人生観を決定づけた理由も潜んでいます。

当時何でも見てやろう精神が旺盛な私は、学生運動で主張する考えを確かめるべく日雇いと呼ばれる労働作業に首を突っ込みました。結局はそれも体力が追い付かず3日で撃沈したのですが、その時一緒に働く方の生き様を直視するにあたり、自分の考えがいかに空論であるかを思い知りました。ここで日々を送る人たちに私の考えを述べたところで、彼らにはそれを理解する思考力も余裕もありません。日々を食うに追われる日々の彼らにとって考える余地自体がないわけです。

その現実を目の当たりにした時、自分の非力さや世界観の狭さを思い知ったわけですが、その時少なくとも実践に繋がらない思想や理屈は屁にもならないということを心に刻むと共に、それからの自分の生き様の指標としたわけです。

私がコンサルタントを生業として捉えたのは、この仕事が「理論と実践を繋ぐ仕事」と認知したのがきっかけですが、同時に私は実践に繋がらない思考はしない、と記銘したのも確かで、そういう意味において就職した企業はそれが出来る企業であると見込んだのですが。そこはまだまだ未熟であったと赤面するところです。

理論が見落としている人間の「現実」 ~理非分別の空虚:本能・欲求・感情「でしか」動かない~

NHK特集を見ていてつくづく思ったのは、香港の自治独立を訴える人々とそれを取り締まる人の構図です。私にはどうしてもかたや未来があり一定の財力がある人と公権を失うと自らの職や立場を失う人との綱引き状態というように映ります。

韓国の光州事件などもそうですが、漫然と見ていると警察や軍隊の人には思考力はないのか、という疑念が浮かんできます。彼らには自分がやっていることへの理非分別はないのか、ということです。

しかしその時私にはかつての日雇い労働者の姿が浮かんでくるのです。そしてすべては生存と安全秩序の欲求に始まる、政治の基盤はまず「生きる保障」「食う保障」への欲求を満たすことであり、権力の基点も全てそこから生まれるという現実が脳裏をよぎるのです。満たされる者にはなかなか満たされない者の心情はわかりません。特に動物的な情動は感知できません。まさに「衣食足りて礼節を知る」です。

 

ところで、「行動理論」という理屈があります。人間の行動が意思に基づいて発せられるのならば、逆に行動によって意思を矯正することができるというもので、「禁煙」や「習慣の是正」に応用されています。これまでとは違った行動を繰り返してそれを新たな癖にして以前の習性的な行動を変容させるアプローチです。

ここで忘れてならないのが感情の存在です。行動理論は厳密には意思が感情や情動といった情緒を統制し、その情緒に従って行動が発せられるという流れの考えです。行動療法はその流れを逆行させて行動の矯正を意識的に癖づけて、感情的違和感を慣れで平準化させることから意思の状態を変容させるというのが骨子です。

行動理論における意思と感情と行動の一貫的繋がりは、自分の本来の意思とは異なる行動を取った場合、その正当性における感情的ストレスを回避する為に自らの意思の方を書き換えてしまうという事態を生み出すこともあります。そしてあたかもそれが最初からの自分の意思だったかのように、その後の自分の思いや行動を変えてしまうということすら起きるのです。いわゆる認知的不協和の解消です。

何にせよ、両者は同じことをメッセージしていることは確かです。それは行動を直接支配するのは知能の有無ではなく感情の動静であるというのが重要な視点であるということです。

こういう視点から先の警察や軍隊、あるいは保守派と云われる人々の動きを見ていくと様々なことが新しく浮き彫りになってきます。彼らの心理構造を考えていってみましょう。

 

あの中には最初から思いが異なる人々もいるのは確かなことでしょう。元々人の信条には多様性があります。しかしいくら信条が違うからといって同胞に銃口まで向けられるものでしょうか。こういった行為は単に信条の違いだけでは済まされない心の動きが潜んでいるはずです。

何かを動かそうとした時に重要なのは、単に理屈側から見た「信条の違い」といったレベルの話以上に、信条や思いは同じ筈なのに異なった行動を取る人たち、それも弾圧的な行動まで取る人たちの心の内側、主に感情に近い欲求レベルに踏み込んだアプローチです。そして市井(しせい)を見る限り、そういった欲求の方に従った行動選択をする人の方が多いというのが事実なのも確かなことです。

 

人が内在する感情は非常に大きな力を持っています。特に欲求に直結する感情的反応は理非分別を超える力を持っています。生活苦の経験が少ない理知に傾倒する学者然とした人たちは、心情の違いは論理的に紐解いていけば分かり合えるとしたり顔ですが、五一五事件の犬養毅首相が「話せばわかる」といったのに対して青年将校が「問答無用」と銃を撃ったように、現実は非常に感情的です。これは私の学生運動期に得た実感どおりのところです。

 

「食わなければ死ぬ」

「食わなければならない」

「食える立場を守りたい」

「自分の身内を守りたい」

「家族を食わさなければならない」

 

これらは人間のみならず無意識的に働く動物の欲求であり、本能です。社会秩序の本質も生命の保全とそのための集団社会の維持です。そして改革は維持の破壊です。それは物理環境においても信条のような心理環境においても同様です。

こういった前提の中で動きを起こすには、何よりも自己の安全保障の明確化と果実(メリット)の明確化が必須になります。そして多くの想像力のない人には体感が求められます。

 

ここで押さえるべきことの一つに「自己犠牲は何の意味もない」ということです。時折お涙ちょうだい的な振る舞いで同情を煽ったりすることで動きを起こそうとする、大いに勘違いしている人がいます。

「あの人は一生懸命だ」とか「あの人は我々を第一に考えてくれている」といった印象的な認知が動きを起こすという心理です。しかし実際には一瞬の関心を集めるだけで、なんの実りもない揺らぎを生むだけなのがオチです。彼らが求めるのはとにかく自分のメリットです。それも実存的なメリットです。彼らにメリットを与える、少なくとも損失をさせないことこそがすべてです。その欲求意思は例えバーター(等価交換)であっても二の足を踏まれるような心理レベルです。それが人間の本質なのです。

本当に現実を変えたいなら「意思」への造詣を深めるべき

中国介入による香港自治の構造は、一見すると香港サイドが保守で中国サイドが革新のように映ります。ですから変化に抵抗するわがままな市民を警察などの公権が取り締まっているように捉えられる面があります。実際に中国政府はそのように喧伝しています。それを鵜呑みにすれば公権側は自分の行動の方を正義として主張することが出来ます。警察や軍の職員は自分の行動をストレスレスな正当な行為と思い込ませることも出来ます。

しかし果たして職員たちは本気で自分たちは正しい行動をしていると認知しているでしょうか。彼らにも家族や友人がいて、日常の社会生活上での付き合いもあります。彼もそこまで愚かではありません。実際は中国の圧政がこれまでの自由を凌駕し迫害化してきていること、それを合法化しようとしていることは明白な事実です。それに従えば未来の自分たちの社会生活がどうなるか、想像も出来ていることと思います。なのにどうして報道される画面のような人でなしな行動を取るのでしょうか。

人は生きるためならば信条を曲げてでも欲求に従う。そして信条自体が教えられなくなった世代では欲求の抑止も簡単に効かなくなっている。今やそういった人材が社会の体勢になってきているという現実を直視することは重要です。

 

欲求とは何でしょうか。欲求とは思惟を満たすために何らかの行為を取りたいと思わせ、そしてそれが満たされたときにはそれを快と感じる感覚です。欲求には生理的(本能的)なレベルのものから、社会的・利他的な高次なものまで含まれます。思いや行動を決定する際に重要な役割をもつ要素といえます。

つまり欲求とは思いや信条よりもより深層的で情緒的に心の働きに作用する存在ということです。信条は欲求を駆逐する力があるということです。まして信条自体がないか乏しい人、思考力が弱い人にいたっては大きな影響力となります。

 

またマズローがいった欲求段階の考え方は深いものがあります。底辺になればなるほど直近で実感的な生理的欲求です。自己実現のような高次の欲求など生存と云った本能的欲求の力には全く歯が立ちません。また欲求のほとんどは理屈ではなく感情的な反応として発露します。行動は理屈ではなく感情に直結して生じるということです。

感情を直接支配する欲求意識。行動を促すならば、行動を管理するならば、論理ではなく感情や欲求という意思への造詣と技能が不可欠です。

 

様々な組織にとって変化とその実践が急務となっている現代、真摯に動きを起こすことに目を向けるならば、もっと真剣に意思と情緒を繋ぐ「気持ち」に対する啓発が求められるべきなのではないでしょうか。私は実体験を通してそれを強く訴えたいとJoyBizを立ち上げました。それくらい大きな問題であると認知している次第です。

 

さて、皆さんは「ソモサン」