• 日常に潜むアンコンシャス・バイアスが生み出すストレス社会を打破するには

日常に潜むアンコンシャス・バイアスが生み出すストレス社会を打破するには

ここまでをアンコンシャス・バイアスに入れていいかどうか悩むところですが、小話程度に。

先週部下と歩いている最中、前をいわゆる二段カットの頭をして頭頂部にはパーマを掛けた30代位の男性が歩いていました。出てきたところから推察するに、恐らくは大学病院の職員と思われます。思わず私は隣の部下に「ビジネスマンとしてああいう頭は良いのだろうか」と問いますと、部下はおもむろに「私たちの年代では清潔感を感じますけども」という回答。私は「てっぺんがパーマでモヒカンのようだが」と返事すると、何かを忖度したのかその後に回答はありませんでした。因みに部下は30代です。

 

常々アイデンティティとバイアスの関係を取り上げている私ですが、こういった日常で起きている無意識的に感情に影響するモノの見方や考え方といった価値観のズレの積み重ねが、様々な葛藤や対決を生み出す根源になっているという実態を改めて認識させられる一瞬でした。確かに私の若いときも、ビートルズの出現によってマッシュルームカットというのが流行りだし、耳よりも長い長髪は不潔かつ不良の象徴として社会や学校で強くバッシングされたり糾弾されたりしました。

私の中学などは丸刈りが校則で決められており、その曖昧な根拠と不条理さに対して反抗期であった私はそれを題材に弁論大会に登壇し、生徒から喝さいを浴びて挙句の果ては男子代表で市の大会まで出場するという大立ち回りを演じた結果、それだけ多くの教師陣から隠れ不良、左派分子のような扱いを受ける始末で、それがきっかけでその後の反骨精神的行動に走っていったという何とも軽薄な青春期だったわけですが、そういった私が二段カットには多少の違和感を覚え、「いやそれでもビジネスマン的にはないのではないか」などというやや言い訳がましい価値観を抱くのは、どこか守りの胸中に入り込んでいるのかもしれません。

 

それにしても最近のNHKは挑戦的です。果敢にLGBTQ(S)を扱う番組を放映しています。ある性同一性障害者の転換手術を通したドキュメンタリーをBSや総合放送、Eテレとすべての媒体で放映したり、ゲイをテーマにドラマ化した番組を連続モノとして深堀した放映をしたりしています。

先週もNHK総合で、それも日曜朝9時の時間帯でLGBTQの夫婦に関する番組を1時間特集していました。この番組は、「カラフルファミリー」というメッセージをモチーフに、かつて女子高生だったトランスジェンダーのパパとパートナーとして彼を愛し子どもを産んだママ、そしてその二人に子供を持たせるために2人に精子を提供したゲイの親友の3人がタッグを組んで子育てに奔走する姿をドキュメントした内容でしたが、もはやこういったテーマは民族差別の如くマイノリティ問題という異質ではなく同質の中でのバイアスに関わる問題に昇華されているのだと沈思するところです。徐々に意識的マジョリティがシフトし始めているのです。

いったい、当たり前と偏見の違いとは何でしょうか。ある漫画で人間のアイデンティティ的想念に突き刺さる風刺的な姿が描かれていました。今のコロナがこのままで推移すると、世界中で人間は下着をつける如くにマスクをするようになるというのです。そうするとこれからは人間の「見えないものを見たくなる」「見えないものを想像する」という意識を刺激し始め、だんだんマスクの下を想像して興奮し始めるというのです。

マスク越しにみえる口元の線や鼻の形からその内側を想像してエロチシズムを感じ始めるというのです。夏になって暑くなると薄地のマスクが登場してそれがますますその度をエスカレートさせたりするという風刺なのですが、私にはやけにリアルに思えます。

 

頭髪の問題もそうですが、何かがきっかけで普通が普通でなくなり、特別が特別でなくなります。通常が通常でなくなり、異常が異常でなくなります。ある時を起点にマジョリティがマイノリティになり、マイノリティがマジョリティになったりします。社会の価値基準などとはそういった移ろいやすいものが殆どです。そして太平洋戦争後に日本人の価値観が急転したように人の心も移ろいやすいものでもあります。人はどこかで社会は変化が常態であるということを、学習を積み上げる中で先天的な部分に知恵として内在しているのかもしれません。

一方で人は生理的に生命や生活を維持させるべく安全保障を希求する条件反射も持っています。これが変えたくないという反応を引き起こします。その反応は置かれている空気感や判断軸となる情報量に比例します。例えば置かれている環境、田舎のような地理や条件、就業世界のような環境が価値観や思考のレベルや柔軟性に大きく影響します。

先だって50歳を過ぎて農業に従事することになった親友と久しぶりに会話する機会を得ましたが、彼の日常生活を聞く限り、朝5時に起床してすぐに圃場に行き、9時過ぎまで働き、そこから朝食をして、また午後から別の畑に赴き夜は早々に就寝といった生活で土日はなく、年4回位のローテーションで生活していると、すべては農業経営中心になって情報はかなり偏るのはやぶさかでないというのが実感でした。

先週、山形県の置賜地区を題材にした50年前の新日本紀行をリバイバルしていて、終わりの方で現代を描いていましたが、農業従事の環境世界は50年経っても殆ど変化がないのが実態でした。親友は50代までは大きな組織で県内の様々な組織の指導をしていたし、時折東京にも出張していたのですべてを比較で見ていたし、それができるのですが、こういった環境下で初期設定され、また思考もパターン化される生活を続けている人にとって価値観を動かすということは自己否定に等しいほどのストレスとなります。

まして人は生理的に行動の合理性やそれによる安全を確保するためにパターン的な動きを取るという習性がありますから、よほどのスイッチング・コストが担保されない限り、変化へのハードルは高いと云えます。これを起こすには敗戦のような別のストレス的な衝撃を体感するか、かなりの時間をかけて徐々に納得していくしかありません。先に述べたマジョリティの移行などは年とともに若年代が勢力を持ち始め、ある基点で力の軸がシフトすることから生じます。

そのシフトが起きた時、今まで当たり前として見過ごされてきた出来事が「あれ、おかしい」とか「もしかして自分は見逃していた、見誤ってきた」ということに気が付きだします。それこそがアンコンシャス・バイアスの本質と云えます。

 

ある有名人が自殺したとします。世間では様々な憶測をします。しかし社会的なアンコンシャス・バイアスが掛かっていると見逃すことが多々出てきます。誹謗中傷で心が折れた、これは最近大勢が納得するうえで取り上げたい理由のようです。でも見方によっては、マイノリティ問題で追い詰められていたかもしれません。皆がカミング・アウトを叫ぶ中、未だに現代の多くのマスゴミのような浅慮で鈍感な輩は「心の時代」に入っているにもかかわらず、人の心を弄んでそれを生業にしています。まことに下司の限りですが、それが実体です。

そしてそれに煽られて沈思せず集団思考に流されて、それに同調する人が沢山います。戦後は道徳教育が学校でも家庭でも希薄になりましたから、内観できる人材が減り、ますます集団思考に対して批評する力をなくしてしまった社会的背景もそれを後押ししています。特に変化が乏しく日常思考を鍛えていない環境にいる人ほど正義暴力を振りかざします。

こういった人は集団が正義という安易な発想ですから、マイノリティ問題も悪の如く騒ぎ立てます。そうして社会的地位ができるほどカミング・アウトができない風潮になります。これが日本の集団主義の弊害です。マジョリティ以外は悪である。単一民族で島国的根性が同質化を周りに求め、忖度が中心となり、排除の論理が先行するのです。この風潮によって追い詰められる人は未だ数多くいます。問題はそういう視点自体を社会が持てず、自分の狭い了見で問題の論点を見ていい気になる日本人的特性です。これではグローバルの中ではますます埋もれていくだけでしょう。

 

それにしても、LGBTQを語る時もマイノリティ以上に男尊女卑を前提にモノを見ようとするバイアスが気にかかるところです。女性面でのマイノリティには好奇な目を持ち男性面でのマイノリティには拒否的な目を持つ社会的な空気を感じるのは私だけでしょうか。私的にはまずはこういった差別的なバイアスのトリートメントから真摯に取り組んでいかない限り、抜本的なヘイト問題の解決には至らないと危惧するところです。交錯する男女の在り方を考えるには、まず男女の本来の在り方をきちんとバランスし、ニュートラルしないと問題解決の動きは始まらないと思う次第です。

 

さて、皆さんは「ソモサン」