• 心の元素たる意と情の開発や調整に目を向けることの重要性を考える

心の元素たる意と情の開発や調整に目を向けることの重要性を考える

私は心を作る三要素である「知情意」をそれぞれ「考え」「気持ち」「思い」と表していますが、時折「考え」と「思い」がどう違うのかが良く分からない、という声が耳に入ってきます。特に知と意の区別が付かない人に多いように感じます。こういう人は総じて「考え」と「考え方」をごちゃ混ぜにしているところに原因があるようです。

「考え」と「考え方」は異なります。一見言葉遊びのようですが、両社は全く異なる意味を持っています。「考え」とは論理そのものを指し示す言葉です。「君の考えを聞かせてもらいたい」などといったやり取りは「君の思考過程、論理の組み立てを教えて欲しい」という、正にその人の持っている知の在り方や使い方に焦点を当てた話と云えます。

一方「考え方」とは「考える方向性」「考える時の習性」を示している言葉です。この場合は「考え」以上に「方」の方に力点が掛かっています。

「方」とはその人の価値観であり、「思い」を定義する観念を意味しています。そう「考え方」は「思い」に対しての言い換えであり、意の領域に属する言葉になります。日本語は表意文字ですのでその扱いには注意深さが必要です。

 

~あるケース~

さて、先だってネットで気になる記事に出会いました。その見出しは「高学歴なのに発達障害という点で理解が得られず、福祉の谷間に落ちた感覚」となっています。主人公は私立の雄と称される大学のしかも最難関学部の出身者です。

そして最初は応じた就職先に勤めています。一つは出版社であり、その後国家公務員になっています。しかし何れの職場も長くはもたなかったそうです。その理由はある種の「虐め」です。

この方は就職していた間中、周囲から容赦なく罵倒されたのだそうです。「ふざけてんのか!真面目にやれよ」「高学歴なのに、どうしてそんなにバカなんだ?」「できそこない」「甘えている」「怠けているだけ」などなど。こうした罵詈雑言が続く中、彼自身はだんだん「自分は人間失格なんだ」と思い、自己肯定感が奪い去られていったそうです。

 

何故彼はそのような境遇に意陥ってしまったのでしょうか。

その理由は彼自身が抱える注意欠陥障害(ADD)と自閉症スペクトラム(ASD)にありました。でも就職中は誰もそれが分からず、その心のズレが悲劇を生み出していたのです。彼がその地獄に耐え切れずに退職したときには更に抑うつや不眠などの二次障害を発症していたそうです。

しかし彼の悲劇は発覚後に更に強まることになります。まず本人はそれによって新しい苦しみを持つことになりました。曰く「診断直後はホッとしました。予想も覚悟もしていましたし。それなのに心の奥底で拒否感が拭えませんでした。25年間、“健常者”だと思って生きてきたので。障害者になったことを受け入れられなかったんです。

それに追い打ちをかけたのが通い始めた障害者向けの就労移行支援事業所の職員の対応です。まるで子どもに対するようにゆっくり話しかけられ、『よくできましたねー』と言われたとき、『本当に障害者になっちゃったんだな』と思いました。ショックでした。『どうして自分なんだ』『なぜ誰も見つけてくれなかったんだ』。そう思うと、言いようもない怒りが煮えたぎりました」。そして慰めてくれる母親に「なんで生んだんだ」と当たったそうです。

 

次に彼を苦しめたのが周りの無理解でした。「発達障害なんて甘えだ」と責める父親と何度もつかみ合いの喧嘩になったそうです。それはもともとおとなしく内向的な性格だった本人にとっても、自らの内側にある攻撃性に戸惑った位だったそうです。

そして発達障害と診断されてからの1年間、彼はひきこもりに近い状態に陥ったそうです。ちょうどその頃社会では、背景にひきこもりの問題があったのではと指摘される事件が相次いでいました。5月には川崎市内で50代の男性が小学生らを殺傷、同6月には東京・練馬区で元農水事務次官が息子を刺殺、同7月には京都アニメーション放火事件が起きましたが、それが彼の心に更に苦しみを与えたそうです。

「いつか自分も犯罪者になるんじゃないか。父と殺し殺される関係になるんじゃないか。これはまずい。絶対にこうなってはいけない」。彼はニュースを見ながら恐怖に震えたそうです。川崎の事件をめぐってテレビやネットを中心に「(加害者は)1人で死ねばいいのに」といった主張も相次いだのですが、こうした意見は当然彼の耳にも入ることになり、「社会に迷惑をかける前に」とネットで自殺方法を調べたりしたものの実行することはできなかったのだそうです。

その代わりに拒食状態になり、夕方になると気持ちが不安定になり涙が出たのだそうです。とくに不眠は苦しかったそうです。睡眠導入剤を服用しても数時間で目が覚める。その後はこれまでに怒鳴られたり、ののしられたりした経験が何度も頭の中でよみがえったそうです。「暗闇の中で歯を食いしばって耐え、気がつくと窓の外が明るくなっている。朝になると体力を使い果たした状態でした。毎日夜になるのが怖かったです」と彼は述懐しています。肉体的にも負担は大きく、1年間で体重が一気に20キロ落ちたそうです。

 

一方で周りによれば、彼の受け答えはつねに的確で障害の特性がほとんどわからなかったそうで、彼によれば「検査では『言語理解』の能力は高いみたいで多動性もないことから普通に話しているだけではわからないかもしれない。一方で『知覚統合』が低くて、(明らかな知的障害とまではいえない)知的境界域の水準である。その為視覚からの情報をうまく処理できず、ケアレスミスが多くて地図や図表、グラフを読むのが苦手である」とのこと。

例えば「バス停で、目的地に行くバスが来ているのにぼんやりして乗り損ねたり、探している携帯が目の前にあるのに探し続けたりとか、場の空気が読めないので親密な人間関係を築くのも苦手であるとかいったことが起きている」。

 

振り返ってみると、クラスメートと好きな小説や漫画の話をしても、おもしろいと思うポイントがずれて「お前、おかしいんじゃない?」などと言われ、クラスでも孤立しがちだったそうです。それ以上に深刻だったのは教師との関係で、テストで国語と英語の成績はずば抜けているのに、数学だけは最下位に近い。得点が「4点」だったこともあって教師から注意され、必死で勉強し塾の個人指導も受けたが数学の成績は下がる一方だったそうです。

そうして精一杯努力しているのだと伝えても、教師からは「怠慢だ。真面目にやらないと将来苦労するぞ」と責められるだけだったそうです。そして大学卒業後、念願かなって就職した出版社では複数の作家を担当したが最も苦手なマルチタスクである作家たちのスケジュール管理によって失敗の連続をし、毎日上司から「学生気分はやめろ」と怒鳴られたのだそうです。

追い詰められた彼は、「やる気だけは見せなければ」と毎朝7時に出社して深夜まで残ったが、結局1年もたずに退職せざるを得なくなったのだそうです。

 

その後も公務職場なら自分に合っているのではないかと警備員のアルバイトをして学費をためて予備校に通い公務員試験に合格してある官庁に正規職員として採用されたのですが、ここでも押印するときの日付を間違えたり、経費の計算が合わなかったりといった連日ミスを繰り返すことになり、「ケアレスミスが人権問題になりかねない仕事だった為、そのストレスに耐えられず、2カ月で辞めることになったそうです。職歴を知っている上司からは『いい加減逃げ続けるのはやめろ』とまで言われたが、最早限界だったそうです。

 

彼は自身の経験を通して主張します。「兎にも角にも発達障害への理解と早期発見の大切さを訴えたいのです。もっと早くわかっていれば、最初から障害者雇用で働いていました。そうすれば二次障害で苦しむこともなかったのではないでしょうか。発達障害はクラスに1人、2人はいると言われていますから、(診断の際の参考にされる)ウェクスラー知能検査を義務化するべきだと思います」。

発達障害の人に対する無理解は「周りにいたら気持ちが悪い」「発達障害の上司を持つほうの身にもなってほしい」といったコメントに代表されます。この話の主人公はこう纏めています。「長年、“健常者”の側だったのでそういう人たちの考えも理解できます。自分も何か価値ある仕事ができるわけではありませんから。将来については、発達障害は遺伝も関係しているという説もあるし、今後自分が家庭や子どもを持つことはありません」。

 

20代の若者が「結婚はしない」と言い切るしかない社会の無理解、そして彼の話がどこまでも理路整然としているという事実こそがやりきれなさを感じさせます。彼は、障害は障害でも知的障害ではありません。高学歴者です。知と意を繋ぐ思考力は人一倍秀でているのです。でも彼は障害者です。それは情と意を繋ぐ感情(気持ち)力に障害があるのです。そして彼の立場を難しくしているのが、彼が重度ではなく境界性障害であり、健常者との端境にいるということです。

 

~情緒的障害について~

日本人は集団社会の弊害で関係障害を恐れる悪癖があります。ですから自身に対しても人に対しても個々人ではなく対人関係に中に生じる齟齬を忌み嫌い、目を背けようとします。

その為に感情的な育成が放置される傾向にあります。ですから多くの人は自らの感情の管理が不得手です。また他者の感情に対して鈍感です。その証に海外では一般的な心療内科を特別視したり、カウンセリングに消極的であったりします。挙句ウツを悪化させたり、自殺を引き起こしたりするケースが枚挙に暇がない状態となっています。

知的障害に対しては敏感で福祉も充実していますが、情的障害は野放しに等しい状態です。そして悲劇が増産されている毎日です。やはり知的領域偏重主義が生み出してきている弊害の大きな結果と云えるでしょう。しかし私的に本当に気になるのは障害者ではありません。障害は先天的ですので、それに応じた打開策も真摯になれば可能です。

難しいのは境界性で健常か障害かの境目の人への対応ですが、これも社会がよりきちんとこういった領域に関心を持ち、注意深く配慮すればウェルビーイングな世界はもっと広がるだろうと期待ができます。それよりも大切なのは境界的な問題が先天的な発達障害か後天的な愛着障害かという見極めです。

 

最近人への関心や対人的な情的障害に映る感受性音痴が激増しています。ネットでの誹謗中傷中毒者などはその典型です。原因を歪んだ正義感や防衛規制に持っていくコメントがありますが、例えば自分のストレスを、匿名を良いことに他者誹謗によって解消する輩の存在などは、その無責任さや狡猾さなどいじめの比ではなく、またそれを分別あるはずの成人が憂さ晴らしに自覚もなく行なっている姿はまさに病んでいるという他に表現の仕様がありません。

人の情的な動きは反射的に発動しますが、それを抑止するのは知ではなく意の領域です。静態的な考えではなく動態的な思いが感情の有り様を左右するのが心の仕組みという原則の認識は重要です。感情の抑制が出来ないということは即ち意、思いが歪んでいるか、思い自体がないということに繋がるからです。やって良いこと悪いこと、人への思いやり。こういった人の思いが形成されていない人が増えているのです。その原因は2つあります。

 

一つは幼少期に満足な愛情を注がれておらず、愛とか利他という概念が育まれていない人が増えているということです。そしてもう一つは日本社会の知的領域偏重主義による教育環境によって、思いや気持ちが健全に育成されない状態に陥っているということです。その末路は一目瞭然です。

利己という本能的な想念でしか物事が考えられず、拝金的なことにしか興味が持てない人材。合理に拘り前例主義に陥って創造ができない人材。人の気持ちや思いがわからない人材。対人を煙たがる人材。感謝が出来ない人材。いじめをいじめと認識できない人材。学歴しか判断基準を持ち得ない人材。人生に夢や目的が持てない人材。人と自分を比べることしか自己存在を認識できない人材。その中で空虚で自己満足でしかないプライドに縛られる人材。

そして挙句、心の自己制御ができず、すぐにウツになったり自殺にまで走ったり、若しくは他人を殺めてしまう人材などなど。その姿は阿鼻叫喚の如くで、それが後天的に作られているという実態。障害者はある程度自己認識できればその後の成長が期待できますが、境界性に映る後天的な未発達者は、自覚すら避けるので始末に追えません。私の記事を読んでも「俺は関係ない」「俺はそうではない」としか認識できないのですから。

 

欧米では宗教の教育が人格形成における意の確立に一定の貢献をしています。日本でも戦前までは武士道や仏教、神道的な教義が日本人としてのアイデンティティ作りに寄与していたのは確かです。残念ながら日本は敗戦による国体問題を契機に意の教育を強制放棄させられてしまいました。

昭和年代までは戦前戦中派の生き残りが家庭や社会で私的に日本人としてや人間としての意のあり方を伝承維持させてきましたが、徐々に減って行き、平成では経済的な充足とともに個人主義が助長され、意を考える風潮は風前の灯となります。そして令和に入ると「意?何それ。人は知さえあれば十分」「知と意は同じモノでしょう」というレベルにまで薄まってしまいました。一方それに合わせるように上記のような利己的な若者や心が脆弱な若者が増加し、最早それがマジョリティとなってきています。

 

面白いのは企業がそれによってロイヤリティを低め、人材の非生産性に泣き、国際競争力を失うという現実に直面する結果となっているにも関わらず、その流れの中で本質理解が出来なくなっており、競争衰退を国家レベルで起こしているという悲喜劇です。

「意ということがよく分からん」これが今の人の見解です。意を知で理解しようとする。情を知で測ろうとする。そういう滑稽なことが今まさに巷間で実際に起きているのです。そして心が鍛えられていない人が突発的に事件を起こしたり、自死したり、病になったりする。誹謗中傷は治りません。何が正義で何が悪かも分かりません。組織は人の意が集約できず業績は下る一方で抜本的な手が打てません。

はてさて日本丸はどこへ進んで行くのでしょうか。明治維新の立役者は30代未満です。国際的にも知は低かった。しかし意を持ち志は軒昂で、欧米の退廃を駆逐する力があった。今、日本が退廃になっている。日本人は何をなくしたのか。日本人が改めて目を向けるべきは何処なのか。人に関心がある方は是非ご一考賜りたく思います。

 

 

最後にもう一つユニークな記事を。表題は「ヨガの効果は認知行動療法に比べて『短期的』だと示される」です。

 

『これまでに示されているヨガの科学的な効果は小規模な実験によるものであり、十分にエビデンスがあるとはまだ言えませんが、予備的な実験でも不安やストレスを減少させ認知にポジティブな影響を与える可能性を示しています。

一方で、認知行動療法(CBT)といった他の治療法と比較したときの効果については十分に調査されていないということで、今回、ニューヨーク大学のナオミ・サイモン氏は新しい研究に着手したとのこと。この研究では、全般性不安障害(GAD)と診断される226人の成人を対象とし、それぞれに認知行動療法・クンダリーニヨガ・不安管理の授業のいずれかをランダムに割り当て、1日20分間ずつ12週間にわたって行ってもらいました。クンダリーニヨガはヨガの1種で、ポーズを取ることと同時に瞑想(めいそう)や呼吸法、リラクゼーションを目的とした運動、肉体への気付きなどを教えられます。

 

研究者は当初、いずれの治療法も同程度の効果だろうと考えていましたが、実験後には予想外の結果が出たとのこと。まず、不安管理の授業を受けたグループのうち、改善を報告したのは全体の3分の1でした。ヨガを行ったグループのうち改善を報告した人は、それよりも多く全体の半数でしたが、認知行動療法を受けたグループの場合は、全体の4分の3がその効果を報告したそうです。そして実験から数カ月後のフォローアップ調査では、認知行動療法を受けた人々はストレス管理の授業を受けた人々よりも症状の著しい改善を報告した一方で、ヨガを行ったグループは、ストレス管理の授業を受けた人々と症状の差異はあまりないと示されました。このことから、ヨガの効果は短期的なものだと研究者は理解しています。

 

サイモン氏は「不安を治療するためにはさまざまな選択肢が必要です。人によって治療法に対する反応は異なり、さまざまな選択肢があることが、治療のバリアを取り除く助けになります」「多くの人がヨガを含め、代替的・補完的な治療法を探しています。この研究は、少なくとも短期的には、全般性不安障害を持つ人々にとってヨガが試してみる価値のあるものだと示しました。ヨガは薬のように耐性がつき効果を得られなくなることがなく、容易に実行でき、多くの健康上の利益を持ちます」と述べています。

この研究では、なぜヨガが長期的な効果を発揮しないのかという理由については、明らかにされていません。また、Googleも実践する「 マインドフルネス」は「ストレスを軽減させる」「疾病のリスクが減る」といわれていますが、ヨガや認知行動療法の結果、被験者のマインドフルネスの度合が上昇するといったことも起こりませんでした。この理由についても研究者は記事作成時点では不明だとしています』。

 

情で情を制御できるのは短期的。情も知も根幹は意が握っているという証です。意の開発なくして知も情も始まらないとうことです。

 

さて、皆さんは「ソモサン」